夕暮の変異
「どうする? 今日はこのまま振り切るか?」
「そうだね。とりあえず、そうしよう。私についてきて」
先行する透華に続き、俺も止まっていた足を前に進める。
最初は普通の歩幅で歩く。怪しまれないように速度を維持し、角を曲がるタイミングで歩幅を少し広くする。ほんの少しずつ、気付かれないように加速し、距離を空けていく。そして折を見て一気に駆け抜け、一息に引き離す。
単純な手だが、普段から鍛えている透華ならこれで振り切れる。
「振り切ったか?」
「――まだ。可笑しい、何時もならもう振り切れてるのに」
駆ける。駆ける。
右へ左へ、進路を変更しながら道路を駆け抜ける。
だが、それでも振り切れない。
いつもと、何かが違う。
「おいおいおい。こう言うの前にも体験したぞ」
「前って?」
「逃げても逃げても追ってくる。それで最期には」
足が、止まる。
「頭の上を跳び越えて、目の前に降ってくる」
奴は、今まさに降り立った。後方から頭上を越えて、前方に。
明らかに人間の脚力で出せる飛距離じゃあない。こいつは異常だ。
「な……で」
零れた言葉は、聞き取れないほど微かなもの。
だが、それは徐々に大きく、明確になっていく。
「何でだよッ! どうして僕じゃあないんだッ! 何でそんな男とッ! キミは僕と結ばれるべきなんだッ! どうして分かってくれないんだよッ!」
その怒号にも慟哭にも似た、悲痛で自分勝手な咆哮は、大気を震え上がらせる。
同時に黒く、暗く、溢れ出た瘴気が彼自身の身体を包み込む。立ち上る黒は夕焼けに紛れて彼を隠し、かくも醜い姿へと変貌させた。
「なんだってんだ、こいつは」
まさか、怖死。
「妖怪だよ。憑いて惑わし、人心を狂わせる。そう言うタイプのね」
見透かしたように訂正の言葉を入れ、透華は一歩前へと進み出る。
「ごめんね、あなたの想いには答えられないんだよ。だって、あなたこと好きじゃないもん」
「――違ウ! 違ウ違ウ違ウ違ウ、チガウ! 騙サレテイルダケダ! ソコノ男ニ! キミニハ僕ガ必要ナンダ!」
「違わないし、私にあなたは必要ない」
「ドウシテ……ソンナコトヲ言ウンダ。コノ想イハ、通ジ合ッテル筈ナノニ」
「だから、通じ合ってないって。それに私、しつこい男は嫌いだから」
「ナ……ァァアアア――■■■■■■■■■■■■ッ!」
人からバケモノへと変貌した彼は、ついに心までもが人から堕ちる。
人の証である言葉は潰れ、理性なき妖魔の声へと成り下がった。自らが何者であるかも忘れ、募りに募った思いの丈は、怒りとなって眼前の思い人へと向けられる。
「――透華!」
「大丈夫だよ、始末は私がつけるから。あなたはそこで見てて」
そう言った透華の手には、すでに巫覡の証があった。
「――彼方に望むすべてを覆え」
その仮面の名は。
「初霞」
白と紫が入り交じる、人蝕の仮面。
透華がそれで顔を覆った瞬間、俺の視界が微かに霞む。
それは大気の可視化。立ち籠める霧は、靄は、霞は、次第に色を濃くし、やがて十数メートル先をも見えなくする。白く、細かく、染められた視界の中、先に動いたのはバケモノのほうだ。
「■■■■■■■■■■■■ッ!」
不定形で、だが辛うじて人の面影を残すバケモノ。
奴は怒りと悲しみを孕んだ声で叫び、周囲の霞など意にも介さず腕を振り上げる。
天高く掲げられたその拳に、だが透華は何も反応しない。
動きもせず、ただそれを見上げるばかり。
そう、決着はすでに付いていた。
掲げた拳を今まさに振り下ろそうとした時、バケモノは血のあぶくを吐く。
同時に口からだけではなく、目から穴から耳から、果てには身体中から、内側で何かが破裂したかのように、血が噴き出した。
「な……なにを、したんだ? いま」
「これが初霞の能力だよ」
透華は、仮面を剥がしながら言う。
「生み出した霞を敵の体内に送り込んで内部から破壊しちゃうの」
「随分とえげつない能力だな、そ――」
言葉の途中でハッとなり、手の平で口を覆い隠すように塞ぐ。
「一つ聞くけど、人体に影響はないんだよな?」
「あっははっ! 大丈夫、大丈夫。私の意志がないうちは悪さしないよ。それに仮面はもう取っちゃってるし。効力はとっくに消えてるよ」
「そ、そうか」
透華の説明を聞いて初霞の能力は毒の類いだと思ったが、どうやらそうではないらしい。少なくとも透華に敵と看做されない限りは無害。ただの霞と変わらないようで何よりだ。肝を冷やしたことに変わりはないが、杞憂に終わってよかった。
「それで? 殺してないよな、ストーカー」
初霞の能力が掻き消え、視界にはっきりとした輪郭が戻ったころ。
ただ一つ残されたようにして、ストーカーはアスファルトの上に横たわっていた。
その姿はバケモノのそれではなくなっており、人の形状に戻っている。
「もちろん。妖怪だけだよ、滅したのは」
「と、言うことは意識を失っているだけか。とりあえずは一件落着か。――いや、でもまだストーカーの問題が」
彼に取り憑いていた妖怪を滅したまではいい。
だが、解決した問題がそれしかない。肝心の、先ほどまでの主軸だったストーカー被害について何も解決していない。
「それについては、もう解決したも同然でしょ。たぶん、あの異常な執着は妖怪に惑わされたからだと思うし」
「そう言うもんか? なら、いいのか」
巫覡としての経験がそう言うのなら、間違いはないのだろう。
ただそれはつまり、妖怪に惑わされていただけで彼の恋心は本物だった、ということ。そして透華はそれを拒絶した。彼の恋は、此処で完全に終わったのだ。
どう言う気分がするんだろうな。恋をするって言うのは。
「……そう言えば、こう言う場合どうすればいいんだ? 後始末とかは」
「べつに、なーんにもしなくていいよ。ほら、アレ」
指差す先にあるモノ。
それは電柱の上に鎮座する一羽の鴉だった。
「鴉がどうかしたのか?」
「アレ、実は巫覡の式神なの」
「式神って、たしか今で言うドローンみたいな奴だよな」
巫覡の道具である式神。
戦闘用、防衛用、運搬用と、様々な種類があると凛に聞かされている。たしかあのタイプは警備用だったはず。その目で見たありのままを術者に伝え、微力だが戦闘も行えるらしい。
「……そうか。ああやって、見てたのか」
あの時も見ていたんだろう。
怖死に遭遇した場面を、必死に逃げ回る姿を。
だからこそ、助かった。
式神からの情報がなければ、凛もあの場に現れない。当然、俺も死んでいた可能性が高い。そう言う意味では式神も命の恩人か。
「もう連絡はされている筈だから、ここに居ても出来ることはないよ。行こ?」
「あぁ、そうだな」
見上げていた視線を透華に向けて、また道を歩き始める。
「あ、そうだ。また今日みたいに付き合ってよ。まだ食べてない限定品もあるんだ」
「それは良いけど、今日みたいに疲れるのは勘弁な」
死に至るかも知れなかった戦いの後で、そんな下らない話をしながら。