第一節
翌朝学校に行くと私の上靴には画鋲が入れられていて、私は昨日のような面倒ごとにならないよう、画鋲をゴミ箱に投げ捨てた。
学校に着いたのは朝のホームルームが始まる十分ほど前の事で、昨日のように保健室で甘ったるいコーヒーを飲んでいる暇なんてなかった。
教室に向かう足は気味が悪いほど軽く感じ、教室へ近づくほど膨らんでいくはずの心のモヤはいつもとは違って姿を現わす事すらしなかった。
だから、今日は自分でも気持ちが悪いほどにすんなりと教室が近づいてくる。
何かよくないことが起きるのだろうか。
昨日もそうだった。
うまく事が進んでいるように感じているという事実は、そのあとに起こる何かしらの出来事の予兆だ。
きっとそうなんだ。
そんなことを考えて教室の扉に手をかけたものの、クラスメイトたちは扉の開く音にこちらを見ただけでそのまますぐ雑談に意識を戻してしまった。
久しく、教室という敵だらけの空間で誰の注意も私に向かない時間だった。
こんな感覚は前回の長期休暇……冬休み以来だった。
毎度のことだ。目前に迫った非日常に意識が向けられてその他への注意が薄まる。
たとえ誰かへの怒りの感情を抱いていたのだとしても、そんなものはどうでもよくなってしまう。
それよりも来るべき連休に何をするのか考える方が有意義だからだ。
今回も例外なくそうなようで、みんなはバイトをしようという話だの、ディズニーランドに行こうという話だの、普段できないことをやろうとワイワイ盛り上がっていた。
別に私は虐められたいと思っているわけではないけれど、普段私に向いている意識が全くこちらを向いていないという感覚はなんだか物寂しかった。
あれだけ皆に放っておいて欲しいと思っておきながら、いざ放置されるとかまって欲しいと思ってしまう。
ワガママだなぁ。
そうやって自分で自分に呆れながら席に着くと、いつもは誰かがこぼした飲み物が制服に浸みて冷たいという感覚に襲われるが今日はそれがなかった。
机に何かが入れられているということもなく、それで今日は本当に平和な日なのだと私は実感した。
でも、失くした五ミリ方眼のノートはまだ見つからない。
仕方なしに数日前に新しく用意した方眼ノートを開き、私はいつも通り自分自身の世界に沈み込んだ。
昼のチャイムが鳴り、私はノートをそそくさと片付けて弁当を手に席を立つ。
その行動にすら、クラスメイトは誰一人として反応しない。
教室から出るために前側の扉に手をかけようとした時、私の意図をくみ取ったかのように扉がひとりでに開いた。
突然のことで私がビクッと驚いていると、扉を開けた主が嬉しそうに声をかけてきた。
「あ、燈ちゃん。ちょうどよかったや」
声の主であるリサは手に持っている購買のビニール袋を持ち上げて見せながら「ご飯食べよ?」と言った。
その顔には青痣が増えていて、鼻の頭に貼られた絆創膏も相まって昨日の惨劇を思い出させた。
呆然とする私がなかなか返事を言わないことに不安を覚えたのか、リサは「ダメ?」と首をかしげながら悲しそうな顔をした。
その表情を見ていると胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われて、私はよくわからないその感情から逃れるために慌てて「いいよ」と返事をした。
さっきまで私へ向いてなどいなかったクラスメイトの注意がこちらに向いていたことには気づいてはいたけれど気にしないことにする。
「ついてきて」
そう言いながら歩き出したリサに置いて行かれないよう、私も一緒に歩き出す。
教室では食べないと分かっていたから何処でご飯を食べるのだろうと不思議に思っていると、リサは階段を上って上の階へと上がっていった。
どこかの部活が使っている教室に入るのかな。と思いながらついて行くと、リサは四階に着いたところで非常階段の扉を開けて外に出た。
錆が多く、耐久性が信用できない金属製の階段は下に続いて、ここが最上階なのだから上に伸びることはない。
流石に階段を降りることはしないだろうと思い、ここでご飯を食べるのかもと考えていると、リサは「こっちだよ」と言いながら私たちが出てきた扉の隣にあった梯子に手をかけた。
そうして、リサはそのまま三メートルほどの高さを登りきり、私にも登ってくるよう促した。
私は弁当の入った巾着袋を口にくわえ、促されるままにザラザラとした錆の感覚を両の手にしっかりと覚えさせるようにゆっくりと梯子に手をかけた。
