1-1 那穂の夢と幽霊の話
暗い部屋の片隅に、影があった。
闇の中にあってなお、光を吸い込むように暗く、そのために却ってはっきりと迫る存在感があり、しかしその形ははっきりしない。
それでもそれは、確かにそこに存在していた。
まるで闇に飲まれまいとするように、より暗く、より深く、自らの存在を主張する。
私はそれに、何事か言葉を投げかけた。しかし、その声はそれに届いていないようだった。あるいは、聞こえない振りだったか。
目が慣れてくると、そこは部屋ではなく、茂みのようなものに囲まれた場所だった。
縦横に広がる巨大な木の枝や蔦のようなものが、茂みの外、遥か遠くまで伸びている。閉じ込められているようであり、閉じ込められていないようでもあった。
その中にあって、それはやはり、影としてそこにあった。それは、木の葉にしがみつく芋虫のように、茂みの隅に蠢いていた。それは世界そのものにこびりついた、落とすことのできないシミのようだった。
私は影の名前を呼んだ。
影は応えた。
だがそれは、意思を伴う返答の言葉ではなく、食虫植物の捕食反応のように、決められたプロセスを繰り返すただの現象のように見えた。
それでも、影は私にはっきりと言葉を告げた――
* * *
「……それが、今朝の出来事だったんだけど」
その大きな目をまっすぐ前へと据え、あっけらかんとした表情で、鹿島かしま那穂なほは言った。
開け放した窓から、澄んだ空気が入り込んでくる。老朽化した雑居ビルの一室とはいえ、風通しがいいのは救いだ。僕は窓の外を眺めながら、那穂の話にどこからツッコミを入れようかと、そればかり考えていた。
「……で、それは一体どこであった出来事なのか、詳しく」
僕の問いかけに、那穂は肩の上の髪を揺らして、迷いなく答える。
「部屋で。寝てるとき」
やっぱり。
「そういうのは出来事じゃなくて、夢って言うんじゃないか?」
「えー? 夢であった出来事でしょ?」
そう言われると、確かに間違っていないような気もする――
「……いや、だめだろ。そこは分けて使おうよ」
僕が否定すると、那穂は首を傾げた。釈然としないらしい。困った娘だ。
「真田、どう思う?」
声をかけられた真田さなだ穣みのるがディスプレイから顔を上げ、眼鏡の奥からこちらを見た。
「目覚めた直後の半覚醒状態で、夢での記憶を現実の体験と錯覚するのはよくあることです」
「いや、そういう話をしてるんじゃなくてだな……」
真田は僕の言葉を無視し、再びディスプレイに向かって何事か作業を始めた。
「真田くん、お昼食べないの?」
「さっきコーヒー飲んだから」
どうもこの二人は話が噛み合っていない。
時計を見ると、昼休みはもうすぐ終わりだった。真田はいつものように、休憩中にも関わらずなにかのソースコードを眺めている。
「……あ、そうそうそれでー」
那穂は僕の方に向き直り、話を再開した。
「そいつが私に言った言葉ってのが……」
――君の意思を見せて――
「……え?」
「君の意思を見せて、そうすれば世界を見せてやる……って」
「ふーん……」
夢の中の台詞としては、具体的というか抽象的というか、なんだか違和感のある言葉だ。
「朝からそんな出来事があったから、今日はなんか、不思議な感じ」
「出来事じゃなくて、夢、ですね」
話を続ける那穂に、真田がPCの向こうから茶々を入れる。
「いいじゃない、本人にとっては、夢で見たことも現実の出来事も、同じ『出来事』でしょ?」
「夢というのは、脳の記憶野が刺激され呼び起こされるものなので、『出来事』とも言い難いです」
食い下がる那穂を、真田がばっさりと斬り落とす。
「そういう意味では、夢を『見る』という表現さえ不適切なんですけど」
「えー? でも、夢の中ではちゃんと見たり触ったりしてるじゃん」
「そういうことをしたという記憶が刺激されているだけです。もし実際に体験しているなら、その様子が第三者からも観測できなくてはならない」
「本人にとってはそういう『出来事』なんだから、別にいいじゃない!」
「客観的に観測できないものは、存在しないのと同じことです」
取りつく島もない、とはこのことだ。この男の目にはきっと、世界が横から見えているに違いない。
「ね、ね、それじゃ真田くん、幽霊なんかも信じないのー?」
那穂が今度は茶化すように言った。
「信じません」
「なんで? ほら、神城峠の幽霊とかさ、見た人がたくさんいるんだから、客観的に観測できてるじゃない?」
「それは複数の主観的観測があるというだけですから。同じものを見たとは限らないでしょう? 噂を聞いて、自分の体験をそこに結びつけてしまう、というのはよくある心理です」
「それじゃぁ、さ……」
那穂は勝利を確信した、というように笑みを浮かべた。
「あの『幽霊アカウント』とかなら、どう? あれなんか、ネット上で同じ現象を、同時に多数の人が見てるんだよ! ほら論破!」
「論外です。『幽霊の書き込み』なんて、いくらでも偽装が可能です」
会心の切り込みをあっさりと否定され、那穂は口を尖らせた。
「だって、幽霊がいるならお話聞いてみたいじゃない」
「那穂さんはその話、信じてるんですか? 神城峠とか、『幽霊アカウント』とか」
「ううん、あんまり」
そんな会話を背中で聞きながら、僕は弁当の空き容器を捨てて、外の自販機へコーラを買いに向かった。
雑居ビルの階段を降りながら、先ほどの那穂の話を思い出す。
「君の意思を見せて、か……」
なんとなく、心に引っかかるものがあった。今にして思えば、それがすべての始まりだったんだ。