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4-1 第一発見者の話

 重いガラス戸を押して建物から出ると、外は雨が降っていた。


 水たまりに映る灰色の空が、まるでビルを押しつぶそうとでもするように重く、生暖かい空気がそれを辛うじて支えているかのようだ。雨音が絶え間無く響くのに、妙に静かだった。跳ねる飛沫からみて、結構な降りのようだ。



「お疲れさん」



 不意に声をかけられて顔を上げると、傘を持った美凪が立っていた。僕はなにも言わず、促されるままに彼女の車に乗った。


 何度か乗ったことのある美凪の車だが、今日は特別に暗く感じる。ウィンドウに流れる雨の雫のせいで、外からの光も遮られているように感じた。外の景色は滲み、昨日までとはなにもかもが違ってしまったように思える。



「……お腹、減ってない? なんか喰ってく?」


「……いや……」



 昨夜から何も食べていなかったが、そんな気分にはとてもなれなかった。まるで僕が犯人だと言わんばかりの事情聴取から、今ようやく解放されたのだ。無理もない。なにしろ僕は、殺人事件の第一発見者なのだから。



「殺人……事件か……」



 まさか、自分の身の回りでこんなことが起こるなんて。祖父の死に際に立ち会ったことはあるが、それとは根本的に違う。死ぬはずのない人間が、死ぬ――理不尽さに怒るというよりも、地面が突然消えたような現実感のない不安さえ覚える。



「素敵な人だったみたいね、橋ノ井さん」


「……」


「私も一度、会って話したかった」



 そういえば、美凪は橋ノ井さんと面識がないのだった。この二人ならきっと、いい友達になったに違いない、と僕は思った。二人でワインの瓶を何本も空けている様子が、まざまざと想像できる。


 ――なぜ、彼女だったのだろう。あの日、あのタイミングで、なぜ彼女は死ななければならなかったのだろう。殺されるほどの恨みを持たれていたのだろうか? あの人が? いや、どんな聖人君子だって、絶対に恨まれることがないとは言い切れない。例えば男女の仲のもつれとか――そういえば警察からも、橋ノ井さんとの男女の仲を疑われた。


 恨みなどでなく、たまたま行きずりの犯行だった可能性だってある。第一、サイベストみたいな大企業で働いている女性が、あんなセキュリティの弱いところに一人で住んでいたのも危なっかしい。


 それか、あるいは――なにかの事件に巻き込まれたとか?



「あの日、橋ノ井さんのうちに何の用だったの?」


「それは……」



 美凪の問いかけになんと答えようかと考えて、僕はその時、大事なことを思い出した。



「……『harv』… …」


「なに?」


「h、a、r、v。『harv』……って、なんのことだかわかる?」


「……聞いたことない。なんなの?」


「いや……」



 あの日、橋ノ井さんが伝えようとしたことと、僕が見たあの現象。その二つの間に、もしかしてなにか関係があるのだろうか。


 僕は大きくため息をついた。



「家まで送るよ」



 シートに深く身体を埋めた僕を見て、美凪が言う。



「……いや」


「ん?」


「悪いけど、ラボまで行ってくれないか」


「え……それはいいけど……疲れてるんじゃないの?」


「一応、みんなにもちゃんと話さないといけないだろ。見知った顔でもあるし……」



 それに正直、帰っても休める気がしなかった。もしかしたら、一人になるのが怖かったのかもしれない。


 * * *


「あれ!? せんぱい!?」



 入口のドアを開けて中に入るなり、那穂が素っ頓狂な声を上げた。



「なんだ、来たのか。休んでていいものを」


「いえ、まぁ一応……」



 所長に曖昧な返事をしながら、僕はとりあえず自分のデスクに座る。美凪はいつものように、ソファに腰掛けていた。真田がコーヒーを淹れ、運んできてくれる。こういう時、案外気が利くのだ。



「雅代さん、いい人でしたよね……」



 那穂は泣きそうな顔をしていた。僕は何も言わず、真田の淹れた濃いめのコーヒーをすすった。



「うちの仕事、これからどうなるんですかね」



真田は美凪にもコーヒーを出しながら言った。程なく代わりの監査役がつくことになるのだろうが、少なくともこれでうちが「曰く付き」になってしまったことは否めない。



「さっきサイベストの方に顔を出してきたけど」



 美凪が横から口を開いた。



「びっくりするくらい普通で、拍子抜けしちゃった。あれだけデカい会社になると、あんなもんなのかな」


「まぁ、橋ノ井さんのことを知らない社員の方が多いんだろうしな……それに、社員が事件に巻き込まれるってのも、初めてじゃないんだろうよ。さすがというか、な」



 所長がいつもと変わらず、ぶすっとした表情で言う。


 確かに、うちのような小さなラボなら、スタッフが一人居なくなるだけで大騒ぎだが、あれほどの規模の企業となればリスク管理も行き届いているのだろう。例え死んだのが社長だったとしても、何事もなく会社は回っていくに違いない。



「そう考えると、なんか不気味ですね。人が一人死んだってのに……」



 真田が言った言葉に、所長はため息をつく。



「組織ってのはそういうもんだ。そうでなきゃいけねぇしな」


「そんなもんですかね……」


「警察の取り調べやなんかはあるんだろうがな」



 所長は自分のカップからコーヒーを一口すすった。



「組織ってのは、インプットとアウトプットを繰り返す、一種のプログラムだ。その中にバグがあれば、修正するか切り離す。いいプログラムっていうのは、バグが少ないんじゃなく、デバッグがし易い構造になってるもんさ。その中で個人がどういう感情を持つかは自由だけどな」



 個人が集まって構成しているはずの組織がいつの間にか、それそのものがプログラムとして動き始める――確かに、目的達成のために組織構造を最適化していけば、自ずとそうなるのだろう。それは良いとか悪いとかの話ではない。


 故人を悼むことを組織が強制するなんてのは、それこそ本末転倒だ。しかし――頭ではそうとわかっていても、「人が一人死んだという事実を無視できる構造」というものには、なんとなく割り切れない思いが残る。



「せめて、早く犯人が見つかって欲しいね……」



 美凪が呟くように言った。



「そのことですけど」



 黙ってPCの画面を見ていた真田が突然声を上げ、僕らは一斉にそちらに注目する。



「見つかったみたいですよ」


「見つかったってなにが?」


「だから、犯人が」



 那穂のリアクションはいつもの天然ボケではなく、至って真っ当な反応だっただろう。犯人が見つかったって、いくらなんでも早過ぎる。さっきまで僕がいた警察署でも、まだまともに動き出してもいなかったはずだ。



「どういうこと、真田くん?」


「ちょっとこれを見てください」



 真田は言い、PCのディスプレイを指し示した。僕らは真田のデスクへと回り込んで、そのディスプレイを覗き込む。



「……なんだこれ、『なうたいむ』じゃないか」



 画面には『なうたいむ』のタイムラインが表示されていた。コミュタグを検索した時に表示される画面だ。コミュタグは「#アプライズ」だった。



「幽霊アカウント……?」


「その、幽霊アカウントです」



 真田は書き込みのひとつを指差した。

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