薔薇のトゲ
こんな時こそ、気を取り直してクロム様。推しの近くにいるだけで、元気をもらえる。
翌日。淡い紫色のシフォン生地のドレスを着た私は、勉強時間中ずっと、クロム様に違和感を覚えていた。
――いつもより低い声だし、子犬の話をしようにも、全く隙がない。もしかして、機嫌が悪いのかしら?
「カトリーナ様、本日は以上です」
「え? もう終わり?」
「足りないなら、課題を増やしておきましょう」
「いいえ、課題は結構です! それより、クロム先生の悩みを教えてください」
「悩み? どうしてそう思われたのですか?」
「なんとなく、沈んだ感じに見えましたので」
素直に口にしたものの、クロム様は眉根を寄せる。
「そこまでわかっているのに、なぜ……。カトリーナ様は、鋭いのか鈍いのか」
――え? 結局どっち?
「悩み、というほどではありません。カトリーナ様は先日の歓迎会で、セイボリーのルシウス殿下と懇意にされたとか。さらに、未婚の男性ばかりを集めたお茶会を主催されたと聞きました」
「ええ。でも、それは――」
クロム様のため。
今後の憂いを失くそうと、彼らの好感度を上げようとしたのだ。それにあの場には、クラリスもいた。
「すみません。教師の私が口を挟むことではありませんでしたね。ただ、人の噂は免れません。複数の男性を相手にする時は、慎重になさってください」
――何それ。もしや、はしたないって思われている?
考えてみれば、『バラミラ』のヒロインであるカトリーナは、攻略対象達を追いかけ回したり、一斉に集めて和気あいあいと過ごしたり。
ゲームの中では自然でも、現実では不自然だ。
「あの、私は別に、彼らとどうこうなるつもりはなくて……」
「責めているわけではありませんよ。カトリーナ様もお年頃ですし」
「いえ、それとこれとは……」
「いずれにせよ、教育係の私には関係ありませんね」
「そんなあ」
ついつい言葉が零れ出た。私がもっとも気になる男性は、クロム様なのに。
彼は本を抱えて一礼すると、振り返らずに退室した。
大量の課題だけを残して――。
自分の部屋に戻った私は、泣く泣く課題に取りかかる。
「書き取りに加えて詩の暗唱って、ちっとも楽しくないじゃない」
文句を言いつつも夢中になって覚えたせいで、気づけば身体が強張っていた。
「うう~ん」
私は大きく伸びをして、何気なく窓の外を見た。
すると、薔薇の花壇の前に、こちらに背中を向けて立つ黒髪の男性がいる。
「あの後ろ姿はクロム様! 大変、急がなきゃ」
「カトリーナ様、どちらへ?」
「クラリス、すぐに戻るから」
「え? 急に何……」
私は焦り、転がるように外に出た。
小走りで急ぐ私の後を、第三国家騎士団長兼護衛のタールがついてくる。
推しが薔薇の近くにいる日は、要注意。
『バラミラ』のシナリオでは、ゲームのスタートからそれほど経たないうちに、教師のクロムが薔薇のトゲに刺されてしまう。
その場に偶然居合わせたヒロインが、彼の手からトゲを抜く。
『クロム先生って、案外ドジよね』
そう言って笑っていた『バラミラ』初心者のほとんどが、ものの見事に騙された。後から出てくる暗殺者の正体に、度肝を抜かれたのだ。
『クロムって、カトリーナの教師でしょ? 教師が王女の命を狙うの⁉』
もしシナリオをすっ飛ばせば、攻略対象の好感度を上げても無駄になるかもしれない。いくら推しでも暗殺なんて嫌だから、不安要素は全てなくしておきたかった。
そんなわけで、ここは非常に重要な場面だ。
ゲームでは自動で出てくる展開でも、現実では違う。
だからこれは、サボりじゃなくって命懸け。命を懸けて、薔薇のトゲを抜きに行こう!
クロム様まであとわずかというところで、本人が気配を察して身体を捻った。
「カトリーナ様?」
「……ク、クロム、先生。ぐ、偶、然、ですね」
脇目も振らずに駆け寄ったため、息が切れたようだ。
「偶然とは思えませんね。いったいなんのご用……っ」
一瞬しかめた表情を、私は見逃さない。慌てて彼に走り寄り、有無を言わさず手を掴む。
「カトリーナ様!」
護衛のタールが慌てるけれど、彼に構っている暇はない。
「やっぱり。薔薇のトゲが刺さっているわ」
赤い色を帯びたトゲが、人差し指の根元に見えている。クロム様には悪いけど、間に合って良かった。
「カトリーナ様、手をお離しください。痛みには慣れているので平気です」
「平気なわけ、ないじゃない!」
私はトゲの刺さった指を引っ込めさせまいと、握った手に力を入れた。次いで傷口がよく見えるように持ち直し、携帯していたピンセットを取り出す。
「カトリーナ様は、ずいぶん用意がいいんですね。この程度なら、放っておいてもいい……」
「いいえ、ダメよ!」
強い口調で彼の言葉を遮った。トゲを放置したままでいると痛むし、化膿することだってある。
大好きな推しには、心も身体もこれ以上傷ついてほしくない‼
私はクロム様の手から、慎重にトゲを抜く。
「カトリーナ様、それくらい自分でできます」
「もう少しだから、動かさないで」
反論を許さず、手元に集中する。
「……よし、終わったわ」
無事に取り除けたことに満足し、満面の笑みを浮かべた。
『バラミラ』に出てくるヒロインは、いったん戻って庭師にピンセットを借りに行く。
だけど現実でのチャンスは一度きり。
私が薔薇のトゲ抜き用のピンセットを、つねに持ち歩いていたのはそのためだ。
クロム様は、トゲの抜けた指を見ながら苦笑している。
「……ありがとうございました。ですが、こんな痛みなど痛みのうちには入りません」
「いいえ、痛みになんて慣れないで。あなたが痛いと私がつらいわ。あなたはもっと、自分を大事にするべきよ」
「カトリーナ……様」




