幸せという名の……
「先生、さっき言っていたのはこの子です。可愛いでしょう?」
「……そうですね」
おや? 反応が薄い。この愛らしさに、和まない人がいるの?
「ワン、ワンワン」
「ほら、喜んでいますわ。先生にお目にかかれて嬉しいみたい」
もちろん私も。可愛い子犬をクロム様に紹介できて、とっても嬉しい。
クロム様の返事はなかった。
いつもより口数が少ないけれど、眼鏡をかけていないせいで素に近い気がする。
ちょうどその時、黄色い蝶が目の前を通り過ぎた。
「……あ、こらっ!」
子犬は私の腕をすり抜けて、短い足で蝶を追いかけ走り回る。
黄色い蝶と可愛い子犬。
私の側には素敵なあなた。
のどかな昼下がりの光景に、頬がつい緩んでしまう。
クロム様はといえば、子犬を見ながら目を細めている。笑うというより痛みを堪えているかのような表情に、私の胸は途端に切なく苦しくなった。
ファンブックのイラストと重なる姿に、意図せず言葉がこぼれ出る。
「クロム様は、どんな時に幸せを感じますか?」
「……どんな時でしょうね。カトリーナ様、急にどうされたのですか?」
「急ではなく、ずっと考えていました。クロム様の幸せは、どこにあるのかと」
前世で彼のページを開くたび、なぜか涙がこみ上げた。
私の推しは、王女の暗殺を自らの意思で中止て、夜の闇に消えていく。
つねに孤独を抱え、したくもない仕事に手を染めて。
無愛想で不器用なこの人は、今も一人で苦しんでいるのだろうか?
あなたを大切に思う人、応援している者がいることを、ずっとわかってほしかった。
そんなあなたに励まされたからこそ、今の私がここにいる。
「それで……」
「ワンワン、ワンワン」
結局、彼の答えは聞けずじまい。もう一度尋ねようとしたけれど、クロム様の関心は足下にすり寄る子犬に向いていた。
「まったくもう、いたずらっ子なんだから」
芝生だらけの子犬を抱き上げて、さりげなく勧めてみる。
「クロム先生。せっかくですから、撫でてあげてくださいな」
「いいえ、遠慮しておきます」
即答した彼は、自らの手に視線を落とす。
――暗殺者だから、血に塗れたこともある手で無垢な子犬を触るわけにはいかないと、己を責めているの?
「クロム様……」
「フェリーチェ、というのはどうでしょう?」
「……え?」
「子犬の名前です」
「それって……幸せ、という意味ですよね?」
「はい。この国の古語ですが、今の話で思いつきました。もちろん、他の名でも……」
「いいえ、いいえ。とっても素晴らしいわ!」
とっさに閃くなんて、推しはやっぱり天才だ。
「決めた。あなたの名前はフェリーチェよ」
何それ? という顔でこっちを見つめるフェリーチェは、最高に愛らしい。
私は子犬の頭を撫でながら、何度も名前を呼んでみる。
「フェリーチェ、フェリーチェ、フェリーチェ」
「…………ワン」
ようやく観念したのか、子犬が返事をしてくれた。
時々こうして過ごせたら、クロム様ともっと仲良くなれるかもしれない。
「クロム先生。これからも、この子のことをよろしくお願いしますね」
返事もないけど、否定もない。心の距離が少しだけ、縮まった気がする。
「この調子でいけば、クロム様とは仲良くなれると思うの」
「姫様は、呆れるほど前向きですね。ですが先生は、姫様の学習のために呼ばれた方です。妄想を押しつけてばかりいないで、そろそろ真面目に勉強してください」
侍女クラリスの毒舌もなんのその。私の気分は高揚している。
「それは問題ないわ。予習だって課題だって、ちゃんとこなしているもの」
「それならもうよろしいのでは? 姫様のおっしゃる通りの方だとしたら、暗殺者なのでしょう? 近づき過ぎると危険です」
「だから、平気なんだってば。クロム様は、暗殺者と呼ぶには優しすぎる性格なの。最初の任務を遂行した時、小さな彼は一晩中泣いていた。『ごめんなさい、ごめんなさい』と、繰り返し呟いて。大人になっても性格は変わらず、小動物や子供に弱いのよ。高い戦闘能力を誇る暗殺者なのに、弱いものには優しいの。そんなギャップが、たまらなく素敵でしょう?」
「何をおっしゃっているのか、全く理解できません」
「だ~か~ら~。すんごくカッコいいのに控えめだし、暗殺者なのに心優しいの。『バラミラ』の登場人物の中で誰よりも麗しく、声も深みがあってセクシーなのよ」
「声は、クロム先生ご本人のものですよね? 姫様の妄想と、現実を混同しないでください」
「もう、クラリスったら。いまだに信じてくれないのね」
「姫様こそ。いい加減、現実を見てください」
侍女のクラリスとは、いつまで経っても平行線。
こうなったら、行動あるのみ。他にクロム様と親しくなれる方法はないかしら?
首を捻る私の元に、急報がもたらされた。
「明後日、セイボリー王国のルシウス殿下がご到着されるそうです」
「そんな!」
一気に血の気が引いていく。
「姫様?」
「そんなことって……」
メインヒーローの登場が、ゲームより半月も早い。
というより、ゲームのスタート自体が阻止できなかったようだ。
「ヒロインである以上、ストーリーからは逃れられないの? ゲームに出てきた方法で暗殺を回避しなければいけないってこと?」
なんてこった。
私の推しも『バラミラ』も、一筋縄ではいかないようだ。




