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2-2 弊社の最近の業務の話

「戻りましたー」



 ランチの後、一件別の用事を済ませ、コンビニに寄ってお茶の葉と所長のタバコを、たっぷり時間をかけて買った後、僕はラボに戻った。時間はすでに午後4時近くなり、低くなってきた日差しが窓から差し込んできている。



「おう、お茶買ってきたか?」



 MKラボの所長にして美凪の飲み仲間、岩井俊蔵としぞうが、しかめっ面のまま振り返った。



「あー、いつものやつなかったんですけど、これでもいいすかね?」


「ああん? いつものあれが一番渋くて美味ぇんだがな……」


「タバコの方はありましたよ」



 ぶつぶつと文句を言っている所長に、僕はタバコを手渡す。



「最近はタバコも高くなりやがってなぁ。こんだけ税金払ってんだから、もっと優遇しろっつーんだ全く」



 常に全方位に対して文句を言っているようなこの人物だが、元々は旧帝大の教授であり、量子コンピューター研究の第一人者として知られた研究者だったという。


 経産省の主導する産学連携プロジェクトにも携わっていたが、プロジェクト担当者の官僚を殴ってプロジェクトから降りたという逸話の持ち主だ。『ターミナル』の基礎理論も、この岩井所長の研究成果によるものだった。



「お帰りなさいー」


「あら、お帰りなさい」



 所長の文句を聞き流しながら、僕は自分のデスクに戻った。ちょうど声をかけてきた那穂に買ってきたお茶を手渡し――



「……って、橋ノ井さん!?」



 デスクの椅子に座ろうとして、思わず転げ落ちる。


 那穂と一緒に声をかけてきたもう一人の女性――それは、午前中にサイベスト社で顔を合わせていた、橋ノ井雅代女史その人だった。



「え!? なに!? なんで?」



 てっきり美凪だと思って油断していた。不意を突かれてまたもや声が上ずる。



「別件で近くまで来たんですが、予定がキャンセルになっちゃったんです。せっかくなので、早速お邪魔させていただきました」


「そ、そうですか……」



 さすが、単身海外へ留学する行動力の持ち主というところか。



「それで今、例の神城峠の幽霊の話をしてたんですよー」



 親会社の監査役に対して初対面で、一体なにを話してるんだこのお気楽娘は。



「そうそう、あんまり知られてないんだけど、あの話には続きがあって……」



 って、なにあんたもノリノリで話してるんですか。


 状況についていけない僕をおいて、那穂たちの話は異様に盛り上がっている。それにしても、いろいろな意味で適応力の高い人だ。半ば感心し、半ば呆れながら、僕は岩井所長に小声で話しかけた。



「彼女、いつ頃からいるんです?」


「30分ぐれぇ前だな。突然、お世話になってます監査の橋ノ井です、と来やがった」



 さすがの所長も、これには戸惑ったらしい。この人の動揺している姿など、日頃なかなか見れるものではない。見逃したのは惜しいことをしたかもしれない。



「確かにサイベストで会った時、近い内に挨拶に来ます、っていってましたね……」


「挨拶ねぇ……」



 岩井所長はあきれ顔のまま溜息をついた。



「なんです?」


「さっきまで、『ターミナル』のことについて根ほり葉ほり聞かれてなぁ。やたらと身を乗り出しよって。しかも、素人のクセになかなかいいところを突いてきやがる。ありゃあ確かにご挨拶だよ」



 そういえば先ほども、うちの研究について興味を持っているという様子だった。



「監査の仕事……ってだけじゃないんですかね」


「さぁな。文系の考えることはよくわからんよ」


「あら、私、大学の専攻は生物化学なんですよ」



 那穂と話していたはずの橋ノ井さんがいきなり声をかけてきて、僕らは同時に背中をびくっ、とさせた。



「まぁ、『ターミナル』への興味は個人的なものですが、仕事の上でもあれをなんとかしたい、というのも本心です」


「そ、そうですか……」



 僕はひきつった笑顔を浮かべた。そうだ、この人の人当たりの良さに油断してはいけないのだった。



「岩井さん、先ほどの話ですが、『ターミナル』のコンテクスト認識デバイス自体はもう、ほとんど完成しているんですよね?」


「え、ええ……」



 所長は一つ咳払いをして橋ノ井さんに向き直った。


「タブレット上で入力されたタップやフリックから、入力者の情動を『揺らぎ』として量子ビット内に格納することには成功しています」


「それが、入力された情報に『感情』を保持することになると」


「簡単に言えばそうなんですが、話はそう単純じゃない」



 専門分野の話になったことで、所長はいつもの調子を取り戻したようだ。


「ピアノだったら鍵盤の叩き方で音が変わる。同じ譜面の曲を弾いたとしても、人によって違う音が鳴るわけですな。しかし、人を感動させるような優れたピアノ曲が、どういった叩き方で構成されるのか、これを計測するのは大変難しい」


