第五節
二日前から降り始めた雨は止む気配を見せず、なおも強さを増していた。
雨というものに皆はどんなイメージを抱いているのだろう。
イメージと言っても、雨がどのようなものかのイメージではなく、雨に対して抱く印象の話だ。
きっと、多くの人間が雨に対して暗い感情を抱くだろう。
なにせ、空は曇り、世界が暗く染められるのが雨だ。
私たち人間は世界を暗くする雨に暗い感情を抱く仕組みになっている。
私も類に漏れることなく雨に対して暗い感情を抱いている。
こんな鬱陶しいもの、存在がなくなってくれればいいのだと思っている。
遥か昔の人たちに同じことを聞けばきっと違う答えが得られるだろう。
なにせ、雨というものは遥か昔、厄災の側面を持つ一方で天からの恵みの側面も持っていた。
昔の人は、雨に対しては恐怖という負の感情の他に、感謝と言った明るい感情も抱いていたはずだ。
けれど、今を生きる私たちはそんな感情を持たない人ばかりで、皆が皆、雨をジメジメとした鬱陶しいものだと認識しているはずだ。
そう考えると、私は私自身が雨に似ているのではないかと思えてしまった。
暗くてじめじめしていて、クラスメイトからは鬱陶しいと思われている。
存在がなくなればいいのにと思われている。真偽は定かでないが、きっとそうだと私は信じている。
そうやって色々な良くないことを考えているが、つまるところ私は落ち込んでいた。
落ち込むことになった理由はごく簡単なことで、学生からすれば良くある理由だった。
成績が落ちて母親に怒られた。それだけだ。
「どうしてこんなに点数が低いの? 数学とか英語なんて赤点じゃないの。世界史もギリギリだし、テスト勉強サボってたんでしょ」
お母さんは言った。
私は答えた。
「勉強はちゃんとしたよ。でも、点数取れなかったの」
嘘は言っていなかった。
事実として、私は勉強を頑張った。
確かに小説を毎日のように書いていたけれど、勉強も欠かさずにした。
いくら私でも学生の本分を放り出すほど人間をやめてはいない。
何より私はまだ良心を持っている面白みのない普通の人間だ。
だからサボろうと思ってもサボることができない。
お母さんは私の言葉を聞くと顔を赤くした。
「じゃあどうしてこんな点数になったの! 本当に勉強したんなら赤点なんか取らないでしょ!」
「そんなこと私に言わないでよ! 私だって真面目に勉強したの!」
「でもこんなひどい点を取ったのはあなたでしょ! 言い訳しないの!」
何も言い返せなかった。
私が勉強を頑張ったのも事実だけれど、私が悪い点数を取ってしまったのもまた事実だったから。
「とにかく、これからは塾に通ってもらうからね」
「そんなっ! 塾なんて」
「塾なんてって、あんたもう受験生になるんだよ? できてもないのに自分で勉強をするとか言ってる暇ないでしょ? だいたいあんた、進路とかちゃんと考えているの?」
捲したてるお母さんに私は反論なんてできなかった。
お母さんの迫力に気後れしてしまったっていうのが一番近いと思う。
とにかく、何も言い返せない私はお母さんを突き飛ばして家を飛び出した。
この時だけは、心が安らぐべきである家の中があの教室と同じ空気で満たされていた。
息苦しくないはずがない。
まともに思考ができない場所から去ることは逃げることなのだろうか。
私はそうは思わない。
だから、私は別にお母さんから逃げたわけじゃない。
私は何も間違ってなんかいない。
そんなことがあって私の気分は落ち込んでいた。
家を飛び出して初めて気づいたが、数日ぶりに雨が止んでいた。
最近、梅雨でもないのになぜだか雨が降る日が多い。
短い人生でわずか八十回しか来ない季節の、中でも十六回来たら多い方の春休みの時間を雨なんていう不条理で塗りつぶされてしまうのは腹立たしい。
