薄明の邂逅
自分が思ったほど特別な人間ではないことに気が付いたのは、いつだっただろうか。
物心ついた頃から、人には見えないモノが見えていた。
部屋の隅。廊下の角。玄関先。学校のグラウンド。いつもではなかったけれど、時たまに彼女は俺の視界に現れる。死に装束のような真っ白な着物を纏う、年端もいかない少女。名前も知らない自分にだけ見える少女の存在は、まるで自分が特別であるかのように思わせた。
だが、しかし、それでも特別には程遠い。
それ以外、なにも取り柄がないのだから。運動も、成績も、性格も、人格も、才能も、人並みの域を出ない平凡。そのことに気が付いたのは、実のところ最近の話だ。
高校二年生になった今でも変わず、少女は見え続けている。
けれど、もはやそれを特別だと思うことはなくなった。それどころか、それが長所ではなく短所であり、特別ではなく異常なのだと思い始めていたころのこと。
そんな四月の十八日のことだった。
「ん?」
放課後の帰り道、また彼女を見掛けた。
なんの前触れもなく、不意に現れる少女はいつものように白い。
「よう」
そう声をかけて見ても返事はない。
今までも何度か気紛れに、似たようなことをしてみたけれど、反応があった例しがない。近付くと消えていなくなるし、かと思えばまた遠くに現れる。今までもそうだったし、これからもそう。
だと、思っていた。
人形のように反応を示さなかった彼女が、そっと手を動かすまでは。
「な、んだ?」
おいで、おいで。
そう言葉なく告げるよう、彼女は手招きをしている。そして、消えたかと思えば、すこし離れた位置に手招きをしたまま現れる。
「……ついて来いって言ってるのか?」
いつも無反応でまったく意思疎通がとれなかった少女が自分を呼んでいる。
それは十数年の時を経て、やっと感じられた人間らしい意図。その年月の積み重ねは、容易に自分を彼女の許へと運ばせた。
歩く、歩く。導かれるまま、誘われるまま、足は彼女を目指して歩みを進める。幾ら歩いても縮まらない距離にもどかしさを覚えながら、気付けば茜色だった空は暗くなり、星がちらほらと顔を出し始める。
夕闇が暗闇になりかけたその短い時の中で、足は戸惑うように歩みを止めた。
「――は?」
発した声に、なんらかの意図はない。
言葉にもならない声が零れたのは、恐怖や困惑と言った感情が一気に心の奥底から溢れたからだ。
一瞬、自分の目を疑った。
そこにあるアリエナイものを、幻か何かだと断じかけた。
今まで彼女以外に、幽霊が見えたことはない。だが、たしかに見える。目の前に、いる。浅黒い肌と、膨れ上がった肉体。どこか人間のようにも捉えられ、だが決して違うと断言できる異形の姿。
それはまさしく、バケモノだった。
「う――」
嘘だろ? そう言いかけて言葉を呑み込んだ。
口を噤み、息を殺したのは、偏に存在を気取られないためだ。
ここで声を、はっきりとした言葉を、発してはならない。口から出たものが、あのバケモノの耳に入ったら。答えは考えるまでもなく。それゆえに、生存本能は自らの口を閉ざした。
息を呑む。
心臓の鼓動すら、外にまで響いているのではないか。そんな錯覚を起こすほどの静寂の中、バケモノの視線がこちらを向かないよう祈る。縋るような思いをしながら、心で言葉を紡ぎながら、ゆっくりとアスファルトから靴底を剥がす。
このまま縫い付けるように足を下ろし、後退しよう。
そう考え、足を下ろしたちょうどその時、異形のバケモノの身体が動く。
一瞬にして張り詰める警戒と緊張の糸。その一挙手一投足を見逃さぬよう、瞬きも忘れて動向を窺った。
「■■■■■……」
聞き取ることも、意味を推し量ることも出来ない奇怪な声。
呟くように這い出た声音に怖気がたち、身体が硬直する。早く逃げなければという思いと、動いたら気取られるかも知れないという恐れ。その二つの狭間で揺れ動く中、天秤は恐れのほうへと傾く。
ぴたりと、俺は動くのを止めた。
「■■■■■■」
バケモノは動く。停止した俺とは逆に、動き続ける。
奇怪な声を漏らしながら、身体を丸めるようにして、ゆっくりとその巨大な頭を垂れた。
なにを、している?
