2-1 親会社とOEMの話
そういえば、誰かが発表した文章を実際には別の人物が書いているのを「ゴーストライター」と呼ぶが、企業では「OEM」として一般的に行われていることだ。
様々なブランドやメーカー名の後ろに、実は同じ企業が存在している、というのも良くある話。目の前に立っている巨大なビルは、ことITに関しては、あらゆるところでその存在がおぼろげに見え隠れする、そんな幽霊のような企業だった。
サイベスト・ホールディングス。
駅前の目抜き通りからすこし外れ、倉庫が並ぶ人通りの少ない線路沿いの道に、そのビルは建っていた。
生暖かい風が季節に関わりなく吹き付ける道。月に1、2回は訪れている僕でさえ、来る度に湿った空気にむせそうになる。
今や世界中に市場を広げる巨大な企業帝国の本社が、こんな侘しいところにあると知る人間は少ないだろう。もっとも、自分たちの使っている製品やサービスが、この企業から提供されていること自体を、普通は知らないかもしれない。
僕の勤めるMKラボの親会社であるこの企業は、他にも多くの会社を傘下に置き、IT産業のあらゆる方面に事業を展開していた。
各事業は個々のブランドで展開しているため、「サイベスト」という企業名が表に出ることはあまりない。しかし、中小のITベンチャーにとっては「ぜひ買収されたい企業」として知られている存在だった。実際、うちのラボのように、なかなか成果の出にくい研究内容についても理解がある親会社というのは、こうして毎月報告に来る身としても非常にありがたい。
「こんにちは。ご用件をお伺いいたします」
エントランスに入ると、受付にはいつもの受付嬢がいた。
いつもの受付嬢なのだから、いい加減顔パスで入れてくれても良さそうなものなのに。うちの「ターミナル」が実用化したら、機械が顔パスをしてくれるようになるだろうか――そんなことを考えながら、社名と名前、用件を告げる。
「承っております。あちらで少々お待ちください」
このご時世、企業の受付は内線電話だけを置いているところがほとんどだ。敢えて受付に人間を――それも美しい女性を、配置するというのはやはり、ある程度社会的なステータスを持った企業としての体面というものだろうか。
ひと昔前までは、機械は飽くまで、人間の行動を補うものだったはずだ。
しかし、家電品やコンピューターが普及し、人間の仕事を代替するようになった現代、機械でできることを敢えて人の手で行うというのは、機械でできない付加価値を求める一種の「贅沢」となっている。
話は家電品に限ったことではない。メールやSNSなどで手軽に人とコミュニケーションが出来る現代の社会にとって、お互いの時間と空間を占有しながら人と会い、言葉を交わし、肌に触れるというのも、もはや「贅沢」なのかもしれない。
例えば今日のこの会議だって、わざわざ人が集まる意義の半分はそういう「贅沢」によるものじゃないだろうか――
「MKラボの方ですね? お待たせしました」
不意に声をかけられ、僕の思考はそこで途切れた。振り返ると、いつの間にか後ろにいたその女性の、大きな胸が眼に入った。
「監査室の橋ノ井です。はじめましてですね」
なるほど、これが噂の巨乳――ではなく、MBA取得の才媛か。目線をあげると、きっちりとした雰囲気の女性の顔が目に入ってきた。歳は三十路半ばといったところだが、細く厳しい目つきの顔立ちは、エネルギーに満ちて溌剌とした印象を与える。
「あ、どうも」
慌てて間抜けな返事を返す。
「名刺を、よろしいですか?」
「あ、はいはい」
慌てて鞄を探り、滅多に使わない自分の名刺を取り出す。両手に持って相手と正対し、背筋を少し傾けてお辞儀をする――と、勢い相手の胸元が目に入ってきて――
「……あ、その、えっと、橋ノ井さんは留学をされていたそうで……」
「あら、もうご存知なんですね。ええ、最近までスタンフォードの大学院にいっておりました」
「一度会社をやめて?」
「会社というか、NPOにいたんですよ。そこが活動終了しちゃって、それで一念発起して、ですね」
「へぇ……」
少し意外に思っていた僕に、彼女ははにかみながら言った。
「理想を語っても誰も聞いてくれませんけど、それがどれだけ儲かるかって言うと、みんな身を乗り出すんです」
