4-4 ホワイトハッカーの話
サイベストを出てラボに着くと、真田が一人でPCに向かっているところだった。コンビニに寄って買ってきたコーラをデスクに置くと、真田はそこで初めて僕に気がついたように、ヘッドフォンを外してこちらに向いた。
「もう来たんですか。今日はもう来ないと思ってました」
「親会社に呼び出されちゃってね。一通り報告してきた」
ああ、と真田は頷き、PCに向き直った。
「なにかわかった?」
「まだ調べ始めたばかりですから、なんとも。ただ……」
キーボードを打ちながら真田が答える。
「少なくとも、例の『harv』という単語はソースコード内に存在しません。俺が入れた憶えがないんだから、当然ですけど」
「なるほど」
「それと、現象を詳しく解析するためにデバッグコードを入れてみたんですけど」
デバッグコード、というのは、プログラムの挙動を確認するために内部に埋め込む命令のことだ。特定の条件、ポイントでプログラムを止めたり、データを吐き出したりすることで、問題の原因を突き止めるために使用する。
「……そもそも、現象が再現しないんですよ。先輩がやったように入力しても、例の現象が起こらないんです。いろいろ試してはいるんですけど」
僕は自分の席の『ターミナル』を手に取り、入力画面を起動した。
”ハロー、マスター。なにかご用ですか?”
表示された入力画面に、例の言葉を入力する。h、a、r、v、そして、エンター。すると『ターミナル』が、それへの答えを表示する。
”その命令は存じ上げません。単語をインターネットで検索しますか?”
画面が揺らぐような感覚も起こらなければ、返ってきた内容も通常の『ターミナル』のものだ。
「先輩がやったらもしかして、と思ってたんですが、やっぱりだめですか」
確かに、例の現象を起こしたことがあるのは僕だけだったが、僕自身、毎回必ず現象を起こすことができたわけではない。発生条件が他にある、ということだろうか?
「もうちょっと調べてみますけど。先輩の方でも再現テストお願いします。最初に見つけたのは先輩なんですから」
「……うーん、まぁ、やってみるよ」
この手の、再現性の低い現象の調査というのは、デバッグの中でも一番厄介な部類なのだ。正直僕は、そのことに暗澹としていた。
背後で、ドアの開く音が聞こえた。
「おつかれーっ!」
美凪の明るい声が響く。相変わらず、自分の事務所のような遠慮のなさだ。
「お、なんだもう起きてきたの? 寝てていいのに」
「そうもいかなかったから。まぁ、適当に切り上げて帰るよ」
「あらそう? じゃぁ、『なうたいむ』から仕入れた話は明日にする?」
「……お、マジか」
朝出て行ったと思ったらもう会ってきたのか。相変わらず仕事が早い。
「俊さんも那穂ちゃんもいないのか。まあいいか」
美凪はバッグをソファーに放りながら言った。
「『なうたいむ』の社長に会ってきたんですか?」
「いや、社長さんには会えなかったんだけどね。その下の人に話聞いてきたよ」
「ちなみに、その人も友達?」
「『なうたいむ』には結構出入りしてるからね。知り合いは多いのよ。いい会社だよあそこ」
本当にこの女は、どれだけ顔が広いんだ。
「それで、なにかわかったんですか?」
「うん、それね」
美凪はポットの所に行き、自分でインスタントコーヒーを淹れながら話を始めた。
「例の『幽霊アカウント』はやっぱり、向こうの社内でも問題になってたみたいなの。話題になってたから見てみたら、なんだこれ、って」
「そうなのか」
やはりあれはなんらかのバグとして認識されていた、ということだろうか。
「いや、それがね。問題になってたポイントっていうのが面白くて」
「面白い……ってなんです?」
美凪は自分用のカップに湯を注ぎ終え、ソファーの方へ戻ってきた。
「『幽霊アカウント』のユーザーIDあるでしょ?」
「……なんだっけ」
『幽霊アカウント』は「存在しないユーザー」として『なうたいむ』に書き込みを行っており、アカウントのプロフィール情報など、本来あるべき中身を見ることができない。
