第四節
それから多分、五分か十分ほどは互いに無言の時間が続いたと思う。
私は何も考えることなく、相変わらず不味いシェイクを眺めていた。
一方の里咲は私の表情をちらりと見たり、携帯電話を触って何かを調べたりしていた。
私は里咲が待っているのだと思っていた。
でも、里咲はそんなつもりがなかったわけで、何かをひとしきり調べ終えると、「よしっ」と言って携帯を机に置いた。
「燈ちゃん。この小説、タイトルってまだ決めてないの?」
里咲は先ほどまでの柔らかい笑みとは打って変わって、すごく真剣な顔で言った。
「……え?」
私が不思議そうに顔を上げると、里咲は再び、確かめるように言った。
「タイトルだよ。タイトル。決まってないの?」
「あ、うん。まだ決められないんだ」
「それはどうして?」
どうして? などと言われると直ぐにはうまく説明できなかった。
理由を知りたがる里咲を待たせ、私は少し考えてみた。
自分の書いた小説にどうしてタイトルが付けられないのだろう。
いや、付けられないのか決められないのか、そもそも自分はどっちなのだろう。
もしかしたら、私は自分の書いた小説に名前をつけるということ自体に抵抗があるのかもしれない。
それはなぜ? なぜだろう。
単にこの作品だけかもしれないし、今後もそうかもしれない。
顎に右手を添え、右腕を支えるように右ひじに左手を添え、私は考えを続ける。
私が今回書いた小説はどのようなものだっただろうか。
私は、何を書きたかったんだろうか。
今一度、自分の吐き出した世界を思い返して考えた。
そうこう考えて、また十分ほどが経った。
私は不意に里咲の言葉の一部を思い出して理由が思い当たった。
「小説としては凹凸が少なくてダメなのかもしれないけれど」
里咲が話の中で何気なく言った言葉だ。
でも、この言葉が真理なのだと思った。
私の書いた物語は凹凸が少ない。
常に陰険で、ひたすらに底辺を描いていて、その中で最後に小さな幸せを見つけて再び底辺に戻った。
ひたすら落として盛り上げることもひたすら盛り上げて急激に落とすこともしなかった。
だからこそ凹凸が少なく、ドラマティックとはとても言えない話になってしまった。
小説だなんて言えるほど大層なものではない出来になってしまった。
そう、私の書いた物語はとても小説と呼べる代物ではなかった。
だからこそ、名前をつけるには値しない。
名前も付けられないような小さな話として完成した自分の小説に、私は名前をつけることができなかったのだ。
その物語には名前を持つほどの権利がなく、その物語を言い表す言葉もない。
だからこそ、私はタイトルを決められずに最初のページに、書いている段階では空白だったそのページに慎ましやかに『 タイトル未定 』だと書いたのだ。
私は口を開いた。
「多分……」
私が話し始めたことで里咲が少しばかり座る姿勢を直して聞く雰囲気を作った。
だから私は言の葉を投げかけるのを続けた。
「私の書いたこの小説は……きっと、小説と呼ぶにはあまりに未熟で……だから……その、タイトルをつけられるほどのものじゃない。タイトルをつけてあげられるほど、私の作品は完成していない。素人の書いた未完成の代物で、だから、私はそう思ったからタイトルを決められなくて……」
そこで私は止まってしまった。別にここまで話せばもうわかるだろう? とかそう言ったことを考えて話すのを止めたわけではない。
ただ単純に考えていた言葉が飛んでしまっただけだ。
すると、私の言葉の途切れ目を待っていたのか、私が話し終えたと思ったのか、次は里咲が口を開いた。
「……いいじゃん」
その言葉は少し震えていた。私は理解ができなかった。
「それでいいじゃん!」
里咲は目を輝かせながら両手をパンッと合わせた。
店内にその音が少し大きめに響いて何人かが嫌そうな顔でこっちを見てくるのがわかった。
それでもなお、里咲は気にしないと言ったように言葉を紡ぐ。
