今朝の目覚め
目が覚めると、またしても真っ白な天井が見えた。
また心の中か。そう思うも束の間、しかしそれが勘違いであることを知る。
「よう、目が覚めたか。ヒーロー」
声に導かれるようにして視線を少し左側へと傾ける。
横に長く伸びた窓に映る外の風景。それを背景にして、一人の人物が丸イスに座っているのが見えた。それは俺が見慣れた少女ではなく、未だ見慣れない仮面の女だった。
「ここは……病院、か?」
「あぁ、そうだ。大変だったぜ、あんたをここまで運ぶのは」
病院。そう聞いて、まず自分の記憶を遡った。
俺がこうして病院のベッドに横たわるまでの経緯を探るためである。あの時のことを思い出せるよう、順番に記憶の引き出しを開けていく。
そうすることで見えて来たのは、恐らくバケモノに刀を突き立てた時点で、意識を失っていたであろうということだった。
仮面と刀。バケモノを排除するために二つを得、その代わりに片腕という一つを失った。
ふと視線を今度は右側へと傾ける。そして、そこにあるべきモノ。右腕が、肩の先からごっそりと無くなっていることを確認した。
「……そうか、なくしちまったか」
不思議と、怖気は立たない。
取り返しのつかないことになってしまった。そう思いはするものの、だがそれでも自分の中に後悔は見当たらない。
片腕がなくなったのに、今後左腕だけで生きていかなくてはならなくなったのに、随分と楽観的でいられる自分にすこし驚いているくらいだ。
「そうだ。あの親子はどうなった?」
「大丈夫だ、生きてるよ。両方な」
「そう、か。そいつはよかった」
腕の一本で命を二つ救えたなら、それでいいだろう。
「随分と落ち着いてるなぁ、あんた。片腕がなくなったってのにさ」
それは呆れたような口振りだったが、その声音はほんの少しだけ驚きを孕んでいるように思えた。
「なくなっちまったもんは仕様がないだろ。嘆いて戻ってくるもんでもないしな」
「……ふーん、なるほどね」
なにか含みがあるような言い方をして、仮面の女は一度口を閉ざす。
「ま、それはさて置き。病み上がりのところ悪いが、幾つかあんたに聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
「そうだ」
そう言って、彼女は懐に手を伸ばす。
「あんた、この仮面を何処で手に入れた?」
そうして取り出されたのは、一つの仮面。
あの時、あの心の中で、少女から受け取ったモノだ。赤と黒と白の紋様、髑髏を模した造形。何もかもが変わり果て、当初のモノとは似ても似つかないが、あれが自分の仮面だと確信できる。
その出所を、彼女は知りたがっていた。
「……俺にしか見えない少女がいるって言ったら、信じるか?」
「どうとも言えないね。だが、そいつが幽霊の類いなら私には見えるはずだぜ」
「なら、そこに何がいる?」
そう左手で指を差す。
病室の一角を。
「……なにもいない。あるのは観葉植物だけだ」
「そうか、やっぱり見えないか」
彼女は一度こちらに目をやると、怪訝そうな顔をしてまた部屋の角を見た。
だが、恐らく見えていないだろう。観葉植物が生えた植木鉢の前に立つ、少女のことが。
「参ったな。その仮面は、そこにいる少女から受け取ったものだ。でも、見えないとなると――どうしようもないな」
証明の仕様がない。
妙な仮面を被り、バケモノと戦う彼女なら。
そう思ったが、本当にあの少女は俺にしか見えないらしい。
他の誰にも見えず、俺にだけ見える少女の存在。彼女はいったい、何が目的でそこにいるのか。それはまだ誰にもわからない。
「つまり、自分でもよく分かっていない。そう言うことで良いんだな?」
「あぁ、俺の言い分を信じてくれるならな」
「ふむ、なるほど。すくなくとも嘘は言ってないみたいだな」
ぱちんと、乾いた音が鳴る。それは彼女が指を弾いて鳴らしたもの。
それが室内に響くと同時に、壁や天井が崩壊した。
いや、違う。そうではない。
崩壊したのは、粉々に砕け散ったのは、かつてバケモノの拳を受け止めたあの透明な膜のようなものだ。それが一瞬、辛うじて目に見える形で現れ、直後に崩壊した。
「今のは?」
「結界って奴さ。この病室を私の支配下において、あんたの心音や思考をもとに、発言に嘘偽りがないか調べて居たんだ。悪く思わないでくれ。こっちもこっちで、色々と確かめなくちゃならないことがあってね」
嘘を見抜くための結界。いま、それが解かれたということは、つまり確かめたいことを確かめ終えたということ。
仮面の出所。それを確かめたかった? それだけを?
