3-3 噂話
「ただいま戻りましたっ!」
ラボの入口で、那穂が無駄に元気よく声をあげた。
「おーう、おつかれさん」
岩井所長が顔を上げ、こちらに声をかけた。真田はいつものごとく、微動だにせず作業を続けている。
「どうだった、あいつの講義は」
オフィスに入り、自分のデスクにバッグを置いたところで、岩井所長が再び声をかける。
「面白かったですよ。地縛霊の話とか。量子ビットのなんとかってのはよくわからなかったけど」
一番重要なところを抜いた感想で那穂が応える。
「あ、そういえばうちの研究の話も出てきましたよ! 注目に値するって」
「ふん、そうか」
岩井所長は興味なさげな様子で視線をPCに戻した。普段であれば、ラボの活動内容についての評判が聞こえてくれば、それがいい話でも悪い話でも、散々に憎まれ口を叩く人なのだが。
「所長、森脇教授と知り合いなんですか?」
僕はなんとなく聞いてみた。森脇教授のことを「あいつ」と呼んだのでもしかして、と思ったのだ。森脇教授がうちのラボに注目している、というのも、知り合いであればこそなのかもしれない。
「……いや」
岩井所長は言葉少なに否定した。
「森脇保憲って、研究を盗用したっていう人じゃないんですか?」
僕が続けてなにか言おうとするよりも前に、真田が口を挟んできた。相変わらずこの男は、聞いていないようで人の話をよく聞いている。
「え? あの人そんな人なの?」
帰り途の途中でコンビニに寄り、買い込んだスナック菓子の袋を開けながら、那穂も話に参加してきた。
「あの人が出してる有名な論文が、どっかの民間の研究員がやったことのパクリだっていう話ですけど」
「そんな感じには見えなかったけどなー。大学の時の先生で本当に盗作してた人いたけど、その人はなんかドス黒かったもん」
スナック菓子をパクつきながら、さらっと怖い話をする那穂である。
「いや、その話は誤解なんだ」
所長が、真田と那穂の会話を制した。
「俺もそこまで詳しいわけじゃないですが、そうなんですか?」
「まあ、本人がはっきり否定しねえのもいけないんだがな」
所長は少し間を置いて言った。
「盗作だって言われてるのは、『マゴスエンジン』の基礎になってる理論でな。クラウドサーバー上で処理された情報から、その集団を代表する擬似人格を構築するっていう……」
「ああ、それなら知ってますよ。『神たる大衆の子』ってやつですよね?」
「そうだ。擬似人格が多数の人間による入力を餌にして成長し、『完全人格』を形成する、っていうやつな。まぁ、理論上の話ではあるが、マゴスエンジンは実際に、『擬似人格』によってWebページを評価し、検索システムを制御してるんだ」
それなら僕も聞いたことがあった。やたらと大仰な言葉で飾り立てた内容が話題になった論文だが、内容については先進的なもので、すぐに実用化できるようなものではないのだという。マゴスエンジンで使用されているのは、その理論のさわりに過ぎないのだとか。
「そういえば、さっきも雅代さんがそんなこと言ってた」
「今は確か、サイベストのアドバイザーをやってるはずだしな」
それで、橋ノ井さんは「技術畑の偉い人」から森脇を紹介されたというわけだ。恐らく、大学で会ったあの木崎という男が、森脇教授と主に連絡をとっているのだろう。
「それが、なぜ盗作だということに?」
「盗作というか……元々共同研究だったんだ。北田っていう、若手の天才と言われた女性研究員とのな」
「それじゃつまり……その北田さんとなにかトラブルが?」
「北田は死んだ」
僕は絶句した。真田でさえ驚いていた。所長は苦々しそうに続ける。
「自殺だった。理由はわからん。しかし、タイミングが悪かったんだ。その後ずっと、森脇は一人で研究を続けている」
それでその後、「研究を盗用した」という噂だけが一人歩きしたということか――それでも、一切反論をしない森脇教授は大人の対応というべきだろうが、なんとも後味の悪い話だ。そういえば、橋ノ井さんが「マゴスエンジン」の話題を振った時、森脇教授はなんとなく、歯切れが悪かったようにも思う。
「でも所長、随分詳しいんですね? 結構前のお話ですよねそれ」
「そりゃそうだ。北田ってのは俺の教え子だからな」
さらっと口にした後、所長はそれっきり黙ってしまった。気まずい沈黙の中、とりあえず僕らは自分の仕事に戻った。
誤解とはいえ、自分の仕事に「人の死」というのが纏わり付いてくる気分というのは、どんなものだろう――デスクのPCを起動しながら、僕は考えた。
先ほど森脇教授と話した、「世界を滅ぼし得る発明」の話が思い起こされる。森脇教授は実際に、自分の研究の周辺での「死」を目の当たりにしていたのだ。そう考えると、あの時の言葉はまるで重みが違ってくる。
「お前のせいで人が死んだ」なんて言われるのはやはり、気分のいいものではない。もちろん、それは森脇教授にしてみれば言いがかりなのだろうけど。もし真田だったら「知ったことじゃないです」とでも言うだろうか。
幸いというかなんというか、僕らの扱っている研究分野は、人間の生活に直接関わるようなものではない。だが、これが例えば、病院や消防などだったら、自分の仕事が人の生死に直結することになる。そういった直接的な仕事でなくても、水道やガス、電気などのライフラインに関わる仕事なら「自分のせいで」人の生死が左右されるようなことが、もしかしたらあるかもしれない。
そう考えると、僕は少し卑屈な気持ちになる。
人工知能の研究といえば聞こえはいいし、やり甲斐のある仕事には違いない。一方で、所詮個人の人生を左右するようなものではない、とも思うのだ。
岩井所長の教え子であったという北田という女性が、なんで自ら命を絶ったのかはわからない。研究とは別のプライベートな理由があったのかもしれない。いずれにしろ、死ぬなんて馬鹿馬鹿しいし、それがこんな研究のためだとしたら、なおさらだ。
だが――それじゃその研究が、「世界を滅ぼすかもしれない研究」だったとしたら、命をかける価値があるのだろうか?
「世界を滅ぼすかもしれない研究」と「身近な人が死ぬ研究」――両者の間には、どんな違いがあるだろう。もし自分が森脇教授の立場だったら、どうするだろうか。
PCの起動音が鳴り、デスクトップ画面がディスプレイに広がった。ほとんど反射的に、僕はメーラーとブラウザを起動して少し待つ。立ち上がったメーラーのウィンドウが、新着メールがあることを告げた。
「ね、先輩。そういえばー」
コーヒーカップを持った那穂が、マドラーでミルクをかき混ぜながら声をかけてきた。
「なに?」
開いていたメールを閉じて、僕は振り返る。
「さっき雅代さんと内緒話してたの、なんですかぁ? なんか、ハーブがどうこうって」
「いや、別に内緒話ではないけど」
先ほど大学で橋ノ井さんと別れ際に交わした会話のことを言っているのだろう。
「橋ノ井さんはハーブとか育ててそうですよね。先輩もやるんですかぁ? あ、ひょっとして橋ノ井さんに薦められたとか?」
「ほう、お前いつの間にそんな……」
「違いますよ!」
人の気も知らないで、呑気なものだ――那穂が笑いながら自分のデスクに戻ったのをみて、僕はため息をついた。そして、先ほど最小化したメーラーの新規メッセージを改めて開いた。
* * *
送信者:橋ノ井雅代
件名:先ほどの件
今夜22時ごろ、私の家に来ていただけますか?
例の件について、お伝えしたいことがあります。




