第六節
右手中指付け根の骨の辺りで小さく二度ほど扉を叩く。
コンコンという小気味良い音が校内の喧騒へと溶けていく。
少しだけ間が空いて、保健室というプレートが掲げられた部屋の中から「どうぞ〜」と気の抜けたような女性の声が聞こえてきた。
私はそれを確認してから扉を開いた。
「失礼します。ドライヤー貸してもらえますか」
アケミ先生は朝と違って眼鏡をかけていて、長い髪の毛を邪魔にならないよう後ろで束ねていた。
「あらぁ、いいわよ〜。いつものとこにあるからねぇ」
アケミ先生の口調は聞き慣れたほわほわしたものだったけれど、眼鏡越しにパソコンを見つめる双眸は真剣なもので、私は邪魔をしないようになるべく早く靴を乾かしてしまおうと思った。
白を基調とした部屋の中、ガスストーブの唸るような駆動音とアケミ先生がキーボードを叩く音、私が使うドライヤーの音と制服の布ずれの音が静かに鳴り響く。
もうこの光景も何度となく見た。
アケミ先生のデスクと向かい合うような位置にあるソファに腰をかけながら、広げた新聞紙に革靴を置いてドライヤーの風をあてる。
その間、アケミ先生が真剣に何かの仕事をこなしているのを眺めていて、部屋にはわずかな種類のもの音だけが満ちている。
この時間が私は結構好きだ。
多分、自分で思っている以上にこの時間に私は幸せを感じているのだと思う。
でも、この時間に私が幸せを感じる理由はなんとなくわかる。
この空間には私に不利益を与えるものがないからだ。
むしろ、私を受け入れてくれる場所だからだ。
私が言いえぬ幸福感に満たされながら靴を乾かしていたらいつの間にかカタカタと言うタイピング音が止んでいた。
「靴、大丈夫?」
眼鏡を外して伸びをしながら、アケミ先生は「またやられたの?」と心配そうな顔を向けてくる。
「はい。また……です」
「担任の先生とかにはもう言った?」
「いえ……もう言っても意味ないので」
アケミ先生が悲しそうな顔になる。
やめてよ先生。
先生にそんな顔されたら私は苦しくなっちゃう。
「だめだよ燈ちゃん。そういうのはちゃんと相談しないと」
「……だって、何回相談しても担任の先生は何もしてくれなかったんです。だから諦めたんですよ」
「それは……」
私が乾いた声で笑うのを見てアケミ先生は言葉を詰まらせた。
そして、顎に手を添えて何かを考えた後、「じゃあ」と再び口を開いた。
「私が頑張ってみるね」
その時の先生の表情は差し込む夕日に遮られてよく見えなかった。
でも、その時の声はいつものようなほわほわしたものではなく、芯の通った鋭い声だった事は覚えている。
私が初めて知る先生の側面だった。
保健室を後にして昇降口にいくと人集りができていてやけに騒がしかった。
本当は人集りに混ざるのは好きではないのだが、人集りの原因が気になってしまうのが人間という生き物の本能の一つであり、私はその本能に突き動かされる形で野次馬の一人になった。
私以外の野次馬たちが何を話しているのかはよく分からない。
興味がないとかそういう話ではなくて、皆が皆、何かしらを話しているから音としての情報があまりにも多すぎる。
だから、結果としてどの音も耳が拾おうとしない。
小さく背伸びをしながら人集りの中心にある原因を見ようとするがなかなか見えない。
だんだん背伸びをするのが億劫になってきて、ぴょんぴょんとジャンプをしていると、「何笑ってんだよ!」と言う女性の怒鳴り声が昇降口に響いた。
その怒号に野次馬は皆静かになる。
「おい。テメェ等もなに見てんだよ!」
怒鳴り声は人集りの中央から聞こえてきて、その声に促されるように野次馬をしていた生徒たちは静かに散っていった。
皆が何事もなかったかのように去って行くにつれて人集りの元凶が見えてきた。
「何がそんなにおかしいんだよ!」
校則ギリギリの明るい茶髪の女子生徒が誰かに対して怒鳴っている。
私よりも長い髪の毛を結ばずに流しているその女の子は耳にイヤカフのようなものをつけていて、顔には苛立ちのような表情を浮かべている。
その子の周りには取り巻きのような女の子が二人居て、ヤジを飛ばしている。
