第二節
里咲にエゴの書き溜めである五ミリ方眼を渡したその翌日、私の暮らす町には雨が降った。
学校のある街は曇りだとニュース番組のお天気コーナーで言っていた。
私は雨が嫌いだ。
じめじめとしていて服とかが気持ちの悪い湿り気を持つし、空が無駄に暗いせいで気持ちも落ち込んでしまう。
だから、私は嫌いな雨から逃れるためにこの日一日を家にこもって過ごした。
前日、里咲に勧められて買った原稿用紙へと私の世界を書き綴りながら。
その翌日も雨だった。
私は同じように自分の世界を広げていった。
さらにその翌日、ようやく雨が止んだ。
空はまだ曇っていたけれど、空気はカラッと乾いていて気持ち悪さは感じなかった。
この日、私の目がさめたのは昼のキューピー三分クッキングがテレビで流れ始めた頃だった
頭が痛くなるような音で鳴る携帯電話に叩き起こされる形で、私は慌てて目を覚ました。
「へ?! あ! ごめんごめん!」
虚空に向かって必死に謝りながら、私は携帯電話を手に取ってまだ半分ほど微睡みの中にある意識を無理やり引っ張り出す。
携帯電話には江口里咲という名前が通話開始ボタンとともに画面に表示されていた。
私は慌てて表示されている通話開始ボタンを押した。
「あ、も、もしもし!」
あまりにも突然のことで、寝起きで痰が絡んでしまってガラガラな私の声は変に裏返ってしまった。
蓄膿症の嫌な習慣みたいなものだ。
「あはははは! どうしたの燈ちゃん、変な声出ていたよ」
楽しそうに笑う里咲の声はいつも通り女の子にしては少し低くてザラついた声質で、私はその声を効いて安心感のようなものを覚えた。
何故だか、私は里咲の声を聞くと心が落ち着く。
「いま電話の音で目がさめたの。寝起きだから変な声が出ちゃった」
「え! もしかして私が起こしちゃったの? あぁ……ごめん!」
慌てて謝る里咲に気にしないでと言い、本題の話を促す。
「えーっとね、燈ちゃんの小説、読み終わったんだ。だからノートを返すついでに感想を伝えたいなって思って……」
よかったらこれから遊ばない? という里咲の言葉を聞き、私は反射的に勿論と返してすぐに支度を始めた。
数日ぶりに外へと出るわけだし、雨上がりでまだ気分が落ち込んでいるとはいえ、里咲と遊ぶのだからいっその事新しい靴を使って自分の沈んでしまった気持ちを少しでも持ち上げようと思った。
ジーンズにパーカーを合わせただけの私は学校へと行くのにも使っているリュックを背負い、真新しい白のスニーカーを履いて家を出た。
朝、トイレに起きた際に見た時と変わらず、空はいまだ煤色だ。
昨日ほどではないものの空気は少しじめじめとしているし、道路の陥没した部分には逃げ場を失った雨が水たまりを作っている。
私は新品のスニーカーに汚れをつけてしまわないよう、いくつもの水たまりを一つ一つ丁寧に避けて歩いた。
「あれ、燈ちゃん?」
「……え、里咲ちゃん?」
待ち合わせ場所として決めた学校近くの公園に向かっている途中、家から五分ほど歩いた場所で同じく歩いて公園へと向かおうとしていた里咲に出会った。
まさかこんな場所で会うことになるとは互いに思っていなくて、私も里咲も驚いた顔で互いの名前を呼んだ。
私の知っている限り、里咲はもっと学校の近くに住んでいるはずで、学校から歩いて三十分以上もかかるこの場所で里咲と出会うことなど無いはずだった。
「燈ちゃんってこのあたりに住んでいるの?」
二人並んで水たまりを避けながら歩いていると、そういえばといった口調で里咲が聞いてきた。
「あ、うん。そうだよ。すぐそこに中学校があるけど、その近くに私の家があるの」
「え〜。だったら燈ちゃんの家で遊べばよかったなぁ」
失敗したとでも言うように里咲が苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そ、そんな、里咲ちゃんがまさかこっちの方にいると思わなくて、来てもらうのは申し訳なかったから」
「え、どうして?」
心底わからないといった様子で里咲が言った。
「ど、どうして? だって、里咲ちゃんの家って学校の近くだよね。あのあたりからここまでって歩いて三十分以上かかるでしょ? この辺りは近くに電車も通っていないから、だから私がそっちの方に行った方がいいのかなって思ったんだけど」
「え?」
「え?」
なおさらわからないといった様子でキョトンとする里咲の顔をみて思わず私も同じような顔になってしまった。
そして、里咲は納得したとでもいうように「あー。なるほど」と口にしていつものように目をそらしたくなるほど綺麗で眩しい笑顔を私に向けた。
その笑顔は数日前と同じように下手くそなウインクをしながらのものだった。
「燈ちゃんと前に帰った時、私ちょっとだけ事情があってお兄ちゃんの家に泊まったんだよ」
「え、お兄ちゃん?」
「そ。お兄ちゃん。だから、燈ちゃんが知っているのはは私が住んでいる方の家じゃなくて、お兄ちゃんとそのお嫁さんが住んでいる方の家なんだ。お兄ちゃんもそのお嫁さんのあかねさんもすごく優しいし。あかねさんはものすごく美人で物知りだから、色々と教えてくれるんだぁ」
自慢げに話す里咲の顔はものすごく嬉しそうで、それだけで彼女が兄やその奥さんのことを心の底から好いていることがよくわかった。
「じゃあさ、里咲ちゃんの家ってどのあたりなの?」
「あー、そうだね。そういえば言ってなかったね」
そう言うと、里咲は立ち止まって今来た道を指差した。
正確には、今来た道の方角にある少しばかり大きな建物。
私の通っていた中学校を指差した。
「あのあたりだよ。中学校を挟んでちょうどここから真向かいあたりかな」
「え、じゃあ中学は……和中?」
私はそう聞きながら、通っていた大和中学校を指差した。
和中と言うのは通っている生徒や働いている先生たちが使っている愛称のようなものだ。
「あ〜っと、えっとね」
里咲は少し困ったように右目の瞼の上あたりを右手の人差し指で掻いた。
そして、自分でやっておきながらその感触が気色悪いとでも言うように小さく顔をしかめた。
言おうか言うまいかを迷っているような様子だった。
ほんの数秒の間だけそうやって戸惑った様子を見せ、結局は仕方がないかと諦めたように里咲は口を開いた。
「家は大和中学の校区になるんだけどね、ちょっとした家の事情で隣の揖川中学に通っていたの」
多分、私は聞かないほうがいいことを聞いてしまった。
里咲にそのあたりの確認はしていないけれど、私はひとりでにそう思った。
だってこの時の場の空気は直前までの楽しい雰囲気とは打って変わって、教室に入った時のような重さを孕んでいたから。
「あ……ごめん」
「そんなに気にしなくてもいいよ。あかりちゃんが思っているほど重い話じゃあないし。苦手な人がいたから別の学校に行きたかったっていう私のただのワガママなの」
そう言いながら、里咲は眉尻を下げて困ったように笑った。
あぁ、この子はこんな顔もするんだって思ったし、そんな悲しそうな笑顔もまた綺麗だなと思ってしまった




