第一節
「今日学校でしょ? いつまで寝てるの?」
そう言いながら、お母さんは布団に潜り込んだ私を揺すった。
布団のめくれた場所から冷たい空気が入り込んでくる。寒い。
「今日は行きたくない」
寝起きで全く開いていない喉に鞭を打ち、私はお母さんの言葉に抵抗をする。
「だめよ。体調が悪いわけじゃないでしょ?」
けれど、そんな私のささやかな抵抗はいつもと同じようにあっさりと切り捨てられてしまう。
お母さんは一向に布団から出ようとしない私を心配する声音で問う。
「あんた、毎日のように学校行きたくないって言うけど、何か嫌な事でもあるの?」
その声は本当に心配をしているという声色をしており、私はその声色に当てられて少しだけ申し訳ない気持ちになってしまう。
心配させたくないという気持ちになってしまう。
「んーん。別にー。ただしんどいだけだよ」
嘘をついてしまった。
これもいつも通り。
「じゃあ学校行きなさいよ。毎日のように言ってるけど、学校に行かなかったら後悔するのはあんたなんだからね」
そうやってお母さんはこれまたいつも通りの言葉を私の元に置き、部屋から去って行ってしまった。
私は仕方なしに体を持ち上げる。重い。
多分気のせいかもしれないが、自分の体が全身に錘でも身につけているかのように重い。
「きっと……心の重さなんだろうな」
そんなバカバカしいことをつぶやいて、私は私の心をほんの少しだけ重量から解き放ってあげる。
でも、そんなことで成長の遅れたこの体が元気を取り戻すわけではない。それくらいわかっている。
私は深いため息をつき、肌寒さに少しだけ震えながらベッドと勉強机の間に置かれた姿見を見た。
百五十センチと五ミリ程度の身長。
肩甲骨のあたりまで伸びた長めの髪の毛。
前髪は綺麗に切り揃えられていて、パッと見では座敷童子のようだ。
その髪の毛は綺麗な黒髪をしているというわけではなく、使っているリンスの影響なのか少しだけ茶色がかっている。
学校以外で外に出ることがほとんどないため、肌は自分でも嫌になる程真っ白だ。
その白さの中で目の下の隈が私の生活習慣の悪さをわかりやすく主張する。
これまで何度も見てきた大嫌いな自分自身の姿だ。
特にスタイルがいいわけでもなく、顔がいいわけでもない。
むしろ隈のせいで顔は最悪。
そんな自分の様子を見て再び深いため息が漏れる。
もし私が可愛くてスタイルの良い女の子だったのなら、学校に行くことがこんなにも憂鬱に感じられることもなかっただろうし、なんなら人生をイージーモードでクリアすることができたのだろう。
けれど、そんな夢物語を想像してしまうほどには私の人生は真逆のものだった。
学校なんて楽しくなくて、憂鬱で憂鬱で仕方がない。
人生は生きづらく、難しいことばかりで私は立ちはだかる壁に手を当てて諦め、しゃがみ込むばかり。
きっと、私よりも生きることが苦しい人間なんか他にはいないのだろう。
みんなみんな、心の拠り所を見つけてそれに縋り、生きることの意味を見出すことで自分の人生を正当化しているのだろう。
それが楽しい人生なのだと自らを錯覚させ、苦しいことと向き合おうとなどせずに短い人生を謳歌しているのだろう。
羨ましい。
他の人達が羨ましい。
私以外のすべての人間が羨ましい。
だって、私以外の人間は少なくとも私よりは幸福なのだから。
それがまやかしなのだとしても、夢想に浸れるだけまだマシだ。
それに騙され、苦しさを忘れて生きられるのならマシだ。
「私も……」
そっち側が良かったな。と、鏡の中の私に手を伸ばして小さく呟く。
もちろん、鏡の中の私も同じように手を伸ばし、同じように小さく呟く。
そのごく当たり前の事象に腹が立ち、私は舌打ちをしてしまう。
「あなたは違う。そんなことを言える資格はない」
だって、あなたは鏡の中の私でしょう?
「だったら……」
現実とは逆のはずだよね?
