5-2 死せる者の話
「あの程度で二日酔いとは情けないなぁ」
二日酔いに苦しみながらラボのソファでコーヒーを啜る僕に、美凪は容赦ない言葉を投げつけてきた。
「……お前ら人外と一緒にしないように」
「うら若き乙女に人外とは何事か」
「特に若くもないから人外で構わないな」
「そんだけ減らず口が叩けるなら、仕事の話しても大丈夫ね」
そういうと美凪は、僕の向かい側に座りなおして鞄から書類を取り出した。
「仕事ってなんの?」
「今私が持ってくる仕事って言ったら、ひとつしかないでしょ」
美凪は書類をテーブルに広げた。「秘密保持契約」とある。
「……おお、これは……!?」
「そう、『錦の御旗』よ。これで私たちは官軍ってわけ。というわけで、真田君」
美凪は向き直って言った。
「メールもらってますよ。必要な情報はそろってるので、いつでも始められます」
真田はディスプレイから顔を上げずに言った。表情は見えないが、恐らく一刻も早く始めたくてうずうずしているに違いない。
「まぁ、焦らないの。仕事は打ち合わせが8割ってね。俊さんが戻ってきたら作戦会議しましょ」
「やることなんか決まってますよ」
そうは言いながらも、真田は美凪に従うことにしたようだ。
俊さ――岩井所長は朝から出かけていて、まだ戻ってきていない。何時に戻ってくるかは聞いていなかった。僕も真田と同じく、早く決着をつけたい気持ちでいる。頭にかかる靄を振り払うように、僕は濃い目のコーヒーを啜った。
「ただいまー」
そんなタイミングでドアが開く音から、反射的に抱いた期待を、能天気な声が裏切った。
「なんだ、那穂さんか」
「はいはーい、その那穂さんですよ」
部屋に入ってきた那穂が、相変わらず空気を読まない見事な笑顔で真田に応えた。いつもならその後、デスクに荷物を置いてそこでお菓子を食べ始めるところだが――今日は違う行動が続いた。
「先輩」
那穂は荷物も置かずに、僕と美凪が座るソファのところまでやってきた。
「ん?」
「つきあってください」
「……へ?」
呆気にとられた僕の腕を、那穂は引っ張る。
「ほら、早く行きますよ!」
「ちょ、なに?」
僕は那穂に引っ張られるまま、研究室を出た。
* * *
「ごめんくださーい!」
わけもわからないまま連れてこられたのは、城北大学の森脇教授の研究室だった。
「来たか」
森脇教授はデスクに座って僕らを迎えた。内心、あの森脇教授になんと怒鳴りつけられるか、とびくびくしていた僕は、待っていたと言わんばかりの対応に拍子抜けしていた。
「お待たせしました、森脇先生! 改めてお話伺えますかー?」
「うむ。まあかけたまえよ」
言われるがままにソファに腰掛ける。今ひとつ事情の飲み込めない僕を置いて、那穂と森脇教授は話を進めた。
「さて、鹿島君の仮説についてだが……」
「鹿島」というのが那穂の苗字であることに思い至るまでに1秒、その「仮説」という言葉に違和感を感じるところまでもう1秒。その間に、森脇教授の話は先に進む。
「コンピューター上で処理されるデータというのは、二進数……すなわち0と1の組み合わせで全てが構成されている。言葉や文章にしても、0と1で構成された文字の組み合わせに過ぎない」
森脇教授は手を膝の上で組んで身体を乗り出し、話を始めた。
「畢竟ひっきょう、二進数で表される言葉や数値に『意味』を見出すのは、それを読む人間の勝手であって、データそのものには全く意味がないと言ってもいい」
僕は那穂と教授を見比べながら、状況についていこうと懸命に話を聞く。