悪戯っぽいような恥らうような、そんな表情で語る彼女に、僕は一瞬呆気に取られてしまった。想像していた雰囲気とあまりに違う、その表情。もしかしたら、それに見とれてしまっていたのかもしれない。
ふと我に帰り、僕は彼女から目を逸らして手元の名刺を見た。
「事業開発部主任監査 橋ノ井雅代」。
海外の大学院でMBAを取得して帰国、サイベストに主任待遇で迎えられた、という肩書きだけでは、人間は判断できないものだ。こちらへ、と促す彼女の背中を眺めながら、憂鬱だった気分が少しだけ、上向いていた。
* * *
「……本日の報告内容は以上となります」
会議を進行する山本事業部長の言葉で、会議室の緊張が解けた。いつもなら退屈しっぱなしの会議が、今日は空気からして違う。
資料の数字に対する穏やかながら鋭い指摘、ひとつひとつの報告内容に真摯に向き合うその姿勢。会議室全体が、橋ノ井さんに呑まれていた。
「おつかれさまでした。ようやく自分の仕事が見えてきた気がしますよ」
会議室の出口で、橋ノ井さんは気さくに声をかけてきた。
「そうなんですか?」
「MBA持ちだなんて言っても、会社には会社ごとの仕事のやり方がありますから。まずは慣れないと、と思っていて」
「なるほど」
なんと応えていいかわからなかったので、僕は曖昧な言葉を返した。エレベーターホールまで歩きながら、橋ノ井さんはなにくれと雑談を投げかけてくる。
「MKラボの研究内容、面白いですよね。『空気の読める人工知能』か。おはようマイケル、なんて言って」
古い特撮ドラマに出てくる、知能を持ったスーパーカーが使うセリフだ。
「懐かしいですねそれ。僕はまだ小学生でした」
「私は中学生くらいだったかな。クラスの女の子で、観てたの私だけでしたけど」
橋ノ井さんは笑って言った。
さっきのNPOの話といい、元々が変わり者というか、オタク肌なのかもしれない。
「今度、改めてラボに伺います」
「……ぇ?」
突然の申し出に、僕は微妙な発音の言葉で応えた。
「所長さんにちゃんと顔を通さないといけませんし……それに、いろいろとお伺いしたいこともありますので」
「……はあ」
親会社の社員がラボに来るなんて、今までは滅多になかったことだ。気さくなのか熱心なのか。どうも調子が狂う。
そこで会話は途切れ、沈黙が訪れた。なかなか来ないエレベーターを待ちながら、僕は必死に話題を探した。しかしその努力は徒労に終わり、その次の話題を振ったのは橋ノ井さんの方からだった。
「……ひとつ、聞きたい事があるんですが」
「はい?」
不意を突かれて、僕の返事はまたもや上ずった。見ると、橋ノ井さんがさっきまでと違う表情でこちらに向き直っている。会議の時の真剣さともまた違う、必死ささえ感じる表情。一瞬、周囲に目をやり、彼女は言った。
「……『harv』ってご存知ですか?」
「はーぶ?」
「h、a、r、v、『harv』です」
聞き慣れない言葉だ。なんと答えようか一瞬考えていると、そこでちょうどエレベーターが来た。
「この件はまた別の機会に。ではまた」
橋ノ井さんは人懐っこい笑顔に戻り、エレベーターのドアが閉じるまで僕を見送った。
エレベーターを降り、エントランスで受付嬢に一礼して外に出る。
ちょうど昼時だ。なにか食べてから、次の目的地に向かおう。いつもと違うところで昼飯を食う機会が多いのは、外に出る仕事の特権だ。
スマートフォンを取り出し、スリープモードを解除する。と、メッセージが一件届いていた。岩井所長からだ。
「お茶が切れたから帰りに買って来い。あとタバコ」
――どうせ僕は雑用としてラボに雇われているのだ。
まあいい。ついでだから、ゆっくりとさせてもらうことにしよう。メールアプリを閉じ、ブラウザを開く。近隣のグルメ情報の検索をしようとしてふと、先程の橋ノ井さんとの会話を思い出した。
「harv……だっけ」
最新の技術用語か、マーケティング用語かなにかだろうか。もしそうなら、親会社から言われたそういうワードを知らないってわけにはいかない――そう思った僕は、検索窓にその言葉を打ち込んでみた。検索結果は英語のページがほとんどだった。人名がいくつかと、アメリカ軍の戦闘機のコードネーム、あとは映画の登場人物――どれも、橋ノ井さんが話題にしようとしたものだとは思えない。
まぁ、だとすれば「今更聞けない業界用語」の類ではないのだろう。あとで真田か美凪にも訊いてみよう。とりあえず、僕はそのままブラウザで、近くのランチを検索した。