5-3 釣り人の話
「よし、それじゃ始めるぞ」
いつも厳しい顔の岩井所長が、いつもより更に厳しい調子で言った。
それはどちらかというと、僕らスタッフへの厳しさというより、自分への厳しさであっただろう。要するに緊張しているのだ。そしてそれは、その場にいる全員が同じだった。
「それじゃ、サーバーに入ります」
素っ気無いサーバー管理画面に、『なうたいむ』の運営会社から提供されたアカウントとパスワードを打ち込んでいく。なんということはない作業だが、真田の表情はいつになく真剣だ。
「アクセス……成功。すげぇ、ほんとにこのアカウントで入れるんだ」
「当たり前でしょ。ちゃんと正式にもらったんだから」
美凪の言うとおりだが、真田の言うこともよくわかる。『なうたいむ』のような大規模なサービスのサーバーなんて、国家機密並の厳重さのはずだ。いくら運営会社から正式に許可されたとはいえ、アクセスできることそのものがちょっとした感動だった。
「よし。ログは見れるか?」
「ちょっと待ってください。まずは構造を把握してからでないと……」
そう言いながら、真田はキーボードを叩き、次々と情報を画面に呼び出していく。慎重な口調とは裏腹に、まるで楽器を叩くようなその手さばきからは、かなり乗っている様子が見て取れた。
程なくして、「よし」と呟く真田。
「大体わかりました。ログも見れますよ。どうしましょうか?」
「とりあえず、例の『幽霊アカウント』を見てみない?」
「御意。ちょっと検索に時間かかりますよ」
コマンドを入力し、『幽霊アカウント』の書き込まれた日のログを表示させる。しばらくして、画面が文字と数字の羅列で埋め尽くされた。それらが日付と時間、投稿のユニークIDなどを示しているらしいことは僕にもわかる。
「書き込まれた時間って何時でしたっけ?」
別のPCで『なうたいむ』の方にアクセスし、『幽霊アカウント』の書き込みがあった時間を調べる。
あの事件以来、『幽霊アカウント』の登場頻度は減っているようだった。僕はその内のひとつの時間を真田に告げる。真田がその時間の書き込みについて、詳細な内容を表示した。
「ログのデータ構造については情報もらってたよね?」
「はい。展開しますんでちょっと待ってください」
そう言いながら真田は、なにかのプログラムを実行させた。別のウィンドウが開き、先ほどの数字の羅列が表になって表示される。
「……ほう、こりゃ興味深いな」
「やっぱり、書き込み元IPアドレスが空か……」
IPアドレス、というのは、インターネット上における住所のようなものだ。ネットに接続しているPCにはすべて、このIPアドレスが割り振られている。
そのIPアドレスが空、というのは、つまり――
「PCを使わずに書き込んでるんですかねー?」
普通ならいつもの天然ボケとしてスルーされる那穂の発言だが、この日は違った。現に、本当にIPアドレスが存在しないのだ。こうなると、『幽霊アカウント』という言葉がにわかに重くなってくる。
「ひとつはっきりしたのは、『ターミナル』から書き込んだわけじゃなさそうだってことですね」
僕は那穂と顔を見合わせた。先日、森脇教授と話した内容を思い出す。ネットワークサーバー上に残留思念が幽霊となって、書き込みを行っている――?
「よし、じゃあ犯行声明の方も見てみよう」
「うす」
『幽霊アカウント』がどんなものであれ、橋ノ井さんを殺したあの犯行声明は別人によるものだ――それを言い始めたのは僕自身だったが、今となっては自信がなくなってきた。
そもそもが仮説に過ぎないものを、突き詰めて検証していく作業には、居心地の悪さを覚えずにいられない。そんな僕のもどかしさを余所に、真田は淡々と作業を進めていった。
「出ました」
真田が言うのとほぼ同時に、例の犯行声明の投稿の詳細情報が画面に表示される。
「……こっちもか……」
こちらの情報でも、先ほどと同様、書き込み元IPが空――『幽霊アカウント』と同様の状態だということになる。どうやら、僕の推論は間違っていたようだ――
「いや、そうでもないですよ」
真田が僕の思考を遮るようにして言った。
「どういうこと?」
真田は黙ってキーボードを叩き、階層化された情報を次々と呼び出していく。
「あった……やっぱりそうだ」
真田指差す画面の一点を全員が注視する。
「この情報は?」
「このタイミングでデータが更新されたことを示しています」
「更新……?」
「アクセスの痕跡は巧妙に隠されていますが……しかし、最初にこのデータが作られたのは、こっちの日付ですね」
真田の指差す、最初に投稿が書き込まれた時間は2017年7月10日の、11時ちょうど。それに対し、更新されたと真田の言うデータの時間は11:24とある。
「幽霊さんが後から書き直したっていうこと?」
「『なうたいむ』には投稿した内容を編集する機能なんてありませんね」
「いずれにしろ、以前に見たとおり『幽霊』が『プログラムのようなもの』だとしたら、わざわざ書き直すっていうのは考えにくいだろうな」
「しかも、書き直したことを隠している。これは疑いようがない」
「と、いうことは……」
乗り出した僕と美凪に、所長が頷く。