「また、『残留思念』という考え方は、基本的に『場』や『物』に紐づくものだと考えられている。ネットワークサーバーやPCの端末そのものに思念が焼きつく、という考え方はできるが、『ネットワーク上』という概念の中で思念の焼きつきが起こるとは考えにくい」
「それじゃぁやっぱり、『インターネット上に存在する幽霊』ってのはだめですかね……」
心底残念そうに那穂が言う。
「いや、そうとも言えない。さまざまな人間の意志が集積されるインターネットという『場』に、残留思念の焼きつきによる幽霊現象が発生する。発想としては面白い」
森脇教授がフォローするように言う。
「そもそも、残留思念という考え方が概念上のものなのだから、可能性としてはどんなものでも検討に値するとは思う。ネットワークという新しい概念上では、まだ議論が尽くされていないことでもある。ソースコードに残留思念がこびりついていたとしても、不思議はないかもしれない」
段々と僕にも話が見えてきた。
つまり、那穂が「インターネット上に存在する幽霊」という仮説を披露し、それに対して森脇教授が答えているわけだ。恐らくは、例の「幽霊アカウント」について、那穂なりに考えた結果なのだろう。
「でも、それが焼きつく『場所』とかがないと結局幽霊さんにはならない、ってことですよね……」
「『依り代』とでも言うべきか。一般的なオカルトの考え方ではそうだな」
話が見え始め、興味をそそられた僕の耳に、森脇教授の言葉は引っかかるものと聞こえた。一般的には、という表現。それはつまり――
「一般的でない場合が考えうると……?」
僕が発した問いに、森脇教授はその、ひげを蓄えた口元を歪ませて答えた。
「私の論文は知っているかな?」
「それは……」
この前、ラボで話題になった、あの論文。
「『神たる大衆の子』……」
クラウドサーバー上で処理された無数の情報、人間の行動ログから、「完全人格」を創り上げるという、「マゴスエンジン」の基礎理論となった、曰くつきの論文。
「極端に言ってしまえば、あれはネットワーク上に『幽霊』を作る理論だと言ってもいい。もっともそれは、誰かの残留思念ではなく、大衆のさまざまな意図、情報が交じり合い、その総意によって作られた擬似人格ではあるが」
「それじゃぁ、『マゴスエンジン』の中になら幽霊さんがいるかもしれないんですね!?」
「現状のシステムでは難しいだろうが」
目を輝かせて身を乗り出した那穂を、森脇教授は言下に制した。
「今の『マゴスエンジン』に使われているのは、あの理論の基礎的な部分に過ぎないしな。可能性の域を出ない話だ」
「でもでも、いないとは言い切れないんですよね?」
「まぁ、所詮はオカルトに類する話だからな。絶対にないとは言い切れないだろう。どこかのサーバーマシンの中に思念がこびり付いている、などということも、あるかもしれんね」
喰らいつく那穂に、森脇教授がやんわりと答える。本当に人間の出来た人だ。那穂が幽霊にこだわるのは、橋ノ井さんの事件について自分なりに可能性を考えてのことなのだろうが、それ以上に趣味の問題でもあるのだと思うのだが。
それにしても、と思う。例の「幽霊アカウント」と、『ターミナル』のあの「現象」、そして橋ノ井さんが殺されたあの事件――三つの出来事を繋ぐ糸口に、この仮説はなり得るだろうか。世界中の人々をつなぎ、日々その情報をやり取りするネットワーク上に、実体を持たない人格が存在し、「なうたいむ」に書き込みを行っている?
