第二節
たまに怖くなる。
ふと目を逸せば里咲に与えてもらった素敵な時間の尊さが消えて無くなって仕舞いそうだから。
私の知らない内に、世界の輝きは消えて無くなってしまいそうだから。
それらはつまり、私が変わってしまった事を指し示す。
里咲の帰る場所では居られなく為ったという事を指し示す。
私は何時までも里咲の帰る場所で居続けると決めた。
だから、変化は決意の崩壊を表すものだ。
変化は私が里咲を切り捨てる事の前兆だ。
そのどれをも私は望んでいない。
絶対に避けなければならない。
けれど、気を抜けばすぐに足元を掬われてしまいそうで、私は怖くなる。
身震いがした。
「冷えてきたなぁ」
初夏の朝だ。
多少肌寒くはあるけれど、日が昇っているのに体が冷える事はない。
ただ、根拠の曖昧な身震いに理由付けをしたかっただけだ。
そうやって、誤魔化してまた日常を維持しようと思っただけだ。
「今日も宝物は見付けられなかったなぁ」
何時になれば見付けられるのだろうかと、虹の麓の宝物など”見付けられない”と分かりながらも呟く。
懇願の自己暗示だ。
きっと、何時になっても私は虹の麓には辿り着けない。
思えばある種の願掛けだった。
虹の麓には宝物がある。
その人がその時最も必要としているものに出会える。
だったら、私は虹の麓に辿り着く事ができたのなら里咲に出会う事ができる。
そう自分に言い聞かせ、雨上がりの散歩を続けてきた。
もう八年になる。
未だ、里咲には会えていない。
何時になったら里咲に会えるのだろうか。
「帰ろ」
なんだか急に冷めてきて、帰ろうと私は立ち上がった。
すると、頂上を挟んで自分が歩いてきた道の向かいに伸びる道、反対側の麓へと続く道から、誰かが歩いてくるのが見えた。
雨上がりの朝のこんな時間にこんな場所で人と出会うなんて、随分と珍しい事も在るものだと思った。
昇ってきたのは女性だった。
私よりも少しだけ背の高い、綺麗な黒髪の女性。
細身で、スタイルが良い。
女性はぎこちない足取りでふらふらと歩き、私の居る山頂に辿り着くなり頭を下げてきた。
「おはようございます」
その声は女性にしては低いもので、ザラついた声質をしていた。
「あ、おはようございます」
ぎこちなく挨拶を返すと、女性は膝に手をついて呼吸を整えながら、続ける。
「まさか、こんな所で人に出会えるなんて思いもしませんでしたよ」
女性の声は、記憶にあるあの少女の声に物凄く似ていた。
思わず女性の顔を覗き見るが、その顔に、記憶の中の少女の様な大きな火傷痕は無い。
顔の右半分を覆い隠すような大きな火傷痕も、それに準ずる傷痕も無い。
私は肩を落とした。
「私もですよ。まさかこんな場所で誰かに会うなんて、想像もしませんでした。しかもこんな時間に」
「ですよね」
女性は笑った。
私もつられて笑った。
「あなたの声、なんだかものすごく懐かしく感じます」
ふと、女性がそんな事を言った。
私は首を傾げるという疑問符を返す。
「そうですか? 私みたいな声の人は沢山居ますよ」
「違うんです。そういうのじゃあないんです」
なんだろうなぁと自身の感じた不思議な感覚に疑問を呈しながら、女性はうんうんと唸る。
その様子を見て、私は既視感を覚えた。
女性に、あの少女の事を重ねてしまう。
ふと、風が吹いた。
その風に乗り、女性の香りが私の鼻に届く。
懐かしい香りがした。
「あの……あなたはどうしてここに?」
聞かなければならない気がした。
だから、私は会話の流れを無視して迷わずに聞いた。
今度は女性が首を傾げるという疑問符を返してくる。
「私ですか?」
「はい」
女性は少し照れた様に笑うと、真摯に私の問いかけに答えてくれた。
「恥ずかしいんですけど、虹の麓を目指して散歩をしてたら此処に辿り着いたんです」
「どうして……虹の麓になんか」
心臓が締め付けられる様な錯覚を覚え、気づけば更なる問いを女性へと投げかけていた。
女性は、清々しい様子の笑顔で語る。
「そこに宝物があるからです」
「宝物?」
「宝物です。虹の麓にはその人がその時に一番必要としている何かに出会えるんです。それはものであったり人であったり様々です。あなたはどうしてここに?」
ぜひ、聞かせて欲しいなと女性は言った。
胸の奥底が一層締め付けられたが、私は声を振り絞る。
「私も、虹の麓を目指して散歩をしてたら此処に辿り着きました」
「あらら、珍しい事もあるね」
じゃあ私たちは仲間だねと言いながら女性は微笑んだ。
少し、ムズ痒いような感覚に襲われた。
その感覚はもう随分と前にも味わったことが在る。
「あなたはどうして虹の麓に?」
随分と抽象的な問いであったのだが、女性は質問の真意を確認することも無く答えてくれた。
すんなりと、哀愁を漂わせながらも。
「大切な人に出会うためです。きっと、”今は小説家に成ってくれて居るはずの大切に人”に」
女性から放たれた言葉に、私は息を飲んだ。
そんな私を余所に、あなたはどうして虹の麓に? と、女性はそっくりそのまま私の質問を返してくる。
私は、慌てて瞬きで涙を押し留めた。
そうして丁寧に気持ちを作り、口を開く。
「私も……大切な人に出会うためです。”私に小説家になるという夢を与えてくれた大切な人”に」
私たちは互いの顔を今一度見つめあった。
互いが互いを確認する様に、まじまじと。
そして、女性は何かに気づいた様に驚いた表情に為った。
多分、私も同じような表情に為って居るだろう。
女性は嬉しそうに言った。
「ずいぶんと髪が伸びたのね」
私は自らの髪を手で梳きながら、言葉を返す。
つい、顔を綻ばせて仕舞いながら。
「そっちこそ綺麗になっちゃって」
顔から火傷の痕が綺麗さっぱり無く為って居た”里咲”を見て、私は「やっと会えた」と呟いた。
安心して溢れた言葉だった。
「もう少ししたら私から燈に会いに行こうと思っていたのに、まさかこんな所で会っちゃうとはねぇ」
里咲は照れながら「失敗だ」と頬を掻く。
その様子が何だか可笑しくて、私は笑った。
「私は虹の麓に辿り着ければ里咲に会えると思ってたからね。てか、里咲もさっき虹の麓で大切な人に会う為に此処に来たって言ったじゃん」
「言ったけどさぁ」
言い淀む里咲に、私は固まる。
「え、まさか他の人?! 男なの?!」
「違う違うっ! もっとドラマティックな再会をしたかったなって事だよ」
手を振り回して慌てながら弁明をする里咲に、私は今一度笑みが零れる。
「でもさ、この再会もずいぶんとドラマティックじゃない?」
私の言葉に、里咲は「確かに」と頷く。
そして、私たちは顔を見合わせて笑った。
きっと、今の私たちには睡蓮の花が良く映える。




