夕闇の白雷
Ⅰ
「そら、よっと」
腕を失い、鮮血を撒き散らしながら怯んだバケモノ。その隙をつくように間合いに踏み込んだ彼女は、草鞋の底で無防備に晒された腹部を蹴る。
普通なら、人の蹴りが通用するとは思えない。だが、それでも彼女の足はバケモノの内部にまで食い込み、その巨体が宙に浮く。人の身でありながら、人成らざる脚力をもって、彼女はバケモノを蹴り飛ばした。
「じゃあな、しっかり護ってくれよ」
数十メートル先を転がりながら停止するバケモノに対し、彼女はそう俺に告げて跳躍する。
跳び上がり、空中で振り上げられた彼女の刀は水を纏い、天に逆巻く激流の刀身と化け。天高く伸びたそれを、叩き付けるように振り下ろす。
対して、バケモノも体勢を崩しながらも大口を開く。それは摂食のためではなく。街灯の明かりを、星の輝きを、月の光を圧縮したかのような光弾を精製するため。
放たれ、そして振り下ろされた二つは激突し、轟音を伴い共に爆ぜる。
「な、んなんだ……いったい」
アリエナイことには、慣れているつもりだった。
人に見えないモノ。人に見えてはいけないモノ。
それらが常日頃から目に入る生活を十余年送ってきた。それが日常と呼べるほどに、見慣れていたはずだった。けれど、それでもいま目の前で起こっていることに理解が追いつかない。
「――いや」
だが、これで助かった。
あの女は恐らく味方。すくなくとも敵じゃあない。あのバケモノと互角以上に渡り合ってもいる。断続的に鳴り響く轟音や爆音の中、彼女はすべての攻撃をしのぎ、捌き、確実にバケモノを切り崩している。
ふと、小脇に抱えた子供をみる。
意識を失ってはいるが、息はしていた。きちんと生きていた。一先ずの安心を得て、深く息を吐く。なんとかなった。助けられた。
そう、安堵したのも束の間。
「ねぇ」
声がした気がした。
轟く爆音の中、破壊音の中、それでも鮮明に、内側に響くように、それは聞こえた。
誰の声かは、不思議と迷わなかった。子供でも、母親でも、仮面の女でもない、少女。死に装束のような真っ白な着物を身に纏う彼女。心に確信めいたものを抱きながら視線を子供から正面へと移す。
思うのは、やっぱりな、だった。
バケモノと女。繰り広げられる死闘を背景に、少女は立つ。ゆっくりと指を差す。その指先は俺自身を指し示しているように思えたが、しかし数秒と経たないうちに真意に気が付く。
少女が指差しているのは俺ではない。
俺の後ろにいるナニか。
脳裏を過ぎる最悪の推測に、どうか思い過ごしであってくれと祈りながら振り返る。
「――もう……一体」
視線の先、暗闇の中に蠢くモノがいた。
それはゆっくりと歩を進め、街灯の下へと躍り出る。
その姿形は、異形。バケモノは、二体いた。
「お――」
叫ぼうとした。助けを求めようとした。
だが、その声は届かない。爆音に、破壊音に遮られ、掻き消される。幾ら叫んでも、声を枯らしても、バケモノの放つ音圧にすべてを相殺された。
「くそッ、どうすりゃあいいッ」
打つ手立てがない。
近付いてくるバケモノを前に、掃いて捨てるほど思考を積み重ねてみても、行き着く先はすべて等しくそれだった。
だが、それでも、この子供だけは。
「……いいぜ、上等じゃあねぇか」
そっと子供を地面に寝かせ、バケモノに立ちはだかる。
「やってやるよ、このバケモノがッ」
きっと、俺は死ぬだろう。
殺されて、食われるに違いない。
だから、どうか頼む。
名前も知らないが、バケモノに勝てるのはあんただけなんだ。
だから、どうか、俺が食われているうちに、気が付いてくれ。
そして、願わくば、仇を取ってくれると嬉しい。
覚悟を決め、走り出した時にはすでに自身の生を諦めていた。自ら捨てたと言ってもいい。すべては他を生かすため。すこしでも子供の生存率を上げるため、自らが餌となることを選らんだ。
拳を握る。
地面を蹴る。
せめて一矢報い、殴ってやろうと握り締めた拳は、しかし振りかぶることもなく。足が宙に浮かぶほどの衝撃に身を攫われ、宙を舞う。重力に引かれて地面に叩き付けられ、肺の中身をすべてぶちまけて仰ぐ夜空は、胸くそが悪いほど綺麗に写る。