「だが、この仮説については私よりもむしろ、君たちの方が近い位置にいるのではないかな?」
森脇教授が仕切りなおすようにして言った。
「……と、言うと?」
聞き返した僕に向かって、森脇教授は悪戯っぽく笑って見せた。
「残留思念は、それを残した人物の感情が強いほどはっきりと残ると言われている。ならば、ネットワーク上のデータに感情が伴うことになれば……」
「……そうか、『ターミナル』ですね!?」
『ターミナル』は、入力された情報を人間の「感情」と一緒に処理するシステムだ。それを使って入力した情報なら、その「思念」が幽霊に化することがあるかもしれない、ということか。
「でも、結局その『感情』が焼きつく『依り代』がないといけないんですよね?」
僕の思考を遮るように那穂が言った。
「その問題はある。しかし、それさえ用意すればもしかすると、『残留思念シミュレーター』のようなものが作れるかもしれない。研究が進んだ暁には、是非とも共同研究をお願いしたいところだね」
オカルトの領域ではあるものの、それは確かに興味深い話に思えた。橋ノ井さんが聞いたら大喜びで話に乗ってくるだろう。
亡くなった橋ノ井さんの顔を思い浮かべ、僕は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。そしてふと、橋ノ井さんと同じく、既に亡くなった人物がいることを思い出した。
森脇教授は、背もたれに身体を預けた。
「もしかしたら将来、ネットワーク上に残った情報から、死者と話をすることさえ可能になるのかもしれないな。ネットワークを介することで、人類が『死』という現象を克服する、というのは……」
少し遠い目で、森脇教授は語っていた。その時、発せられた「『死』という現象の克服」という言葉――それは、身近な人間の死について思いを巡らせていた僕の心に、さざ波を引き起こした。
「……『死』は、克服されるべきでしょうか?」
僕の問いを受けた森脇教授の眉間に、皺が寄った。
「どういうことかね?」
「森脇教授は、死んだ人間と話をしたいですか? 例えば……」
身近な人の死――それを経た人間の感情。僕はそれに興味があった。老衰ではなく、想いを残して理不尽に死んだ、例えば橋ノ井さんの「死」のような出来事。そう、例えば――
「……北田さん、とか」
橋ノ井さんの死は、やはり僕の心に強く影を残しているのだろう。共同研究者が自殺し、その論文の剽窃を疑われ、なおこのように「死」を語るこの男に、僕はそれを尋ねずにはいられなかったのだ。
「ちょっと、せんぱい……」
那穂が珍しく、うろたえた様子で袖を引っ張った。
「いや、構わない」
森脇教授の顔は、元の表情に戻っていた。
「岩井さんから聞いたんだな。あれは不幸な出来事だったんだ」
飽くまでも淡々と、森脇教授は言った。
「天才、って呼ばれてたって聞きました」
「ああ、その通りだ。あいつがいなければ、マゴスエンジンの理論は完成しなかった。研究も上手くいっていたのに、何で自殺したのかはわからん。話せるものなら話したいさ」
森脇教授は懐かしむような、訝るような、そんな目でため息をついた。
「……不躾なことを、申し訳ありません」
「いや、いいんだ。確か君は、例のサイベストの殺人事件に巻き込まれたんだったな。こうした話に敏感になるのも無理はない」
さすがに後悔して謝る僕に、森脇教授は穏やかな声で言った。
「北田は妙な女でなぁ。天才と馬鹿は紙一重とは言うが、あいつの研究には執念みたいなものを感じたよ。飯を食うときと会議の時以外は、いつもぶつぶつと呟きながらPCに向かっていた」
「あはは、うちにもそういうプログラマ、いますよ」
那穂が応じた。森脇教授は笑い、言う。
「こう、まるで語りかけるみたいにしてな。嬉しそうにPCに向かって話しかけてた。『君の意思を見せて』なんて言ってな……」
「……え?」
僕は耳を疑った。それは――そのフレーズは――
「……『そうすれば、世界を見せてやる』」
忘れたくても忘れられない。全ての始まりとなったその言葉。我知らず口の中で呟いただけだったが、森脇教授にも聞こえたらしく、不思議そうな顔でこちらを見る。
「そうだ。確かにそう言っていた。なぜそれを?」
森脇教授の問いには答えられなかった。隣に座る那穂が、いつになく真剣な顔でこちらを伺っていた。




