創造
俺は一駅先の辻川町で電車を降りて逃げるように帰路につく。
相変わらず代わり映えのしない辺鄙な町だ。夕暮れになると寂れた空気が彼方此方から醸し出されていて、この世界から剥離された掃き溜めのような景色に見える。
こびり付いて寄生している俺もきっと、腐臭を醸し出す汚泥となっているに違いない。
逃げなくては、逃げなくてはならない。幸せな自分の未来を想像し、努力して掴み取るんだ。
思考の網に絡まりつつも、がむしゃらにもがいて光を目指す。
「待ってってば、おじさん」
「……」
その一言で背筋が凍りつき、手足に電流を流されたみたいにピクピクと痙攣してしまう。あの子供だ。尾けてきたのか、何故俺ばかりこんな目に。
「助けてくれてありがとう。それだけを伝えても足りないから、僕は……」
赤焼けに染まる少年は、どこか物悲しげに俺を見つめている。
「ふざけやがって……」
お前みたいなイカれた奴がいるだけでも拠り所が無くなっていくんだ。
神でも教祖でも何でもいい。誰だっていいんだ。俺を見てくれている奴が一人でもいるなら『ここ』から救い出してくれよ。
誰か。
軋む。
今にも精神がへし折れてしまいそうだ。先程の戦慄が全身に亀裂を生じさせ、みしりみしりと崩壊への前兆が見られる。
「おじさん! そっちは!」
容量不足の身体から抑えきれずに漏洩する感情を吐き捨ててから、我を失ったようにひたすら逃げ走る。
呑み込まれないように駆け足で真っ直ぐに、無我夢中で。
きぃぃ。
悲鳴を上げるような車の急ブレーキ音が俺の雁字搦めの思考を停止させる。夕暮れのヘッドライトに照らされ、異様なまでの眩しい輝きに俺は目を細める。
待てよ。
思い出した。
思い出したぞ。
あの子はひょっとしてーー。
「君、大丈夫か!?」
いつぞやの浮かび上がる記憶を遮るように壮年の男性が、慌てたふためいて車から降り駆け寄って来た。
「あ……はい、大丈夫です。すみません……」
言い慣れた言葉を事務的に返すと相手は安心して胸を撫で下ろした。
すっかり冷め切った頭で辺りを見回すと、俺は無茶な道路横断をしていたらしい。
危うく……。
危う……く……。
「本当に良かった。いや、実際ね? 君より先に飛び出してきた猫がいなかったら、ブレーキも間に合わなかったかもしれない。九死に一生ってこの事だよ、今度からは気をつけるんだよ」
「あ……おお……」
言葉が上手く出せない。胃液が喉元まで迫り上がってくる。
この感じは……嘗て一度味わった苦しみだ……。
「猫の方は……駄目だったか。可哀想だけど……私が市役所に電話するから、君は少し待っててくれ。病院に連れて行くから」
男が何か喋りかけてきているが、全く内容が頭の中に入ってこない。
車から数メートル先に横たわる物体に俺は意識を持っていかれた。
血反吐を一面に撒いたような夕焼けの朱に染まるあの少年の口元から、一筋の血紅を流れ出ていたのだ。
唇を小刻みに震え、微かに頭痛もしてくる。抱えきれない罪悪感にどうしようもなく唸るしかない。
「どうした? 大丈夫か!?」
「お……おおお……」
ーー『軋み』だ。
身体が、精神が『軋み』に悲鳴を上げている。
生物は誰かが誰かに寄り添い、壊れないよう共依存して自分達を保っている。
この世界も例外じゃない。世界は疲弊し壊れかけている。
だから世界が選んだ生物に苦痛を与え、自分の負荷を減らしているんだ。
漸く理解出来た。押し潰す気だ。世界全体の懊悩煩悶<おうのうはんもん>を俺に与えて、帳尻を合わせようとしているんだ。
「うああああ゛ッ」
「君、どうした!」
逃げるんだ。こうしている間にも逃げなくてはならない。どこでもいい、逃げなくてはならないんだ。いますぐに逃げなくては幸せになれない。
この世に居る限り。
§
上司の指示で無断欠勤を続けている、渡部さんの自宅へ向かうことになった。私が辻川町に住んでいることを理由に、帰り道ついでで構わないから見てきてくれ、と。
私はちょくちょく停車させつつ、彼の住所が書かれたメモと書き殴られた汚い地図をアテにして彼の居るアパートを目指す。
……彼の評判は悪い。
仕事に対する誠意、意欲が感じられず、無能社員という太鼓判を押されていた。それは仕方の無い事だ。社会はそんなに生易しい場所では無い。
ただ、どうしてか私は彼を嫌いにはなれない。
以前、駅前のロータリーを出た十字路でバスに轢かれそうな子猫を身を艇して助けていたのを見てしまったからだ。
私の通勤時間には影響は無かったが、当然彼は四方八方からのクラクションの嵐にへこへこと丁寧に頭を下げて謝りながら立ち去って行った。
それが善悪であるかは置いておいて。個人的に猫を飼っている、猫好きの立場としては彼の行動はポイントが高い。
ーーまあとにかく、だ。入社当時は良く飲みに行った仲だし、今回の話をネタに、北口にある、いきつけの居酒屋に彼を連れて行こう。
大丈夫。
どんなに辛いことがあっても、みんなで支え合えば生きていけるのだから。