3-4 その夜の話
私鉄沿線の駅から商店街を抜け、小さな公園を脇に見ながら緩やかな坂道を下り、木立の設けられた住宅街の、そのまた路地の奥に、橋ノ井さんの住む家があった。
それは、マンションと呼ぶには質素で、アパートと呼ぶには近代的な集合住宅だ。
天下のサイベスト社の主任様でMBA持ちなのだから、入口で指紋認証をするようなマンションに住んでいても良さそうなものだけど。小綺麗ながらあまりにも普通の建物の様子に、僕はスマートフォンの地図アプリを何度かリロードしたくらいだ。
時刻は22時を少し過ぎてていた。
「あの人、時間にうるさいタイプだったっけな……」
よくよく考えると、まだ数回しか会っていないのだった。それで、こんな時間に部屋を訪れるというのは――今の今まで気がつかなかったが、だいぶ際どい事態だが――
いやいやいや。
そんな気分になるような状況ではない。
橋ノ井さんの言っていた「harv」という言葉、『ターミナル』にそれを入力した時の、あの異常な現象――そして、「なうたいむ」に現れた幽霊アカウント。
そういえば、城北大学で橋ノ井さんにその話をしようとした時のリアクションもおかしかった。確かに奇妙な話だけど、人目を憚るような話でもないんじゃないか。それとも、そうしなければならない事情が、なにかあるとでもいうのか。
1階の端に、橋ノ井さんの部屋はあった。表札は出ていない。僕は、スマートフォンにメモした住所と部屋番号を何度か見直して、間違いないという確信を得てからドアに向かった。
インターフォンを押し、待つ。窓を見ると、部屋の灯りはついているようだ。少し待ってから、もう一度インターフォンを押す。反応がない。
「中には居るのかな?」
シャワーでも浴びてるのか。一瞬想像しようとして、僕はやめた。携帯に電話をかけてみる。呼び出し音が鳴る。ふと、どこかで鳴っている音に気がついた。部屋の中からだ。電話を切ると、部屋の中からの音も止んだ。
やっぱりシャワーでも浴びてるのだろうか。しかし、その気配もないような気がする。何気なく、ドアノブに手をかけてみる。
「……開いてる?」
あっさりと、ドアノブは動いた。僕は少し迷ったが、そのままドアを開けることにした。しかし、どうにも嫌な感じが拭えない。
「ごめんくださーい……」
玄関の灯りは消えていたが、奥のリビングの電気はついている。漏れてくる光で、中の様子がわかった。玄関を上がるとキッチンがあり、その先に半開きになったリビングのドア、その手前には洗面所やバスルームへ至るドアが開いており、そこに――
先ほどからこみ上げてくる嫌な感覚は、下腹部から胸の辺りへと登ってきていた。
あそこに転がっている、人間大のものは――例えば、独り暮らしの部屋の中で貧血を起こしたりしたら、という想像、したことはないだろうか? そういう意味では、僕が今ここに来たというのは、運がいいことじゃないか。そう言い聞かせながらも、嫌な感覚は膨れ、動悸が激しくなる。手探りで玄関先の電気のスイッチを探した。指先がスイッチに触れ、力を入れて、電気をつける――
玄関の灯りに照らし出されたその物体は、間違いなく橋ノ井さんだった。仰向けに倒れ、顔を横に向け――そして、額から流れ出た血が、床を紅く染めて。
「…………っ……!」
僕は自分が叫んでいると思ったが、実際には声は出ていなかった。こみ上げてくる嫌なものが、喉元まで押し寄せてきて、思わず口を抑える。そのまま玄関の外まで後ずさると、半開きだったドアは音を立てて閉まった。
なんだ――?
どういうことだ――?
混乱する思考をまとめようとするが、身体がそれを拒否する。見間違いかもしれない。もう一度確認しなくては。だいたい、生きてるかもしれないじゃないか。まず救急車を――
頭の中に昼間会った時の、朗らかに笑う橋ノ井さんの顔が浮かぶ。それが、さっきあそこには濁った目で転がってて、額が砕けて血溜まりが――その時、先ほどの光景を鮮明に思い浮かべた僕は、ついにその場に嘔吐した。
口の中に腐臭がする。それでいくらか、僕の思考は現実に戻った。とにかく、警察に――いや、その前に救急車か? 震える手で、僕はスマートフォンの緊急電話ボタンをタッチした。