正直、登る前は少し怖かったけれど登ってしまえばなんてことはなかった。
登った先には開けた空間にその二割を占める程の大きな貯水槽があり、この場所がいわゆる屋上ってやつなのだと一目見てわかった。
まぁ、一目見なくてもここが屋上だなんてわかるのだけれど、そこは目を瞑って。
「屋上ってここから登るんだ……」
自分が登るのに使った梯子を眺めながら、思わず感嘆の声が漏れる。
そもそも、私は屋上に来れることすら知らなかった。
てっきり立ち入り禁止なのだとばかり思っていたし。
「まぁ、そもそも立ち入り禁止だしね。探そうと思わなけりゃ見つけられないよ」
ほらやっぱり。
立ち入り禁止だった。
「大丈夫なの?」
「ん?何が?」
不思議そうにリサが首をかしげる。
風にリサの綺麗な黒髪がなびいて、ミントみたいな安心するリサの香りがした。
「その……立ち入り禁止って……」
私が不安を訴えるように吃りながらいうと、リサは目を細めてカラカラと笑った。
「大丈夫だよ。バレなきゃルール破っても怒られないから」
ねっ? と嬉しそうに笑うリサの顔を見て、私はそういうものなのかとは思えなかった。
けれど、彼女の楽しそうな姿を見てそれを汚すようなことはしたくないと思い、私はそれ以上無粋なことは言わないことにした。
貯水槽の足にもたれかかるように並んで座り、いざご飯を食べようという時、リサは「そういえば」と言って購買の袋から五ミリ方眼のノートを取り出した。
「これ、燈ちゃんのだよね」
そうやって差し出されたノートを受け取り、パラパラとめくって中身を確認する。
紛れもない私のノートだった。
他人には見せられないエゴを書き綴った恥ずかしいノート。
誰にも見られたくないからと早く回収しなければと思っていたノート。
それが思わぬタイミングで戻ってきた。
「これ……私のだ」
「やっぱりね。私のじゃなかったからもしかしてって思ったんだ」
「よかった……」
ノートを抱き寄せ瞳に涙を滲ませていると、リサは「そんなに大切なものだったんだ」と申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。ビニール袋にご飯と一緒に入れたりなんかしちゃって」
本当に申し訳ないとオロオロしだしたリサに大丈夫だから気にしないでと言い、私はノートを中身のなくなった巾着袋の上に置いた。
しばらく他愛もない会話をしながらご飯を食べていると、校庭やテニスコートで野球部やテニス部が昼の練習を始めるのが見えた。
なんとなくの感覚だけれど、昼休みもあと三〇分ほどだ。
運動をする元気な部類の人たちを眺めていると、リサが「あの……さ」と口をごにょごにょさせながらいった。
「どうかした?」
その様子があまりにもしおらしくて、そんな彼女も美しくて、私は目を逸らしながら彼女に話しの続きを促した。
「ノート……なんだけどさ」
心臓がドキリと高鳴るのを感じた。
中身を見られたのかもしれないという焦る気持ちがこみ上げてきて、どうしようと思っていると、リサは思い切ったように言った。
自分自身の気持ちが真剣なものだとでもいうように。
決して馬鹿になどしていないのだというように右目に当てていた眼帯を外し、左右で異なる色の眼球を私にしっかりと表しながら、彼女は言葉を口にした。
「それ……そのノートさ……私、読んでもいい?」
胸の奥が締め付けられるような感覚がした。
正直な話、リサはきっとこのノートを読ませて欲しいと言うのだろうなと、なんとなく予感していた。
彼女がこのノートに興味を持ってしまうのだと、なんとなくわかっていた。
だから私は少しだけ胸の奥が苦しくなっても、視線が泳いでしまっても、リサにノートを読ませて欲しいとお願いされたら返そうと決めていた言葉をしっかりと返した。
昨日の事があったから、尚の事で返事は固まってしまっていた。
多分、私は見てはいけないリサの姿を見て、引け目を感じているのだと思う。
「笑わないで……ね」
「笑うはずないよ」
真剣な顔ですぐに言葉を返してくれたリサに、私はノートを差し出す。
見慣れた大切な五ミリ方眼のノート。
ずっとずっと、教室という私の居場所がない世界で私が作り続けてきた私だけの世界。
きっと、一生誰にも見せることなんてないのだろうと思ってきた。
でも今こうして私は私だけの世界をリサに見せようとしている。人生何があるかわからないものだ。
ノートを私から受け取り、リサはゆっくりとページをめくった。