「それはそうですね」


「それと同じです。『ターミナル』で入力された情報は確かに、タップやフリックに表れるわずかな感情のゆらぎを伴って保存される。だが、どんな叩き方がどういう感情かを判断し、処理するのが非常に難しいのです」


「それは、データ不足でということですか?」


「それもありますが、その点はある程度地道にやるしかない。研究がある程度の段階になったら、クラウド化して世界中からデータを集めようとも思っています。一応、現時点でも、感情や言葉の文脈を『ターミナル』側の処理にフィードバックすることはできているんですがね」


「他に問題点があるということ?」


「それはつまり、その……」



 岩井は口ごもった。



「つまり、敏感すぎるんですわ。取得する感情が」


「敏感……?」



 岩井所長は頷き、一呼吸を置いた。



「タブレットを使って入力された文字や数字の、入力のタイミングや強さを『感情』として扱うわけですが……ほんのちょっとしたタイミングの違いでも、こいつの受け取り方が変わってしまう。怒っているわけでもないのにそう受け取ってしまったり、もっと頓珍漢な反応を見せることもしばしばでしてなぁ。なんとも扱いにくいんですわ」


「まるで癇癪持ちの女性みたいね」


「ヒス女というよりは、赤ん坊ですな」



 所長はにこりともせず言う。



「それも、人間では到底かなわないほどの演算能力と、記憶能力を兼ね備えた赤ん坊です。前にされた仕打ちをいちいち憶えていやがる」



 そうなのである。そのため、研究の過程で何度も『ターミナル』の初期化を余儀なくされており、それもまた研究がなかなか進まない原因だった。



「人間ってのは大人になるにつれて、外から受け取る感情の種類を制限しているといえる。経験を積むことで、外界から受ける刺激の種類を整理して、多少の揺らぎには目をつぶる。それで初めて、世界を理性的に見て、考え、行動できるんですな。しかし、こいつにはそれがまったくできない」


「なるほど……」



 橋ノ井さんは思案顔で言った。



「つまり、このシステムの完成には20年待てばいいのかしら?」


「どうでしょうな。成人したって子供のままのやつもいる」



 橋ノ井さんと所長は同時に笑った。案外、この二人は似た者同士かもしれない。



「それにしても」



 笑っていた橋ノ井さんが突然真顔に戻り、ふとこちらに向き直って言った。



「こういう話があまり報告されていないように思えますね」


「え……!?」



 突然向いてきた矛先に、僕はしどろもどろになった。



「いや、ソースコードとかバックアップデータの納品はしてますし、それに山本さんが……」



 技術的な話はわからないからいい、と、前の担当だった山本事業部長に言われていたのだ。それを今さら言われても困る。



「責めてるわけじゃありませんよ。ただ、こういう話がわかっていれば、こちらとしても動きようはあるということです」


「動きようって……」



 口をもごもごとさせる僕に構わず、橋ノ井さんは話を進める。



「とりあえず今の話、報告書にまとめてもらえますか? これまでの検証のデータなんかも一緒にあれば助かります。現状の問題点と、その方策とかが明確にわかるように。そうですね……できれば明日の午後に一度見せてもらえます?」


「あした……」



 それは実質、今日中に作れってことになりますよね。



「今週末、技術畑の偉い人たちとパワーランチなのよ。そこに持っていけるタイミングなんて中々ないでしょ? 任せて、悪いようにはしないから」



 な、なるほど、それは確かに、悪い話ではないだろうが――



「真田ぁ……」



 僕はすがるような眼で、我関せずとPCに向かっていた真田に声をかけた。



「データはいつものとこに入ってますから。俺は今日用事があるんで」



 知ってた。そうだよそういうやつなんだよこいつは。



「あ、それじゃぁ差し入れ買ってきておきますねー」



 お前は黙れ。



「よし、それじゃ頼んだぞ」



 所長のダメ押しに、僕は徹夜が免れない状況なのを知った。

 ニコニコと笑っている橋ノ井さんと眼が合い、一瞬でもこの人に尊敬の念を抱いた自分を、僕は罵倒してやりたい気分だった。

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