第一節
春休み明けの初日、教室に入った時にいつもの刺すような視線が向けられることはなかった。
その代わりとして、
「西野さん。大丈夫だった?」
と、クラスメイトである女子生徒に声をかけられた。
名前はわからない。覚えようとした事もなかったから。
今までクラスメイトから話しかけられることなんて、悪意を持ってのことしかなかった。
ましてや大丈夫? なんて言葉をかけられることもなかった。
去年と全く同じメンバーのクラスでこれまでとは大きく違った声のかけられ方をして、私の思考回路が少しだけバグを起こしてしまう。
「え……あ……え?」
なんて、困惑の声だけを漏らしていると、後ろから「邪魔」と言う声とともに軽く背を押された。
「あ、ごめん……なさい」
私に謝られ、声の主である大場凛花は鼻で笑った。
「なんで同級生なのに敬語なの。キモ」
それだけ言うと凛花は出席番号順で割り振られた自分の席に向かった。
凛花の言葉に棘のような毒性のものは”込められていなかった”。
何もかもに、違和感を感じる。
教室の空気もそうだし、クラスメイトの視線も凛花の言葉もそうだ。
何もかもが普通ではないように感じて、まるで春休み直前のあの空気感が方向性を履き違えたままで成長してしまったかのようだ。
よくわからないけれど、皆が何かを勘違いしているような、そんな気がした。
その所為で今のこの状況があるような気がした。
私は唐突にこみ上げてきた吐き気に耐えることができそうになくて、逃げるように教室から飛び出した。
校舎四階のいつものトイレに駆け込んで、跪くような形で便座に手をついて激しく嘔吐く。
自分でも驚くほど野太い声が出て、自分のものではないようなその声とともに朝に食べた食パンを吐き出した。
今までこんなことは無かったに等しかった。
嘔吐いたことは何度もあったけれど、しっかりと吐いてしまうことは無かった。
これまではちゃんと未遂で終わっていた。
これまでと今回の差はわからない。
強いて言うのなら、向けられる感情が”ネガティブなもの”か”ポジティブなもの”かの差程度だ。
さすがにこんな状態で教室に行こうとは思えなかった。
だから今日もアケミ先生に甘えさせてもらおうと思った。
久しぶりに見る校舎は春休み前と全然変わりがなくて、それは当たり前のことなのだろうけれど、周りの人々という環境が変わりつつある私は不動と変動が合わさることで一種の乖離的な感覚を感じてしまった。
リノリウムのうすら寒い乳白色が私の暗い感情を助長する。
尚も込み上げ続ける吐き気を堪えながらなんとか保健室にたどり着いたのだが、保健室にアケミ先生の姿は無かった。
代わりに居たのは白衣を着た初老の女性。
女性は私が保健室に入ると、睨みつけるようにこちらを見てきた。
「何。どうしたの」
その言葉には、毒がこれでもかというほど込められていた。
「あの……すいません。ちょっと体調が悪くて」
「どう悪いの」
「吐き気がするんです」
「理由は?」
そんなの私が知りたい。
「すいません。自分でもわからないんです」
「どうしてここにきたの」
変に突っかかってくる人だ。
私、この人が苦手かもしれない。
「ちょっと休ませてもらおうと思って」
「ああそう。でも生憎とベッドは埋まってるから、休みたいならそこのソファで休みな」
それだけ言うと、女性はいつもアケミ先生が座っていた椅子に座り、アケミ先生のデスクに置かれているパソコンで何かの作業を始めた。
嫌な予感がする。
「あの……」
「何。体調悪いなら体調悪いなりの態度をとったら?」
「あぅ……すいません」
本当に、どうしてここまで突き放すような態度を私にとってくるのだろうと思った。
私が彼女に何かをしたのだろうか。
いや、私たちは初対面なのだから私が何かをしたという線は薄いだろう。
「で、何」
散々突き放しはするけれど、結局は話を聞いてくれるようだ。
「あの、今日はアケミ先生……休みなんですか?」
「あぁ」
その声に哀れみの感情が込められているのはわかった。
無駄にこれまで他人からの感情を気にし続けてきたわけではない。
言葉に込められた感情くらいは容易に想像出来る。
込められた感情を私が察したであろう事を彼女は察したようで、そのまま言ってもいいだろうと思ったのか、私が知りたく無かった事実を、初老の女性はツンとした表情のままで包み隠すこともせずに率直に言う。
「今年度から保健室の先生は私になります。彼女はもうここには来ません」
春は新しい出会いの季節だ。
それはねじ曲げようのない事実で、齎される出会いが必ずしも望んだものであるわけではないし、必ずしも良い出会いであるとも限らない。
そして、出会いに別れはつきものだ。
出会いがあるからこそ別れも来る。
だから、春は別れの季節でもある。
半月前に在った離任式の時に、アケミ先生の名前は読み上げられなかった。
だから、私は彼女が今年度も私の拠り所として居てくれるのだろうと思っていた。
でもそれは私の勝手な解釈で、都合の良い思い込みだった。
新しくやってきた初老の女性教諭と保健室でギスギスした時間を送るよりも、教室で時間を過ごした方がまだ慣れているから幾分か気持ちが楽だろうと思って教室に行くと、既に朝のホームルームが始まっていた。
早く席に着くようにと促されて自分の席に座る。
「じゃあ全員揃ったな」
私が席に着いたのを確認すると、先生は少し待っててくれという言葉を置いて教室を出て行ってしまった。
五分ほど経つと先生が教室に戻ってきて、なぜだか困った様子で「みんなに新しい仲間を紹介する」といった。
なぜ先生が困った顔をしたのかはわからなかった。
「じゃあ入ってきて自己紹介をしてくれるか?」
先生に促され、私のクラスの新しい仲間は扉を開いた。
そして、その人物を見て開いた口が塞がらなかった。
勢いよく開かれた教室の扉。
そこに立っていた人間に皆が惹かれた。
大人っぽい微笑を浮かべた少女は眼帯こそしていなかったものの、その顔の右側半分近くを埋め尽くすように大きな火傷の跡があった。
虐げられるものを持ちながらも凛とした様子の少女は、教壇に立つと女の子にしては低めのざらついた声音でいった。
「初めまして。今日からコース転向の都合でこのクラスに入れてもらう江口里咲です。この火傷のことは気にせず、是非気軽に話しかけてください」
クラスメイトからは騒つきすら生まれなかった。
静まり返った教室に「あれ?」という間の抜けたような里咲の声が響く。
私は、開いた口が塞がらない。
「はい。じゃあ今日からこのクラスで勉強をすることになる江口さんです。学科変更ではなくコース変更なので勉強してきたことが全く違うというわけではないですが、簿記などの一部専門科目では少しだけ江口さんが遅れていますので、皆は江口さんを助けてあげてください」
誰一人として返事はしなかった。
ただ、私の驚愕の視線とクラスメイトたちの刺すような視線が里咲に集まり、里咲は多くの視線を向けられていることを自覚してなのか、大人っぽい顔立ちからは想像できない程に表情をくしゃりとさせ、「んへへ」と笑う。
こそばゆそうに。
「よろしくね」
その言葉にも、クラスメイトは誰1人として返事をしなかった。
一連の里咲の言動に皆が魅せられていたのは言うまでもない。




