第三節
そんなつもりがなかったとはいえ、五限目をサボってしまった私は、その場の勢いというか、「五限目サボったら六限目に顔出しづらいよね」という里咲に促される形で六限目もサボってしまった。
「で、ここにきたの?」
呆れたように笑いながら、アケミ先生は三つ並べたマグカップにお湯を注いだ。
コーヒーの香りが保健室にゆっくりと充満して、私と里咲は思わず小さなため息をついてしまった。
「二人ともため息なんてついちゃて、何かあったの?」
アケミ先生から差し出されたマグカップを受け取り、「何かあったとかじゃあ無いんです」と返して私はミルクと砂糖がたっぷり入ったコーヒーとは呼べないような飲み物を口に含んだ。
甘い。ものすごく。
「アケミちゃん。私にも砂糖ちょうだい」
「はぁ〜い。スティックシュガーいくつ使う?」
「ん〜。三本かな」
「ミルクは?」
「ミルクはいいや」
里咲はアケミ先生からスティックシュガーを受け取ると三本のうち二本はコーヒーに入れ、もう一本は胸ポケットにしまい込んだ。
その一つ一つの動作を眺め、アケミ先生は気遣うように里咲へ言葉をかける。
「里咲ちゃん。大丈夫?」
「ん〜? 何が?」
甘くなったコーヒーを飲みながら、本気でなんの話をしているのか分からないと言ったふうに里咲が首をかしげる。
「大丈夫ならいいけど。また何かあったら相談してねぇ〜」
それだけ言うと、アケミ先生はメガネをかけてパソコンと向き合った。
なんとなくだけれど、最近の先生はこうやって何かの作業をしている事が多いように感じる。
多分、年度末の仕事納めと新年度の準備が忙しいのだろう。
それから放課のチャイムが鳴るまでの間、私と里咲はアケミ先生の邪魔にならないように静かにトランプで遊んだ。
「先生バイバ〜イ。燈ちゃんもまた明日〜」
そうやって手を振りながら保健室を出て行く里咲に、私も手を振り返した。
私はと言うと。
「じゃあ燈ちゃん。少しお話をしよっか」
アケミ先生に言われて保健室に残ることになっていた。
「お話……ですか」
「大丈夫よぉ〜、そんなに身構えなくても。ちょっとした世間話みたいなものだからねぇ」
「は、はぁ……」
「ちょっとだけ待ってねぇ〜」
そう言うと、アケミ先生は開いていたワードファイルを保存してパソコンの電源を落とした。
「コーヒーのお代わりいる?」
「あ、私は大丈夫です」
「はぁ〜い」
アケミ先生は自分のマグカップにコーヒーの粉を入れると、ケトルの電源をつけてお湯を沸かし始めた。
「まさか燈ちゃんが里咲ちゃんの友達だったなんて、私ちょっとビックリしちゃったなぁ〜」
そう言いながらアケミ先生は再び椅子に座った。
「友……達……」
アケミ先生の言葉を口に出して繰り返す。
少しだけ胸の奥が熱くなって、知らない感情が湧きあがってきたのを感じた。
「あ、あれぇ〜違った?」
友達という言葉を反復してそれ以降黙り込んだ私を見て、アケミ先生は首をかしげる。
少し、困っているようにも見える。
「あ、いや、違うとかそう言うのじゃ無いんです」
「そう? なら良かったわぁ。何か言ったらダメなことでも言っちゃったと思ったもの」
ケトルがカチリと音を鳴らし、湯が沸いたことを知らせてきた。
先生はゆっくりと立ち上がり、マグカップに湯を入れると白いソファに座る私の隣に腰を下ろした。
「で、どう? 里咲ちゃんは」
「どうと言われても……」
なんと答えていいのか分からない。
「あの子、不思議な子でしょ?」
楽しそうに小さく笑いながらアケミ先生は問いてくる。
「はい……里咲ちゃんはなんていうか、私にも優しく接してくれる不思議な子です」
「それは……」
先生は何かを言いたそうに一度口を開いたが、思いとどまったようにその口を固く結んだ。
その顔にはいつものような優しさが残っていたけれど、それよりも何かに苦しんでいるような感情のほうが強く滲み出ていて、私は先生に変に気をつかわせてしまうようなことを言ってしまったのかと申し訳なさを感じてしまった。
先生は話の流れをリセットしようとしたのか、可愛らしい高い声で小さく二度咳払いをする。
「里咲ちゃんとはいつ頃から仲良くなったの?」
「いつ頃……と言われても、先週の金曜日に初めて会ったばかりで」
「先週……だからかぁ」
先生は納得したように頷くと、砂糖もミルクも入っていない苦いコーヒーを口に含んだ。
普段は大人っぽくない先生だが、やっぱり大人だ。
私とは違って。
「ねぇ、燈ちゃん」
コーヒーの香りがする吐息を漏らしながら、アケミ先生は私の名前を呼んだ。
それは今までなんども聞いたアケミ先生の声だった。
とっても優しくて、聞いていると気持ちが落ち着いて。
それでいて言葉のどこかに棘のようなものがある。
そんな声だった。
「リサちゃんにはね、多分あなたが必要なの」
その言葉の意味がわかるほど私は全てを知っていたわけでは無いし、その言葉だけで何もかもを考え切ることができるほど、私の頭は優れてなどいなかった。
「それはどういう……」
意味なのか。そこまで言わせてくれるほど、その答えをくれるほど、アケミ先生はどこまでも優しいというわけではない。
アケミ先生は私の言葉を遮るように言葉を紡いだ。
「きっと……貴方がもっと早くあの子の友達になっていたら報われていたのかもしれないわね。あの子も……貴方も……」
悔しそうに声を絞り出す先生の顔を私は見ることができなかった。
理由は自分でも分からない。
でも、この時先生の顔を見てしまったら私はきっと先生の事を嫌いになってしまっていた。
それだけは直感で感じ取ることができた。
しばらく先生と雑談を楽しんでいると、完全下校時刻の十五分前を告げるチャイムが鳴った。
原則、私の通う高校では六時までにはどの部活も活動を終了して学校の敷地内から出ていかなければならなくなっている。
もし完全下校のルールに背いてしまった事が学校にバレてしまったら、長ったらしい反省文を書かなければならない。
ちなみに、私はまだそれを書いたことがない。
面倒な事は避けたいと思い、先生に挨拶をして保健室を後にする。
既に廊下はほとんどの明かりを落とされていて、まるで生徒に帰れと催促しているようだ。
昼間に差し込んでいいたはずの日の温もりすら失われてしまった廊下を歩き進み、教室にカバンを取りに行ってから昇降口へ向かう。
すると、疾うに帰ったはずの里咲が昇降口に居て、私に小さく手を振った。
「あれ、先に帰ったんじゃ……」
「うん。そのつもりだったんだけどね」
そう言うと、里咲は手に持っていた私の靴を持ち上げて見せた。
つまりはそう言うことなのだろう。
またいつものように誰かが私の靴を捨てようとして、里咲は偶然その場に居合わせた。
そして、少々揉めて時間がかかったものの、私の靴を取り返して今に至るということだろう。
その証拠に里咲の右頬には痛々しい火傷の跡を上書きするように引っかき傷のようなものがあり、そこからは生々しく真赤な血が滲み出ていた。
よく見ると左の頬はほんの少しだが赤く腫れている。
「どうして……」
「一緒に帰ろ?」
里咲は笑顔でそう言った。
眩しいとはとても言えないような、眉尻の下がった困ったような笑い方で。
嗚呼、けれど。
そんな里咲の表情もまた、確かに美しかった。