それが、死に際だとわかっていたから。
だが、それもすぐに見えなくなる。綺麗な夜空が一転して、バケモノに埋め尽くされた。
「ぐ――アアアアアアアアアアアアアアアアッ」
ぐしゃりと、潰れる。自分の一部が、右腕が。
皮膚が割け、骨が砕け、関節が崩れ、腱が千切れ、腕が潰れる。
全身を駆け巡る激痛に、それでも耐えて目を見開く。今まさに大口を開き、俺を食おうとするバケモノを睨み付ける。
「かん……たんにッ――食われてたまるかッ!」
一矢報いる。そのためだけに残った左手で握り込む。それはペン。不精してポケットに入れたままにしてあったそれの先を、バケモノの目玉に突き立てる。
「■■■■■■■■■■■ッ!?」
「ハッ! ざまあみろッ」
いくらバケモノでも目玉を串刺しにされれば痛がるらしい。
悲鳴を上げて仰け反るように怯んだバケモノは、しかし、その直後に拳を握り締めた。怯んだのは一瞬、声音を悲鳴から怒号へと変え、それは憎しみを込めて振り下ろされる。
その直後、俺の視界は真っ黒に暗転した。
Ⅱ
「ねぇ」
気が付くと、何もない部屋にいた。
床も、壁も、天井も真っ白で、それ以外に何もない空間。その中心にいつの間にか立っていた。
理解しがたい状況を前にして困惑していると、背後に気配を感じて振り返る。すると、またしてもあの少女と再会を果たした。
「……よう、ここが天国って奴か? それとも」
「どっちでもないよ。ここはあなたのなか」
初めて交わす少女との会話は、しかし意味不明なものとなった。
「言っている意味がわからないんだが」
「心域。自己領域。心象風景。深淵。納得できる言葉を当てはめればいい。どれを選んでも現実は変わらないから」
「……つまり、心の中ってことか?」
「そう」
心の中。まともな精神状態なら、到底信じられない話だが、どうやらまともじゃあなくなったらしい。何故だか彼女の言葉が真実のように思えてならない。それに驚くほどすんなりと納得している自分がいる。
ここは己の内側なのだと、根拠なく確信していた。
「けど、まぁそれにしては」
殺風景な場所だ。何もないじゃあないか。
心の中ってのは、もっとごちゃごちゃしているモノだと思っていたんだがな。
「それで? どうやったら此処を出られるんだ?」
「出る? 此処を出てどうするの?」
「どうするって、そりゃあ――」
そう言われて、気が付く。思い出す。
俺はバケモノに潰されたのだと。此処が何処だろうと、俺はもう何も出来ない。生きていようが死んでいようが、もう身体は動かない。今頃、外――というのも可笑しいが、外はどうなっているのだろうか。
仮面の女は二体目に気が付いただろうか。あの子供は助かっただろうか。
「あの子を助けたい?」
見透かしたかのように、少女は言う。
「そりゃあな、助けたいさ。そのために命まで張ったんだ」
結局、ほとんど何も出来ずに終わってしまったが。
「まだ終わってない」
少女は告げる。
ここより外のことを。
「外の時間は限りなく遅く、緩やかに進んでいる。振り下ろされた拳はまだ届いていない。今ならまだ間に合う」
少女が口にした、間に合うという言葉には、確信があるように受け取れた。
それがすでに決定された未来であるかのように、語られているとさえ思う。
少女の言葉と声には、それだけの魔力があった。自分でも可笑しいと思うほどに、俺は少女のことを信じ切っている。
「……どうすればいい?」
「必要なのは決意と覚悟」
「決意と覚悟?」
「そう。失う決意と、失ったまま生きる覚悟」
同時に、少女が視界の外にある何かを指差す。
その先にあるもの。指し示されたのは、この空間に浮かぶ一つの輪郭だ。それには目も鼻も口もなく、背景の壁と同化し、描かれた線だと一瞬思い違うほどの純白に染まっていた。
だが、たしかにそこにある。
一つの、一枚の仮面が。
「これは、あの時の――」
あの女のもっていた仮面と同じものか?