「断定するのは危険だが、犯人によって投稿データが改ざんされた、と考えられるだろう」
「正体不明のアカウントをハックするよりも手っ取り早いかもしれませんね」
真田はそう言いながら、新しいウィンドウを開いて何事か始めた。何事かと思う皆の視線を余所に、次々と情報を切り替えて打ち込んでいく。しばらくそれを続けた後、キーボードから手を離してひとつ伸びをした。
「だめですね、さすがに情報を更新したアクセス元まではわからないです。IPの偽装をしてるみたいだ」
「偽装してる、ってことは、IPは存在するのね?」
「多分、それは間違いないです。これは実在する人間の仕業でしょう」
おおっ、と5人の間にどよめきが走った。得体の知れない謎だらけだったものが、自分たちの暮らす現実の世界と陸続きであったという実感。それがようやく、腑に落ちたという感覚があった。
「しかし、ここから追いかけられないんじゃ手詰まりだな」
ひとしきり顔を見合わせた後、その場を締めるように所長が言う。
「なにか別のアプローチをしてみる?」
「そうは言ってもな、やれることは限られてくるぞ。これ以上調べようにも……」
「いえ」
所長と美凪のやり取りを、真田が遮る。
「……狩ることができないなら、釣りの方にしましょう」
真田の表情は、見たこともないくらい生き生きとしていた。
「真田くん、悪い顔してるよー」
「ククク……正義のホワイトハッカー、真田穣から逃れられると思うなよ……」
その顔はどう見ても、悪のマッドサイエンティストだが。
仕込みに時間がかかる、という真田の言葉を受け、僕らはいったんデスクの前を離れた。インスタントコーヒーを淹れ、ソファに腰掛ける。真田はデスクを立ち、自分のコーヒーにミルクと砂糖を追加していた。本人によれば、それは「本気を出す時の儀式」らしい。
「これで解決すればいいね」
美凪が言った。しかし、その表情はどこか心もとない。
「あの犯行声明を書き込んだ奴が割り出せたら、そこからは警察とかの仕事になるだろうな」
所長が無表情に受けあった。
それっきり、誰も口を開かなかった。所長も、美凪も、那穂も、無言でただコーヒーをすする。デスクに戻った真田が叩くキーボードの音だけが、室内に響いていた。
「橋ノ井さん、なんで死んじゃったんだろう……」
那穂がポツリと呟いたその言葉に、カップを持ち上げる手を一瞬止める。それはまさに、僕らが今まで目を逸らしていた命題だ。
「きっと、犯人が捕まればそれもわかるよね」
美凪が後を引き取って言った。
僕は考えていた。あまりにもわからないことが多すぎるこの事件――僕らはいつの間にか、犯人を見つけだそうとすることで、それを理解した気になっていたのではないだろうか?
「所長……」
「ん?」
「北田恵さん、でしたっけ。所長の元教え子だっていう……」
一瞬、所長の表情が曇った。
「……ああ……それがどうした?」
「その人は……なんで自殺したんでしょうか?」
僕の問いに、所長はただ黙っていた。一瞬曇った表情は、すぐにまたいつもの無表情に戻っていた。
「いや……やっぱりいいです。すみません」
「……」
橋ノ井さんの死、『幽霊アカウント』、犯行声明、『ターミナル』のあの現象と、北田という研究員の口癖だったという『あの言葉』――それぞれがばらばらに頭の中を巡っていた。
人が死ななければならないという状況は、間違いなく狂気をはらんでいる。それが他人を殺すにせよ、自分を殺すにせよ、だ。人をそうまで狂わせるようななにかが、この一連の出来事の中に、あるというのだろうか。
コーヒーはもう冷めていた。代わりを淹れる気にもなれず、僕はカップをテーブルの上に置いた。
* * *
暗い部屋の片隅に、影があった。
光を吸い込むように暗く、はっきりと迫る存在感がありながら、その形ははっきりしない。まるで闇に飲まれまいとするかのように、より暗く、より深く、自らの存在を主張していた。
僕の投げかけた声は、それに届いていないようだった。あるいは、聞こえない振りだったか。
僕は影の名前を呼んだ。影は応えた。それは食虫植物の捕食反応のように、決められたプロセスを繰り返すただの現象のように、しかし、はっきりと応えた――
暗闇に光が刺し、僕は目を開けた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
辺りを見回すと、事務所のソファで他の3人も眠ってしまっている。真田は起きていたが、キーボードを叩く音は止み、デスクの前で腕を組んで画面を凝視していた。僕は事務所を出て、トイレへと向かった。
トイレから戻ってくると、同じく目覚めたらしい所長がコーヒーを淹れていた。時計を見ると、あれから数時間が経過している。真田は相変わらず、腕組みをして画面を凝視していた。
「さっきの話な」
マグカップを持ってソファまで戻ってきた所長が言った。静かな事務所に、その声は吸い込まれるようだった。所長はマグカップに一口、口をつけ、言葉を継いだ。
「……自殺じゃないのかもしれん」
「……え?」
それはどういう――
一瞬の混乱の後、問い返そうとした僕の言葉は、真田の声に遮られた。
「かかった!」