里咲と話がしたい気分だったけれど、こんなくだらない家族の揉め事の愚痴を言うために彼女を呼び出してしまうのは気が引ける。
彼女は友人であって、都合のいい相手ではない。
彼女に相談ができない以上、どうにかしてこの落ち込んだ気分を消費しなければいけないと思った私はとりあえず本屋に行こうと思った。
頭に血が上っていて何も考えていなかったけれど、ほとんど無意識に携帯電話と財布だけは持ってきていた。
現代人の怖い習慣だ。
わざわざ学校の近くにある本屋まで行って時間を潰した私は、気がつけば胸の奥に浮かんでいたストレスのようなモヤモヤとした感情がなくなっていた。
イライラして、それが解消された際によくあることだけれど、イライラの原因を冷静になって考えてみるとものすごい罪悪感が湧いてくる。
今回の私もそうだった。
本屋でゆっくりと本を見ているとかなり冷静になれて、そのせいで私はお母さんとの会話でお母さんが悪いことなんてなかったのだと気づいてしまった。
謝らないといけない。
でも、この年齢の少年少女というものは、一概にそうとは言えないけれどだいたいが反抗期もどきの真っ只中にいて、親というものと面と向かって話をすることや、身近な人に正直に謝ったりすることが異常なほど恥ずかしく感じてしまう。
だから、私もお母さんに謝ることがなんだか恥ずかしいことのような気がして、その日、私はお母さんと話すことなく一日を終えた。
天気予報では翌日以降も雨が降り、春休みが全て残念な時間になる予定だったけれど、そんなことはなかった。
予報はあくまでも予報で、事実がそうなるとは限らない情報に基づいたただの推測だ。
お母さんと喧嘩をした翌日、雨雲はどこかに消え去ってしまって久しぶりの快晴になった。
春休みだということもあるけれど、お母さんは私を起こしにくることはしなかった。
きっと、まだお母さんは怒っているのだろうと思いながらもリビングに行くと、テーブルに突っ伏すようにお母さんが寝ていた。
テーブルにはお母さんが引っ張り出してきたであろうノートパソコンが置かれていた。
いつもパソコンなんて使わないのにどうしたのだろうと思い、私はパソコンに繋がれたマウスを少しだけ動かした。
画面は黒くなっていたけれど電源部分は青く光っていた。
これはしばらく使っていなかった際に強制的にスリープモードにされた事の合図だ。
マウスさえ動かせば、パスワードの入力とか面倒な手順無しに元の画面が表示される。
映し出された画面を見て私は少しだけ顔をしかめた。
表示されたのはインターネットの検索画面だった。
タブがいくつか開かれていて、その際上面には家庭教師の会社の検索結果が表示されていた。
他のタブはページタイトルや検索ワードが表示されていたけれど、そのタブを開いて内容を見ようとは思わなかった。
いや、内容を見ようと思えなかった。
表示された画面で昨日の喧嘩を思い出し、申し訳ない気持ちが再びこみ上げてくる。
「あれ、あんた起きてきてたの?」
眠そうに目元をこすりながらお母さんが起きた。
昨日、遅くまで私のために色々と調べてくれたのだと思うと、お母さんの頑張りに応えたいと思えた。
「お母さん。これ」
「ああ。あんた、塾は嫌だっていうから家庭教師ならどうかなって思ったのよ。家庭教師なら塾と違って行くまでの時間がかからないし、その分勉強だとか他のことだとかに時間を回せるでしょ?」
正直、塾も家庭教師も勉強をしたくない人間からすれば鬱陶しさは変わらないのだけれど、お母さんが頑張って調べていたと言う事実がお母さんの言葉を否定したいという私の感情を拒絶した。
「……うん。ありがとう。家庭教師ならいいかも」
「そう。じゃあ申し込んどくから」
それだけ言うと、お母さんは再び眠りについた。
同じようなやり取りがあって僕も昔、家庭教師を契約してもらった事があります。
成績は変わりませんでした。