「タイトルをつけてあげられない未完成な作品。タイトルを決められない程度の作品。だからタイトル未定。私はそれでいいと思うよ!」
節々に褒めているとは言えなくて、肯定しているとも言えない言葉が混ざっているものの、その里咲の言葉が私を否定するものじゃあないということはよくわかった。
でも、里咲の言っていることをまっすぐに理解することはできなくて、私は口をだらしなく半開きにして、無言で話の結論を促した。
「だからね、うん! 私はこの小説のタイトルは、どこかの誰かの小さな物語っていうことで『 タイトル未定 』でいいと思うの。名前を与えるにも満たないけれどそれでも物語として成り立っていう意味合いにもなるかなって私は思ったんだけど……えっと……どうかな?」
確かに、その説明ならばタイトル未定と言うタイトルでも良いのではと思った。だから私は答えた。
「……うん…… いい! すごくいいよ!」
心の中に不意に浮かんだ黒い感情を押し殺し、私は綺麗な部分だけを汲み取って言葉にした。
きっと、私なんかよりも里咲のほうが才があって、書いたことはないようだけれど、彼女が小説を書いたほうが面白いものが作れてしまう。
きっと、里咲のほうがうまく小説を書くことができる。
そんな思いを一生懸命心の奥底に押し込んで、私は上澄みの言葉だけを掬った。
「この小説のタイトルは今日から『 タイトル未定 』で」
私がそう言うと、里咲は満足そうにうなずいて携帯電話の画面を見せてきた。
「じゃあさ、早速だけどその小説、いろんな人に見せてみない?」
そうやって見せられた携帯電話の画面には、名前を聞いたことがある大規模な小説投稿サイトが映し出されていた。
「……え?」
唐突な里咲の言葉に私は思考が追いつかない。
目を丸くして言葉の意味を問いたいとでも言うように間抜けな面で里咲を見つめる私に、彼女は微笑みながら言った。
「燈ちゃんの小説、このサイトに投稿しようよ」
少し、胸の奥底で確かに感じる鼓動が激しくなったのがわかった。
「と、投稿?」
「そう。このサイト、会員登録さえすれば誰でも小説を投稿できるし、誰でも他人の小説を読むことができるんだよ。でね、このサイト、定期的に賞みたいなのも開催してて、このサイトから排出される小説家も結構いるみたいなんだよね」
そう言いながら、里咲はサイトのURLを送ってきた。
「パソコン持ってる?」
サイトにアクセスしてどんなものかと眺めていると、里咲が忘れていたとでも言うように私に聞いた。
「パソコン?」
「そ、パソコン。携帯で投稿できるのかわからないけれど、パソコンなら投稿できるから」
「そうなんだ。まぁ、パソコンならあるけど」
感心しながらパソコンがあると伝えると、里咲はすぐじゃなくてもいいからこのサイトに登録して小説を投稿してほしいと言った。
そのあと、里咲は私に投稿する時の注意なんかも教えてくれた。
「やけに詳しいね」と私が言うと、里咲は困ったように眉尻を下げて笑いながら「知り合いがやってるからね」と言った。
里咲の人間関係はそこまで知ることができていない私は、きっとさっき話に出ていたお兄さんがそうなのだと思った。
そのあとは暫く色んな話をした。
ニュースで見た虐待事件が酷いっていう話だとか、好きな小説家についての話だとか、恋愛についての話だとか……。
気づいたら時計の針は五時を指し示していて、私の沈んだ気持ちはどこかへ吹き飛んでしまっていた。
友情というものはもっと脆くて、一歩でも違えてしまえば簡単に関係が崩れ去るものなのだと思っていた。
けれど、実際はそうではなくて、多少の傷つけ合いは簡単に流れてしまって、なかなか崩れない関係なのだと知った。
もうそろそろ帰ろうかと店の外に出ると、空から雲は綺麗さっぱり無くなっていて、すでに薄暗くなった空は間違いなく快晴と呼ぶにふさわしかった。
太陽が眠りについた状態でも快晴と呼ぶのかは定かじゃあないけれど。
二人で話をしながら並んで歩いて帰路についた。
もう、道路から水たまりは消え去っていて、木々は水滴の上着を脱ぎ捨てていた。