鏡へ向けて吐いた言葉とそっくり同じ言葉を鏡の中の私は返してくる。
それも当たり前だ。けれどやっぱりその事実に腹がたつ。
しばらく鏡の中の私と睨み合っていると、苛立ちに次いで虚しさがこみ上げてきた。
その感情がどこを源流に溢れ出してきているのかは分からないが、際限なくこみ上げてきて私の気分は寝起きのときよりも落ち込んでしまった。
「やっぱり学校に行かない」
なんて朝食を食べながらお母さんに言ったのだが「ダメ」とたった二文字で否定されてしまった。
お母さんの作ったポトフに息を吹きかけて少しだけ温度を下げながら「ケチ」と呟く。
なんとか適温にして口に運んだポトフは美味しかった。ジャガイモが特に。
「ケチじゃない。きっと、今後もっと学校を休みたいと思う時が来るはずだから、その時まで休むっていう選択肢を取っておかないといざというときに困るよ?」
「いまがその時だなんだって。寒くて動けないよ」
頬を膨らませながら私が言うと、お母さんは私のおでこを人差し指で弾きながら「今日だけは行きなよ。今日だけがんばれば明日は休みなんだから」と微笑みながら言った。
その瞬間の表情に私は胸が締め付けられ、苦しくなる。
私の良心がまだ健在な証拠だ。
自分が損をするタイプの人間なのではないかと思いながら、私はしぶしぶ家を後にした。
嫌々身につけた藍色のジャンパースカートの制服はところどころに染みがあり、シワも目立つ。
上から羽織ったコートは対照的に綺麗だ。
私の制服がこんな状態なのは自身の怠慢も原因である事を私は否定できないけれど、少なくとも大多数の要因は私にはない。
外に出ると前日まで降っていた雨は綺麗に止んでいて、わずかに黒ずんだ雲が疎らに浮いているものの、空は青くどこまでも続いていた。
雨上がりの週末はどこか寂しい雰囲気を孕んでいる。
いや、別に週末である必要はないけれど、とにかく雨上がりはあまりいい気分になれない。
道路の陥没した部分には水たまりができていて、空を綺麗に投影している。
その水たまりは車や道行く人に踏みつけられて歪に景色を歪める。
民家の庭に植えつけられている木々の葉には雨が雫としてまとわりついていて、空から降り注ぐ太陽光を眩しく反射させる。
その光があまりにも眩しくて、私は顔を歪めた。
嗚呼、憂鬱だ。
雨の日の翌日なんて道路が水浸しだし、校庭はぐちゃぐちゃで歩くたびに靴が汚れるし、変な羽虫が柱を作るように飛んでいるし、何一つとしていい事なんかない。
雨の日自体も同様だ。
ただでさえ楽しくない日常は雨のせいでさらにつまらなく感じられる。
「今日は学校サボっちゃおうかな」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、学校とは逆方向へ向けて歩みだす。
その何気ない選択に私の心臓は激しく脈打ち、呼吸が速くなって苦しくなる。
歩き続けていると、私と同じ制服に身を包んだ生徒と何度かすれ違い、その度に私の心臓は締め付けられたような痛みを覚えた。
そして、その痛みに耐える事ができず、元来た道を戻る事にしてしまった。
この時ばかりは私は私自身の良心が憎たらしく感じた。
いや、良心だなんて言っているけれどこれは別に特別なものというわけではなく、きっと誰にでも与えられている‘通常の感覚’って奴なのだ。
だから私は、まだ普通の人間のままでいる自分自身が憎たらしく感じているのだ。多分……。
__________
半ば恐怖に怯えるといったように、私は恐る恐る教室の扉を開けた。
朝の教室は騒がしく、昨日の夜にやっていたテレビ番組の話だとか部活動の愚痴だとか、皆が楽しそうにそう言った世間話をしている。
だから私が教室の扉を開けた瞬間はどうしようもなく異質な空間へと早変わりしてしまう。毎朝の事だ。
扉の開く音を聞いたクラスメイトたちは一斉にこちらに視線を向け、すぐに静かになる。
それに伴うように空気がピリピリとした緊張感を帯びるのを感じた。
酷く……居心地が悪い。
その感覚を押し上げてくるかのように吐き気が込み上げた。
私はぐるぐると動き回るような気持ち悪い感覚を持ったお腹と口元を押さえ、今日はまだ足を踏み入れていない教室から逃げ出した。
遠ざかる教室からは下品な笑い声が漏れだしてきて、静かな廊下の乳白色の地べたや壁に控えめに反響する。
そして、その音が私を蝕む気持ちの悪い感覚をさらに膨らませる。
吐き気を伴う感覚になんとか耐えながら、私がいつも逃げ込むのは校舎四階の女子トイレ。
普段は朝早くか放課後しか使う人のいない場所だ。
それもそう。校舎の四階は文科系の部活動に使われる教室が立ち並ぶエリアであり、運動部や帰宅部の人々には縁がいない場所だ。