いや、違う。
彼女は初めに幾つか聞きたいことがあると、そう言っていた。
それを聞かずに結界を解いたのなら、そもそも初めの質問に俺が正確な答えを出せなかった時点で、成立しなくなる内容だったとみるのが妥当だ。
恐らく、後に続いた質問は、仮面を手に入れた時期や目的、敵意の有無。嘘を見抜ける状態にあったからこそ、その全ての問いから意味が失せたのだ。
「……俺はこれからどうなるんだ?」
「どうなるって?」
「その仮面――人蝕の仮面、だっけか? そいつは相当、厄介な代物なんだろ。嘘発見器みたいなモノまで使って出所を聞き出そうとしたんだ。俺自身だってただでは済まない。そうだろ?」
「……ほぉー」
先ほどまでの呆れたような声音とは打って変わって、今度は関心したように声を漏らす。
「バケモノに襲われ、片腕を失い、仮面を被り、バケモノを殺し、病院のベッドに横たわった上で、その言葉と来たもんだ。普通なら発狂して会話がなりたたなくて当然、寧ろそのほうが自然だ。だって言うのに――」
彼女は、その後に続く言葉を、だが呑み込んだ。
言葉を選んだ。きっと言わずに呑み込んだ言葉は、イカレテルだ。
自分でもそう思う。
片腕を失った、バケモノを殺した。そう言葉で言うのは簡単だ。だが、俺の身に起こったことは、言葉の響きほど軽いことじゃあない。
俺は自分よりもデカい生き物を殺したし、この右腕は二度と戻ってはこない。一生をこの状態で終えなければならない。
だと言うのに、何故だろう。こんなにも楽観的でいられるのは。
「まぁ、いいさ。これからどうなるか、だったか。まず普通の生活には戻れなくなる。普通の、普遍で平和な日常を謳歌する一般人として、もう生きられなくなるってことだ」
「そう言えば、言われたっけな。そいつを手にしたら、もう後戻りは出来なくなるって」
「すでに覚悟の上ってことか。ますます、あんたって奴が読めなくなったよ」
前髪を掻き上げて後ろに流す仕草をして、彼女は丸イスから立ち上がる。
「さて、それじゃあ行くとしようか。あー」
その素振りを見て、きっと名前が聞きたいのだろうと、自分の名前を口に出す。
「日雲空」
「そうか。私は名前は折部凛。空、今からあんたは退院だ。傷はもう治してある。その右腕以外はな」
たしかに痛みはない。不思議なことに、身体の何処からも痛みを感じない。
あれから、あの夜から、どれだけの時間が経っているのかは知らないが、それでも失った意識を取り戻すまでの間に、傷が跡形もなくなくなるほど、人間の治癒力は優れていない。
治してある。彼女はそう言った。
つまり通常の方法ではなく、尋常ではない方法で、俺は治療されたことになる。
事実は小説よりも奇なり。なかなかどうして、驚きの連続だ。
「行くって何処にだ? 俺は何処に連れて行かれる?」
「そう身構えるなよ。べつに取って食ったりしようって訳じゃあないんだ。なに、ただ頼んでいたものを受け取りに行くだけだよ」
受け取りに?
「いったい何を」
「あんたの右腕さ」