暗闇が夕闇を浸食していく途中の暗がりに、自分の姿が紛れるよう祈ることしか出来ない状況下。パニック寸前にまで来ていた思考回路は、動かない身体とは対照的に目まぐるしく巡り始める。
そして、だからこそ、聞こえた。
「こ、こないでぇ!」
その怯えた小さな声を。
子供がいる。それもバケモノのすぐ近くに。
未知のバケモノという圧倒的な存在に目を奪われ、今の今まで気が付かなかった。きっと初めから、あの子供はそこにいた。傍らに横たわる母親の身体を揺さぶり、泣きじゃくりながら叫んでいた。
助けを求めていた。
視界の端にいたはずだ。声も聞こえていたはずだ。なのに、無意識に認識することを拒んでいた。自分が、助かりたいがために。
それを知った途端に自分が途轍もなく、卑怯であるように思えてならなかった。卑怯で、自分勝手で、臆病者だと、そう思わざるを得なかった。
「――くそったれがッ!」
バケモノが頭を垂れて何をしようとしているのか。
今となっては考えるまでもなく理解できる。つまりは、捕食。食べるという行為の予備動作。バケモノはあの子供とその母親を、人間を食おうとしている。
言葉を呑み、息を殺してまで潜めた声を、絶叫として解き放った理由は一つ。
バケモノの虚を突くため。
不意を突かれれば誰でも意識がそちらに向く。それは人間もバケモノも変わらないはず。一瞬でもいい。子供から意識が逸れれば、それで助ける時間が作り出せる。
咆えるように叫び、地面を蹴って駆け抜ける。バケモノは予想通りにこちらを向いた。垂れた頭を持ち上げて、こちらを見た。だが、それは巨体に似付かわしい緩慢な動作。バケモノが目で物を見て俺を完全に捉えた頃、俺はすでに懐にまで潜り込んでいた。
「舌噛むなよ!」
まんまとバケモノを欺き、足下にいた子供を掻っ攫う。
軽い子供の体重は苦にもならず、ほとんど速度を落とさないままバケモノの懐から脱出する。だが、予想外だったのは、すべてが上手く行った、その後だった。
ただ走るだけ。
たったそれだけのことを行ったにしては、酷すぎる疲労が両足を襲う。
両足だけではない。それは心臓の鼓動や呼吸にも乱れとなって現れる。このまま背を向けて逃げ去るつもりだったが、それも叶わないと足を止めた。
足を止めて、息を整える。そうしなければ地面を這いつくばりそうだった。
短く息を切って呼吸をしながら、すぐに背後を振り返る。バケモノは足下の子供が居なくなっていると知った直後のようで、また緩慢な動きでこちらを見た。
「よう……どうした……追って来いよ」
言葉の合間合間に呼吸を挟みながら、通じるかも不明な言葉を吐く。そして、視界の端では横たわる母親を収めていた。
母親のほうは、正直に言って生きているかわからない。だから、子供だけを奪って逃げようとした。食事の最中に食い物を奪われる。そうなった場合、奪った奴を追いかけるのが道理。それは食事を止めてでも、優先すべきこと。
そうなれば、俺を追いかけるようになれば、母親からも意識が逸れる。子供は逃げる間に何処かに隠してしまえばいい。そうすれば、そうなれば、犠牲は俺だけで済むかも知れない。
「■■■……」
口の端から溢れ出る唾液が、ぼとりぼとりと滴り落ちる。
「■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!」
身の毛もよだつ咆哮を合図に、止めていた足を動かした。
まず優先すべきは、子供を何処かに隠すこと。それが出来なければ命を張った意味がない。だが、バケモノは巨躯。歩幅が違えば脚力も比にならない。移動速度が決定的に違い過ぎる。
単純な追いかけっこでは早期に追いつかれるのは必定。
なら、複雑に進路を変更してしまえばいい。
バケモノは巨大だが動作自体は緩慢だ。脚力で速度を出せても小回りが利かない。進行方向を曲げるのに、どうしても手間取る。つまり、進路を変えて角を曲がれば曲がるほど時間を稼ぐことができる。
何度か繰り返せば、子供を何処かに隠すくらいのことは出来るはず。
――だが。
「な――」
降ってくる。
巨体が、異形が、街灯の明かりに影を落とす。
心臓を圧迫するような低音が響き、大気の震えを全身で感じ取る。それほどまでに重量の大きなものが、降りてきた。俺達の後方から頭上を跳び越えて、俺達の前に。
握られる手。突き出される腕。迫り来る拳。そのどれもが酷く遅いものに感じられた。だが、それでもその動作を、握られていく指の一本一本を、見開いた目はただ見ていることしか出来なかった。
振り下ろされる。慈悲もなく、押し潰さんと。
だから、せめてこの子だけでもとバケモノに背を向けて抱え込む。そして、来たるべき最期に備え、歯を食いしばった。
「よう」
けれど、その時はやってこない。
「無事か? まったく、大した奴だよ。あんた」
何がどうなったのか。それを明確に理解することは出来なかった。
波打つように波紋を描く透明な膜。それに受け止められたバケモノの拳。それらを背景に佇む、一人の女。真っ白な狩衣のような衣装を纏う彼女の片手には、鈍色に光る刀が握られていた。
「その子を頼んだ。こいつの相手は、私に任せろ」
徐に持ち上げられる左手は、何もない虚空を掴む。
だが、その所作に合わせるようにして、一つの何かが現れる。
「――そぼ降る雨に熾火を曝せ」
それは、仮面。
「封火」
髑髏にも似た無骨な仮面。
それで顔を覆い隠した彼女は、濡れた刃で一閃を薙いだ。
弧の軌道をなぞる刀は飛沫を上げ、透明な膜を裂いてバケモノの拳を切り落とす。飛び散る雫は色付いて深紅に染まり、灰色の地面に斑を描く。仮面の女が、バケモノを斬り裂いた。