子犬大作戦
せめて出された課題をこなそうと、私は翌日以降も一生懸命取り組んでいた。
「こんなはずじゃなかったのにいいいいい」
「お静かに! お慕いする殿方からの指導なら、むしろ喜ぶべきでしょう?」
「クラリスは、わかっていないのね。これって一日の量じゃないし、暇がないからクロム様の観察だってできないわ。講義の時はお顔と美声が堪能できるからいいけれど、これって作業じゃない。単調な書き取りに、意味はあるのかしら?」
裾に向かってらせん状のフリルが付いた薄緑色のドレスを着た私は、愚痴をこぼしつつもペンを走らせる。
「でしたら姫様、そろそろ休憩なさいますか?」
「ええ」
すかさず返事をした私は、新鮮な空気を肺に取り入れるため窓辺に行く。
その時ふと、建物のすぐ下で揺れる緑の葉が目に留まる。
「何かしら? ここからだと、よく見えないわ」
気になった私は、外に出て確かめてみることにした。
「カトリーナ様?」
「ごめん、クラリス。すぐに戻るから」
お茶の用意をしていた侍女に断り、扉を開ける。
すると、部屋の外で待機していた第三国家騎士団長のタールと、目が合った。
彼は、柔らかな茶色の髪に緑の瞳の可愛らしい顔立ちで、私の護衛も務めている。
このタールもヒロインの攻略対象の一人で、敏捷性が上がる【彗星の瞳】を持っているのだ。
「カトリーナ様、これからどちらへ?」
「すぐそこよ。気になるものがあったの」
足をとめずに歩きつつ、タールに応えた。ちなみにこれはサボりじゃなくって、確認作業。
勉強の合間に気分転換は必要でしょう?
二階にある自室の窓のちょうど下。
タールとともに草むらを覗き込むと、茶色い毛玉が現れた。
「クウゥ~ン」
「……か、可愛い‼」
つぶらな瞳を見るなり、私は口走る。
毛玉の正体は子犬で、全体的には茶色く、鼻の周りと胸の部分と手足の先が白い。前世で友人の家にいた、コーギー犬にも似ているような。
屈んで子犬に手を伸ばそうとすると、タールが慌てた。
「姫様! お気をつけください」
「大丈夫よ」
子犬は吠える様子もなく、いたっておとなしい。
前世の私は、実家でポメラニアンを飼っていたこともあり、扱いには慣れていた。
「ここまで逃げて来たようですね」
「逃げて来た? 誰かの飼い犬なの?」
「いいえ。城内に迷い込んだ犬が、先日庭の物置小屋で子犬を出産したと、庭師が言っていました。たぶんそのうちの一匹でしょう」
「それで、子犬のもらい手は見つかったのかしら?」
「う~ん。何匹かは引き取られたみたいですが、この犬はまだかもしれません」
「じゃあ、ここで育てられる? 物置小屋で生まれたってことは、そこで飼育できそうね」
「え? 姫様が子犬の面倒を見るんですか?」
タールは驚くけれど、この子はとても愛らしく、私は犬が好き。
クロム様のことを抜きにしても、大事に育てたい。
「早速、庭師に聞いてみましょう。足りないものがあるなら補充して、お世話をしてくれる人も募集するのよ」
私はうきうきと弾む足取りで、庭師を探す。
子犬を飼う許可が出たら、クロム様にも見せてあげよう。推しを語る上で、ファンブックに描かれた犬の存在は大きく、ファンの間ではもはや伝説となっている。
子犬の愛くるしい様子を見れば、彼もきっと和むだろう。
多くの時間を過ごすうち、飼い主の私とも仲良くなって……。
庭師に交渉した結果、物置小屋の一角を引き続き使わせてもらえることになった。
クロム様にはぜひ、子犬の名付け親になってもらおう。
翌日は朝から講義ということで、私は勉強部屋に早めに到着した。
「彼が子犬の父親代わりで、私が母親代わり。それってなんだか家族みたい♡」
一人で呟き、照れまくる。
薄紅色のドレスに付いた赤いリボンが、頬を押さえた弾みで揺れる。
続き部屋には、子犬を抱えたクラリスが待機していた。
今回の報酬として、彼女には私の髪飾りを譲る約束をしている。使っていないドレスでも良かったけれど、「胸の部分が窮屈なので、結構です」と、断られてしまったのだ。
――まさか自慢? クラリスったら、自分のスタイルの良さをさりげなく私に自慢した?
何はともあれ、クロム様。
推しは今日も凜々しく、灰色が基調の上下でも私の目には輝いて見える。
「お待たせいたしました。カトリーナ様は、ずいぶん早くからここにいらしたようですね」
「ええ。待ち遠しくて、早めに来てしまいましたわ」
「待ち遠しい、とは? 課題の量が足りませんでしたか?」
「いいえ、あれはもう十分です。そうではなくて、本日は先生に相談したいことがありますの」
「相談ごと? それなら、私より兄君に尋ねられた方が確実ではありませんか?」
「いいえ。語学に堪能なクロム先生だからこそ、お願いしたいのです」
そこで軽く咳払い。推しの注意を引きつける。
「実は私、可愛い子犬を育てることになりました。先生にぜひ、名前を付けていただきたいんです」
「子犬……ですか? 申し訳ありませんが、犬の名前は詳しくありません」
「いえ。犬ではなく、植物や人の名でも構いませんわ。抽象的な言葉でも」
クロム様は眼鏡の縁に触れた後、首をきっぱり横に振る。
「残念ですが、ご要望には添えません」
「ええっと、実際にご覧になってください。そうすれば、閃くかもしれません」
「いいえ、結構です」
あれ? クロム様がつれない。
おかしいわ。ファンブックでは、子犬を大事に抱えていたのに。
「先生、そこをなんとか……」
「わかりました。可愛いなら、『カトリーナ』では?」
「……え?」
推しの口から出た言葉が意外で、心が舞い上がる。
――もしかして、彼は私を可愛いと思っているの⁉
けれど、無表情のまま語学の本を開いた彼の姿に、心はたちまち地に落ちた。
――な~んだ。話を切り上げたかっただけなのね。ぬか喜びしちゃったじゃない。
それでなくとも子犬はオスで、カトリーナでは変だ。自分と同じ名前だと、躾も難しい。
今日も進展のないまま、講義は終了。
午後から庭園に出た私は、屈んで子犬を撫でていた。
「急にお願いしたから、ダメだったのかしら……」
「ワン!」
立ち上がって伸びをした瞬間、向こうからやって来る推しに気づく。
「クロム先生、ごきげんよう」
「カトリーナ様、こんにちは」
私は今がチャンスとばかりに、子犬を抱え上げた。




