第八節
「燈ちゃん! 一緒に帰ろ!」
もう当然となりつつあるその言葉に、私は「ごめん。今日からしばらく一人で帰るね」と返した。
その理由はもちろん雅さんの家に向かうからだ。
里咲の下校の誘いと私の応答はクラスメイトからすれば一種の茶番のように見えていたのだろう。
だから、私と里咲が茶番をした上でいつも通りに二人揃って帰るのだろうと、皆がそう思っていたところで私がいつもと違う言葉を返すと、教室中に微かな騒めきが生まれた。
きっと、皆からは里咲の唯一の味方である私が里咲を拒絶したように見えたのだろう。
視線が私に集まり、ちょうど聞こえない程度の音量で意味のない言葉たちが投げかけられる。
里咲の驚いた表情と悲しそうな視線も私に突き刺さって、私は居心地が悪くなった。
「ごめん」
それだけを言い残して、私は急ぐように教室を後にした。
この日は私も荒んでしまって、私と雅さんは互いを慰めあった。
何がとは言わない。
言わないが、自分は悪くないのだけれど、自分が悪いのだと分かっている。
どちらも正解で間違い。
そんな意味のない思考をしてしまう。
いつもそう。
私は自分で自分を否定して、自分の中で異なる幾つかの考えを生み出してしまって、矛盾に苦しんでしまっている。
勝手なことをして勝手に苦しんで、他人に言い訳を求めてしまっていて、総括すればただ私が悪いだけ。
けれど、里咲の悲しそうな顔が頭に焼き付いていて、あんな里咲の表情の責任が私にあって、私が彼女を悲しませてしまっただなんて思いたくはなかった。
いや、認めたくなかった。
だから私は荒んで、雅さんと慰めあった。
翌日、里咲はいつも通り一緒に帰ろうと言ってくれた。
私は彼女へと放つべき言葉を分かっていた。
言葉足らずだったのだからしっかりと補足すれば良いのだと分かっていた。
けれど、私の口から出た言葉は「ごめん」なんていう突き放すような言葉だけだった。
もう、なんだか自分が嫌になってしまいそう。
心境に変化があったわけではない。
ただ、心境に変化がないからこそ、どうすれば良いのか分からなくなってしまっただけだった。
さらに翌日、里咲はいつも通りに私に接してくれて、昼だって休み時間だって同じ時間を二人で共有した。
そして、放課後になるといつも通りに「一緒に帰ろう!」と誘ってくれた。
それが彼女の優しさなのか、それとも彼女の異常なところなのかはわからない。
もしかしたら、彼女は優しさだとかそんな無粋なことは考えず、自分が普通の人にはできないことをしているとは思いもせず、そんなことをしているのかもしれない。
拒絶された相手に歩み寄っているのかもしれない。
正直……彼女のことが、私にはわからない。
私は、
「ごめん」
そう言ってそそくさと彼女から逃げた。
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「燈ちゃん!一緒に帰ろ!」
またさらに翌日。里咲は当然のように、私へ一緒に帰ろうと誘い文句を投げかけてきた。
彼女はきっと明日も同じように私を誘う。
けれど、今日で決定的に何かが変わってしまうような、そんな気がした。
里咲が里咲で居続けてくれる、最後の日。
そんな予感がした。
だから私は、彼女の誘いに気まずい沈黙を返すことしかできなかった。
心のやり場に困り、目をそらす私を見て里咲は首を傾げた。
「最近、雅さんのところに行ってるの?」
その話は教室ではしないで欲しかった。
私みたいな人間に恋人が居たら、またクラスメイトが私に要らぬちょっかいを出してくるだろうから。
そんな事も分からないだなんて、本当、彼女は不思議な人間で無神経で、普通は考えることができるであろう一般的な気遣いが、欠片も想像できないのだろう。
…………そう。そうだ。
彼女はおかしな人間なのだ。
自分の好き勝手にゆらゆらと生きて、周りの人間を悩ませる。
いつの日かの、凛花と圭子からの警告を思い出した。
彼女たちは私に言った。
「アイツとの関係を切らないとマズい」
その時、彼女たちの言葉の意味は私にはわからなかった。
いつの日かの、名前も知らないクラスメイトからの警告を思い出した。
「あなたの人間性が殺されてしまう。まともに生きられなくなってしまう」
その時はふざけたようにも聞こえるクラスメイトの警告の意味がわからなかった。