そのため、今みたいな朝集会の直前の時間帯は誰一人として足を運ぶことはなく、私にとっての安全地帯となる。
トイレの電気は古臭いスイッチ式で、入り口左手にあるスイッチをカチリと押さなければ明かりが灯ることはない。
私はそのスイッチに触れることはせず、薄暗い灰色の空間へと踏み入った。
四つ並んだ個室の一番奥側に入り込み、錆が原因なのか歪みが原因なのか変に重いスライド式の鍵をかける。
そうして、ようやく私の気持ちは落ち着いた。
ここまでが毎朝の習慣となりつつある。
きっと、この後は幾つかあるパターンのどれかに私は行き着く。
担任の先生が気まぐれで探しにきて説得されるように教室に連れ戻されるか、誰も探しに来ず自ら教室へと向かうか、保健室に逃げ込んで諭されるように教室へと向かうか。
どのパターンに私が行き着くのかは特に決まってはいない。
順繰りに行き着く先が異なるというわけではない。
ただ、私は毎朝まっすぐに教室の自分の席に座ることはなく、紆余曲折を経て自分の席に座ることになる。
強いて言うなら、何があろうとどのパターンに行き着こうと教室へと向かうことになる結末は変わらない。
世界は意地悪だ。私に逃げることを許してくれない。
結局、今日は私の気分が少しだけ穏やかだったから自らの意思で教室へと向かった。
けれど、教室に近づくたびに足が重くなってゆく錯覚を覚えるのはいつも通りで、この勘違いのような感覚だけはどう頑張っても拭う事ができなかった。
「おぉ。やっと来たか」
私が沈む気持ちを抱え込みながら教室へと向かったのは二限目が始まった後のこと。
一限目から二限かけてのロングホームルームの終盤だった。
扉を開けた私に向け、担任の男の先生は呆れたように「早く席に着きなさい」と言う。
まるで、私がこの教室に足を運ばないこと自体をもうなんとも思っていないかのような言葉だった。
事実、先生はきっと私のことなどどうでもいいのだ。
私に限らず、生徒がなんらかの理由で教室にやってこない事を高校生なんだから自己責任だろと言い放ち、自らが面倒ごとに巻き込まれないように擁護する。
正直、生徒から見れば先生として最低だ。
けれど、先生も私たち生徒と同じ人間なのだ。
面倒ごとから逃げ出したいという本能的な願いを咎める資格は私にはない。
だから私は「すいません」と謝罪の言葉を先生に渡し、素直に自分の席に着いた。
立ち並ぶ木製の机達の最後列。
前から六番目。その一番廊下側の席。
それが私の席だ。
錆の目立つ金属と木で作られた椅子へと腰を下ろす。
お尻の辺りに冷んやりとした感覚があった。
その感覚に少しだけ顔をしかめる私の様子を見て、周りの生徒たちがクスクスと笑う。
机の横側に付けられている出っ張りにカバンをかけ、中から教科書とノート、それからクリアファイルと筆箱を取り出して机の中へと片付ける。
けれど、本来ならすんなりと収納することができるはずのそれらは何かにつっかえ、奥まで入ってくれなかった。
なんだろうと眉間に少しだけシワを寄せながら机の中に手のひらを突っ込んで漁る。
指先が湿った何かに触れ、私は驚いて手を引っこ抜いた。
その様子を見て、とうとう堪えられなくなったとでも言うようにクラスメイトたちはゲラゲラと笑い出した。
うるさい。
先生はクラスメイトたちを叱るわけでもなく「少しは静かにしろよー。また隣のクラスの担任に怒られるぞー」と言う。
困ったような表情を作ってはいるものの、この男は全く別の本心を持っているのだろう。きっと。
私は制服のポケットから汚れの目立たない黒の無地のハンカチを取り出し、手に着いた汚れを拭う。
それ以上のことはしなかった。
机の奥に入れられていた誰かの食べかけのシュークリームを無言で片付け、教科書やノートについてしまった甘い香りと粘つく感覚に嫌悪の感情を抱きながらも気にならないという風を装い、私はいつも通り五ミリ方眼のノートを開いて自分の世界に入り込んだ。
ここまで来たのなら大丈夫。
六限目の終わりを告げるチャイムが鳴るまで私は私の世界に入り込むことができる。
私が手に持つシャープペンシルの細い芯がザラザラとしたノートの紙に触れ、心地よい音を奏でる。
私は自分の世界に入り込んでいる間、その音しか聞こえない。
本当にその音だけしか聞こえないというわけではないけれど、私の大好きなその音が聞こえる限り、私は嫌なことから目も耳も逸らし続け、大好きなシャー芯と紙が擦れる音へと逃避することができる。
だから私にはその音しか聞こえない。
そうやっていつもと同じように自分の世界に没頭し、気づけば六限目の終了のチャイムが鳴っていた。