疑問を胸に抱きながらも、この手はそっと仮面に伸びる。
「後悔するかも知れないよ」
その手を、しかし静止するかのように少女は言葉を発した。
「その仮面を――人蝕の仮面を手にしたら、もう後戻りは出来ない」
「……でも、これがないと死ぬんだろ?」
「このまま死ねていれば。いつかそう思う日が来るかも知れない。そう言ってるの」
このまま死ねていれば、か。
「俺を生かしたいのか、死なせたいのか、どっちなんだ?」
「どっちでもない。ここに私の意志はない、あるのはあなたの意志だけ。何を成し、何を成さないのか。決定権は常に、あなただけにある」
そう言って、少女は問う。
「さぁ、選んで。このまま瞼を下ろすか。足掻いてみるか」
答えは、決まり切っていた。
「足掻いてやるさ。そっちのほうが色んなものを拾えそうだ」
伸ばした指先は、そして仮面に触れる。
Ⅲ
星を掴むようにして伸ばした手は、バケモノの拳を受け止めた。
防がれたことに、拳が命にまで届かなかったことに、バケモノは困惑し驚愕しているかのように、小さく声を漏らす。そして、次の瞬間に、それは再び悲鳴へと変貌する。
宵闇を裂くが如く、迸る白雷。爆発による音圧を真っ向から劈くほどの轟音。腕を伝い、手の平から放たれたそれは、容易にバケモノの剛腕を黒く白く、灰色に染め上げ、消し炭にした。
自らの片腕を、潰れた右腕を失うことで、俺は白雷を身に纏った。
「■■■■■■■ッ」
腕が灰と化したバケモノは、悲鳴を上げつつもその場から即座に後退する。
跳び退き、距離が開く。
同時に、声が響く。
「なんだ、今のは」
声の主は、仮面の女。
その戸惑うような声音は、彼女が感じた現状の不可解さを物語っていた。
疑念と困惑が入り交じる視線。それは仮面の女から、そしてバケモノからも向けられる。その最中、中央にて立つ。片腕の重みを無くし、何処からともなく現れた仮面を被り、ゆっくりとアスファルトを踏み締めた。
「仮面――それを何処でッ!?」
その問いに、答える術がなかった。
目も鼻も口もない、仮面。見えなければ、喋れもしない。だが、それでも現状のすべてを把握することが出来ていた。ゆえに、纏う。白雷を、稲妻を、身体に纏いて地を駆ける。瞬間、今まで立っていた場所にバケモノの拳が振り下ろされる。
回避と反撃。
バケモノの一撃を容易く回避し、懐に踏み込んで反撃を放つ。
指先に、手の平に、帯びる白雷は肉体の限界を超えて馳せ、バケモノの腹部をかすめ取るように焼き払う。
肉を抉り、傷を焼く。
痛みの根を奥深くまで伸ばした雷撃は、バケモノの神経を冒し、脳の機能を麻痺させる。結果、腕が消し炭になるよりも、より深刻なダメージとなり、バケモノはその巨体を支えきれずに膝をつく。
そして押さえ付けるように、バケモノの頭を踏みつけた。
伸ばす手はバケモノの目に向かい、突き刺さったままのペンを引き抜く。赤く、血に染まったそれを天に掲げ、脳内に浮かぶ一つの名を命と共に告げる。
「――」
瞬間、雲一つない夜空に雷鳴が轟いた。
掲げるは剣。覆うは仮面。
薄く白く伸びる刃。赤く、黒く、そして白く、染まる面。
雷を受け、依り代のペンは刀となり、未完の仮面は完成する。
刀と仮面。二つを得、一つを失い。天を突いた鋒を、真下のバケモノに突き立てる。刀身は抵抗なく頭蓋を裂いて脳に達し、下顎から突き抜ける。バケモノは、断末魔の一つもなく、雷鳴とは対極に沈むかのような静寂の中、絶命した。
その様をしかと開けた視界に焼き付け、心は込み上げてくる名状しがたい何かを吐き出す。
「□□□□□□□□□□□□□□□□□□ッ!!」
その声音はバケモノによく似ていた。