そして、イライラがピークに到達したであろう女の子が思いっきり怒りの対象である誰かを蹴飛ばし、「うっ」と言う苦しそうなうめき声が聞こえてきた。
ようやく野次馬がほとんどいなくなり、明るい茶髪の女の子が怒りを抱いていた”だれか”が私の視界に入り込む。
お腹のあたりを両手で押さえて苦しそうに蹲っているのは、シミやシワの目立つ小汚いジャンパースカートの制服に身を包む女の子。
その子の髪の毛は綺麗な黒髪だ。
けれど、蹲っているせいで少女の顔は見えない。
明るい茶髪の少女が蹲っている黒髪の少女の髪を引っ張り上げる。
黒髪の少女は抵抗せずに「えうっ」と辛そうな声を零す。
正直、見ていられないほど強く髪の毛を引っ張っていて、黒髪の少女が心配になった。
私が目の前で繰り広げられている光景にオロオロしていると、明るい茶髪の女の子は黒髪の少女に向かって「聞いてんの?」と言った。
黒髪の少女は蹴られたらしいお腹がまだ痛むのか、言葉を返せない。
反応を見せない黒髪の少女に対し、続けざまに放たれた言葉に私は心臓が締め付けられる感覚を覚えた。
「なんとか言えよ! 人殺しが!」
怒りの感情を言葉に混ぜながら、明るい茶髪の少女は黒髪の女の子を突き飛ばした。
未だに苦しそうにお腹を押さえながら黒髪の女の子は「えへへ」と笑う。
その横顔は髪の毛に隠れて見えない。
でも、その声は女の子にしては低めのザラついた声で、私はその声に聞き覚えがあった。
苦しそうに笑う女の子の乱れた黒髪が揺れ、その隙間から彼女の横顔が見える。
少女は私に気づいたのか、驚いたようにこちらを振り向く。
その顔を見て私は息を飲んだ。
声でなんとなくわかっていたのだけれど、先ほどからひどい扱いを受けていた少女が。
人殺しと呼ばれた少女が、”彼女”なのだと正しく分かってしまい、私は喉のあたりが苦しくなった。
黒髪の少女は、顔に火傷を負っていた。
顔の右半分を覆うような大きな大きな火傷だ。
少女は右目に眼帯をしていた。
ファッションとして使うようなものではなくて、ガーゼのような医療目的の眼帯。
少女の眼帯をしていない側の瞳はとても綺麗な黒色をしていた。
吸い込まれそうな黒だった。
彼女には申し訳ないが、この時、私は彼女に再び見惚れてしまっていた。
惚ける私を見て黒髪の少女は微笑む。
「また明日」
彼女から……リサから放たれたその言葉を、私は聞き間違いではないかと思った。
でも、ペタンと女の子座りで座り込みながらこちらに手を振るリサを見てその言葉が聞き間違いではないことを知った。
だから私は、こみ上げてくる涙を零してしまわないよう目の前に広がる酷い光景から目を背け、学校を後にした。
彼女の言葉の深意を悟ってしまったから、私は彼女を見捨ててその場を去った。
三月の半ばとはいえ外気はまだまだ冬のそれだ。
夜空は手が届きそうなほどやけに近く感じるし、吐く息はまだまだ白い。
日が落ちて薄く群青がかかった空の下、私は一人きりで帰路に着いた。
別に珍しいことじゃない。
一人で家に帰るのはいつものことだ。
でも、今日はやけにそれが寂しく感じた。
近くて遠い夜空の星を眺めながら歩いていると、理由もなく涙が溢れてきた。
家に着くと「ご飯もうすぐできるよ」とお母さんが迎えてくれた。
とても暖かい言葉だった。
ついさっき見た光景とは違う。
人の温かさで満ちている。
けれど、私はそんなお母さんの温かさに浸れるほど心に余裕がなかった。
「わかった」と生返事を返して部屋に向かい、電気も点けずに私はベッドに寝転んだ。
学校を後にする前、リサに言われた言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
「また明日」
その言葉の深意なんて薄っぺらいものだ。
簡単な話、その場にいてほしくなくて、帰ってほしくてその言葉を発したということ。
それ以上のモノなんて言葉には何も込められていなくて、けれど、ならどうしてそんな言葉を口にしたのかと考えてしまうとキリがなくて、私は頭に湧き出してきたモヤモヤを忘れようとしていつものように五ミリ方眼のノートを開いた。