行きと同じ道をゆっくりと歩き、私の家の前にたどり着く。
「あぁ、燈ちゃんの家ってここなんだ」
知らなかったなぁという里咲にまた今度遊びに来なよと言い、私はまたねと手を振って里咲を見送った。
里咲の家は学校を挟んで私の家の向かい側にあるようで、また再び歩き出す。
ついさっきまで私と二人で歩いていたけれど、次はたった一人で歩き出す。
彼女の姿が見えなくなるまでは見送ろうと思っていた。
こっちに手を振って歩き出した里咲の背はなぜだか悲しそうで、私は言葉にできない不安感がせり上がってくるのを感じた。
あぁ、うまく言葉にできないけれど、このまま里咲を行かせたら駄目だ。
言葉にして説明することはできないけれど、私は確かに感じた。
根拠はないものの、里咲が危ないと感じた。
「ねぇ、里咲ちゃん!」
普段大声を出す機会がない私にとって、慣れない大きさの声だった。
きっと、叫びの類に近かった。
このまま今日は泊まっていきなよ! と続けざまに叫びたかった。
けれど、呼び止めた私の方を振り向いて、里咲は笑った。
「大丈夫だよ!」
そうやって叫びながら、里咲は笑った。
何が大丈夫なのか、私が何を言おうとしていたのだと考えてそんな言葉を返したのか、わからないことが多かった。
でも、そんな私の考えを塗りつぶすように里咲は言った。
「ねぇ、燈ちゃん!」
彼女の表情は見えない。
彼女の手前にある街灯の光に遮られて、顔がぼやけてしか認識できない。
彼女は今、どんな表情をしているのだろうか。
「小説、絶対に投稿してよね」
きっと、そんなに大きな声では話していなかった。
けれど、確かに私の耳には届いた。
「うん……うん!わかった!わかったよ!」
焦るように返事をする私に里咲は覆い被せるように言う。
「一つ、わがまま言ってもいい?」
「……いいよ! いい! どんなことでも言っていいよ!」
きっと、私の言葉にできない不安の源泉にある何かにつながる物を里咲は抱えていて、そこから救ってほしいのだと思っていて、その助けを私に求めてくるのだろうと思っていた。
だからこそ私は、何でもいい、どんなわがままでもいい、私にできるようなことだったら何でも手伝う。気にしないでわがままを言ってほしい。と、言った。
何でもいいからと。
私に何かを背負わせて欲しいと言った。
彼女が何を抱えているのかも知りもしないくせに。
彼女が悩んでいて一丁前にも自分は力になれる。
だから、助けを欲しているのなら私に助けを求めてほしい。
それが自惚れだと気づかないままに思い、その旨を言った。
私の溢れる言葉を受け止め、噛み締めるような間を使った後、里咲は私の思っていたものとはズレたわがままを言った。
「小説、私の誕生日に更新してほしいな」
私は里咲が何を言っているのか、少し理解できなかった。
先ほどまでの私の言葉が、私の勝手に繰り広げた妄想の末に生じたものに感じられてしまって、全てが独りよがりの先走りであるのだと気がついてしまって、恥ずかしさがこみ上げてきた。
家の前の道路に立ち尽くして軽い思考のバクを起こしていると、里咲はそんな私を見て「またね」と言って再び歩き始めた。
相変わらず寂しそうな彼女の背中を、今度は呼び止めることすらできなかった。
里咲の誕生日は聞いたことがなく、彼女がいつ私に小説を公開することを望んでいるのかはわからないじゃないかと思った。
けれど、そんな問題は問題として成り立たず、簡単に彼女の誕生日は判明した。
メールアドレスにそれは紛れていた。
八月十日。それが彼女の誕生日だった。
私は里咲から送られてきたURLをパソコンの検索欄に入力してサイトに飛んだ。
ほんの十分ほどの手続きをしてサイトにアカウントを作った。
アカウントの名前はまだ決めていない。
また里咲と一緒に決めればいいだろうと思って。
彼女の誕生日までに、小説を投稿するまでに決めればいいだろうと思って、私はパソコンを閉じた。
翌日、再び雨が降った。




