第二節
肌に寒さを突きつけるように強く吹く風と運動部の元気な声と、リサがページをめくる音だけが私の耳に聞こえ続けていた。
その間、私は自分がどんな気持ちで私の世界と触れるリサのことを見ていたのかはわからない。
自分の感情をじっくりと観察するほど、私の心に余裕はなかったから。
暫くして、全ての音を遮るように予鈴が鳴った。
それと殆ど時を同じくして、リサは満足したとでも言うように「ふぅ」と息を溢し、ページをめくる手を止めた。
「すごい……ね」
リサはそう言った。
非常に分かりやすい感嘆の声だ。
私はどんな言葉を返せばいいのか分からなくて、言葉の代わりに小さく鼻をすすって彼女の言葉を受け流した。
けれど、リサは最初から私に言葉を返してもらうことを望んではいなかったようで、そのまま感情を吐露するように話し続けた。
「まさか燈ちゃんにこんな特技があったなんて思いもしなかったよ。……うん。本当にすごい」
「特技なんかじゃないよ。こんなの……ただの趣味だから」
自信なさげな私を見て、リサは「だったら、もっと凄いってことじゃん」と言った。
「え?」
「いや、ただの趣味でこんな凄いものを書けるって、本当に才能がないとできない事だと思うよ。それで、きっとそういうものの事をみんなは特技っていうんだと思う。だからこのノートは燈ちゃんの趣味の成果で、あなたの才能だよ」
「そんな……」
そんな大それた事は何もしていない。
私はただ私のエゴを五ミリ方眼のノートに書き綴っただけ。
私の世界をこの小さなノートに作り上げただけ。
だから私は凄い人間でもなんでもない。
なかなかリサの言葉に納得しようとしない私を見て、リサは「うーん」と唸りながら顎に手を添えて何かを考えるような素振りを見せた。
「どうしたの?」
私が問うと、リサは急に嬉しそうな顔になって「そっか」と言った。
本当に、コロコロと表情の変わる女の子だ。
そして、何度となく移り変わるリサの表情はどれも魅力的で、私は自分も同じ女の子である事を忘れて見惚れてしまう。
花に例えると何がいいのだろう。
生憎、私は彼女に見合う花を見繕い、彼女をその花に例える事が出来るほど知識を持ってはいなかった。
ともかく、リサはパッと花が咲くように私に笑顔を向け、言葉を放った。
この時、彼女から放たれた言葉が私の人生を決めた。
暗くて歪んだ世界に沈み込んでいた私を、人間の明るい世界へと引っ張りあげてくれた。のだと思う。
他の人からすれば、リサから放たれた言葉はこれと言った意味を為さないごく普通の言葉なのかもしれない。
けれど、それでも。
その言葉は確かに私の救いになった。
「面白かったよ」
そんな程度の言葉に、私の心は跳ねた。
それはもう、口から飛び出てくるのでは無いかと疑うほどに。
「燈ちゃんの書いた”小説”、面白かった」
まただ。また心が揺れ動いた。
つられて視線も泳ぐ。
「少なくとも私は面白いと思えたんだから、燈ちゃんには確かに才能があるよ。そうじゃなきゃ、こんなに素敵なお話は作れない」
そんな事は無いと否定したかった。
けれど、私は心のどこかでそうやって認めてもらう事を望んでいたようで、否定の言葉を吐き出す事は出来なかった。
「だからさ、また続きを書いたら読ませてね? 私、燈ちゃんの書く小説好きだよ」
リサ口から放たれる言葉の一つ一つが、私にとっては勿体無いほどの言葉だった。
まるで、神様からの施しを授かったみたい。
けれど、リサは神様では無い。
里咲は人間だ。私と同じ、人間だ。
里咲から渡された言葉たちも、決して施しなどでは無い。
全く汚れの無い、生々しい人間の感情。
それを、里咲は私に渡してくれた。
感情を伝い、胸の奥の方が熱くなる。
「え、あれ? どうしたの?」
里咲の動揺する声が聞こえる。
「ううん。なんでもない」
そう答える私の声は涙声だ。
いつの間に泣いていたのだろう。
自分でも、なんでこんな事になっているのかわからない。
「なんでも無いから……気にしないで」
「うそ……私、何か言っちゃダメな事言った?」
「ううん。違うよ……違う。そうじゃないの。本当になんでもないの」
両の目から溢れ出して頬を伝う涙を拭いながら、私は里咲に大丈夫と言い続けた。
けれど、言葉に反発するように涙は溢れてくる。
次から次へと、私の手のひらじゃあ掬いきれない程に。
そのまましばらく、私は泣いた。
嗚咽という表現が多分一番正しい。
私は言葉を喉に詰まらせ、苦しそうな声音で泣いた。
その間、私が泣き止むまでの間。
里咲はずっと、私の背中を摩ってくれていた。
こうして、私たちは五限目の授業をサボってしまった。