皆が皆、どうしてまともな根拠も無く里咲を拒絶し、里咲と近しい位置にいる私を彼女から遠ざけようとするのだろうと、私はずっと疑問に思っていた。
けれど、今ならば皆の警告の意味がしっかりと理解できるような気がした。
理解できるような気がしたから、私は言った。
いや、吐き捨てた。
「里咲ちゃんには関係ないでしょ」
放たれた言葉は打ち震えていた。
どんな感情に打たれたのかはわからない。
ただ、自分では制御できないほどに震えた声が、私の口から飛び出ていた。
きっと、人々はそれを涙声という。
本当はこれだけで終わっておけばよかった。
そうすれば私と里咲は互いの関係に境界線を引くことができ、丁度良い距離感を確認することができた。
もう互いにそれ以上の距離を近付くことはなく、友達ではあるけれどどこか余所余所しい。
そんな関係を続けることができた。
甘い夢を見続けることができた。
けれど、抑えていたものは少しの解放を許してしまえば止め処なく溢れ出てしまう。
ここからは、全て私が悪い。
私の、独りよがりな最悪の独白だった。
「もし私があの人のところに行っていたとして里咲ちゃんには関係ないことでしょ。別にその事実も理由も何も里咲ちゃんが知る必要はないでしょ。だって全部私のことだもん。里咲ちゃんのことでも里咲ちゃんの家族のことでもないんだもん。てゆーかさ、いつもそうだよね。里咲ちゃんは自分に関係のない私の土俵にいつも上がりこんで我が物顔であれこれ言ってくるよね。どうして? 私たちの関係ってそういうものじゃないよね。相手にあれこれ口を出して相手を自分の理想の形にするのが友達って関係じゃないよね。私には何もわからないよ。里咲ちゃんが何を考えているのかもわからないし里咲ちゃんがどうやって生きてきたのかもわからない。でも、それは里咲ちゃんも同じでしょ。里咲ちゃんも私のこと実は何も知らないんだよ。勝手に私の世界に入り込んできて壊さないで。私の邪魔をしないで! 里咲ちゃんは私の友達でしかない、なんの関係もない他人なんだから、私の幸せを奪わないで!!」
そこで言葉を止め、乱れた息を直そうと深呼吸を始める頃には自分が教室にいるという事実を忘れてしまっていた。
皆からの冷ややかな視線が私に集まり、刺さる視線と深呼吸によって取り戻した冷静な思考で、私はやってしまったと思った。
もう、引き返すだなんて甘えた選択は許されそうになかった。
自分自身の言葉に困惑して呆然とする私に、里咲は困ったように微笑みながら「えっと、私にはよくわかんないや」と言った。
そして、何か言葉を選んで里咲へと返さなければと思考を巡らす私を置き去りに、里咲は逃げ出すように教室から出て行った。
里咲は強がって笑おうとしていたけれど、その両の瞳にはわかりやすく涙を浮かべていた。
翌日から、彼女が私に話しかけてくれることはなかった。
朝、教室に来てから夕方に下校するまで。
里咲はずっと、教室の天井にぶら下げられた光源を見つめ続けていた。
何をするわけでもなく、ただ、見つめ続けていた。
私はただ、息苦しかった。
以前のような四面楚歌の息苦しさではなく、自分が傷つけてしまった女の子が目の前で傷の処置もできずに傷つき続けているという事実が耐えられない。
そういった苦しさだった。
皆は私を傷つけていた時、同じような感覚を味わっていたのだろうか。
もしそうなのだとしたら。こんな感覚に耐え続けて私を傷つけていたのだとしたら。
そんなのは、人間にできる所業ではない。
私は、里咲を視界に映す事で込み上げてくる苦しさから逃れるように、雅さんと慰めあった。
毎日のように。何度も何度も。
このまま、ずっと私たちの関係は私の身勝手な感情に壊されたままなのだろうかと思っていた。
その矢先の事。
雅さんと付き合い始めて十日が経った頃。
六月の二十日。
朝のニュース番組で雅さんが捕まったという報道がされていた。
犯した罪は未成年に対するわいせつな行為だそうだ。
意味がわからなかった。
けれど、いつかこんな日が来るのだろうという事は、心のどこかで感じ取っていた。
形あるものはいつか壊れる。
よく聞く話だ。
けれど、形がないものだって崩れる事はある。
現に、私はその体験をした。
幸せなんて。
日常なんて。
形なくとも崩れる。
もう、笑えてしまう程にいとも容易く。