しかし、書き込みの際にはユーザーIDが表示されていたはずだ。あれは確か――
「naquaniss、だったっけ」
「そう、それそれ」
「確かに、ユーザー情報が存在しないのにIDだけが存在するってのは変でしたね」
「でしょ。それが実はね、あのnaquanissってIDね」
コーヒーを一口啜り、美凪が言う。
「『なうたいむ』のデフォルトアカウント名らしいの」
「なんだって……?」
デフォルト名、というのはつまり、ユーザー名を何も入力しなかった場合に設定される名前のことだ。ゲームで最初に主人公の名前を決めずに始めると、元から設定されていた名前になる、あれだ。
「でも、『なうたいむ』でそんなの見たことないですよ」
「あれ、お前、『なうたいむ』やってるの?」
「サービスイン当初からのヘビーユーザーですがなにか」
「わたしフォローしてるよー」
そうだったのか。自分がやらないから知らなかったが、みんな結構やってるんだな。
美凪は話を続ける。
「開発当初に作ったものがまだ残ってるだけらしいけどね。IDを設定せずに書き込みとかをしようとすると、『naquaniss』の書きこみとして処理される仕様らしいよ」
「IDなしで書きこむ、なんてあり得るか?」
「だから飽くまで、内部的な仕様なんでしょうね。テストかバグ回避用にでも作ったんじゃない?」
「つまり、サービス上は使われていないが、プログラムとしては存在する、と……」
まぁ、プログラムの開発運用ではよくある話ではある。
「だとすると……内部からやったものだってことかな?」
「うん、でも、そんな仕様を知ってるのは、本当に開発当初から関わってる立ち上げスタッフくらいだって言ってたけどね。社長以下数名だけ。その人たち、今ほとんど経営側に行っちゃってて、そんなことわざわざするとは思えないって」
「……そういえば、ユーザー登録の時に『naquaniss』っていう名前で登録しようとすると、『このIDは使用できません』って出るんでしたね」
「なるほど……」
つまり、あのアカウントは本当に存在しないはずのものだってわけか。
「ますますわからなくなったなぁ」
「あ、でもそれだけじゃないよ」
美凪がコーヒーカップを置いた。
「というと?」
「サーバーログの分析、させてくれるって」
「おお!」
珍しく真田が驚いた声をあげた。それはそうだろう。自社サービスのサーバーシステムの中身なんて、普通はそうそう弄らせてくれるものじゃない。
「よくそんな話とりつけたな……」
「へっへー。真田君のこと、ホワイトハッカーだって売り込んじゃった」
企業のシステムに不正に侵入したり攻撃を行うハッキングに対し、セキュリティの穴を調べて対策を行ったり、技術的なアドバイスを行ったりと、ハッキング技術や知識を善意の元に合法的に使用する――それがホワイトハッカーだ。
美凪によれば、『なうたいむ』の運営側でも、『幽霊アカウント』の件は問題になっており、しかもそれが殺人事件に関係した可能性があるということで、警察側からも詳細な調査を依頼されているため、ちょうど信頼できる人材を探しているところだったらしい。
「というわけで、お願いね真田君。詳細はまた連絡があるはずだから」
「正義のハッカー・真田穣にお任せください。必ず真実を暴いてみせましょう」
それにしてもこの男、ノリノリである。
少し光明が見えてきた――なにしろ、なにがきっかけで命が狙われるかもわからない、というのが冗談で済まない状況だ。なによりも身の安全のために、とにかく今は情報が欲しかった。
「……それにしても、つくづく人たらしだよなぁ」
「どーも。まぁ、あたしにできるのはこれくらいだからね」
感心して言った僕の言葉に、美凪はコーヒーの湯気の向こうでおどけてみせた。
「敵わないわ。ほんと尊敬する」
「そんなことないよ」
美凪はそう言って笑い、コーヒーをすすった。




