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破壊

目が覚めると釘で打ち付けられた押入れの中板が目に飛び込んだ。

俺の一日はいつもここから始まる。


「嫌な夢だ……」


そう呟くと誰に見られることもない、大きな欠伸をかいて襖を開ける。何の変哲も無い、六畳のアパートの一室に舞い戻ってきた俺は、冬の惨烈な空気と朝陽の直射日光を受け、突き刺さる光にたまらず目を瞑ってしまう。

大人になると子供の頃の夢を良く見るようになる。いい思い出なんて無いし、昔に戻りたいわけでもないのにあんな夢を見るなんて。人一倍家族のことを愛しているからか。馬鹿馬鹿しい。誰だってそうだろ。

眩い陽光に昨夜の夢のフラッシュバックが起き、鮮明に思い返す度に湧き出してくる感傷を分析し、冗長な言葉を並べつつも下らない、と振り払ってくたびれたスーツに着替える。


黒カビだらけの洗面所に向かった俺は、まず切り落とされそうなくらい冷たい水に両手を悴ませて顔を洗う。

次はトイレに向かい、歯磨きをしながらズボンのチャックを開け用を足すと、再び洗面所に戻ってから髭を剃り、硬くて入れづらいコンタクトレンズを入れる。

規則的な動きで朝の支度を終えた俺は、扉の郵便受けに溜まった広告を無視して家を飛び出した。


早朝の独特な冷え冷えとしていて澄んだ空気が流れ込んでくる。


「うわっ、何だこれ……」


出鼻を挫かれ、つい呟いてしまった。

扉の向こうに待ち構えていたのは廊下に捨てられ散乱した魚の骨が視界に入った。左右に首振り隣の住人にも被害が出ているか確認するが、置かれているのは俺の家の前だけみたいだった。


イタズラ、か。何で……何で、俺だけにこんな仕打ちをするんだ。会社でなら未だしも俺が『お前達』に何をして、何の迷惑をかけたんだ。


「くそ……っ」


朝から理不尽な扱いをされて心が重たくなり、何か、軋むような乾いた音が頭の奥に響く。

社会への鬱憤ばらしに鯵の死骸を踏みしめ、そのまま二階から蹴り落とした。



§



寂れた街並みの一部である五階建てのビルが近づくと気が滅入る。

エントランスから階段で上がり、二階へと向かうと、俺の職場だ。行きたくもない。

一段一段上っていくと足が重くて上がらなくなってくる。鎖付き鉄球を嵌められた気分だ。

絞首台へと向かわされている気もしてきた。

とにかく動悸が激しくなって、息が苦しくなるんだ。誰か、誰か助けてくれ。救い出してくれ。


「おはようございます」


「おはよう」


「おはようございます」


「おはよっす」


素っ気ない挨拶の応酬をしながら自分のデスクに駆け込むように座り、ラジオをつけてパソコンの本体の電源を入れる。

Windowsのロゴが入った起動画面を意味も無く見つめ倒す。がりがり、と猫が爪を突き立てている読み込み音が空っぽの脳内に染み渡ってくる。


「おはよう」


上司の飯島次長が厳かな雰囲気を引き連れて俺の横に佇んだ。いつみても不愉快そうに眉をしかめて俺を睨みつけてくる。


「おはようございます……」


視線を逸らしながら小さく挨拶を返して、手早く取引先の伝票を纏める。


「今日は遊びに行く前にしっかり仕事してけよ、三年目の自覚をしろ」


「は、はい……分かりました……」


「分かってねぇから言ってんだよ!」


起爆スイッチを押してしまったのか、突然癇癪を起こして俺のデスクを叩く。次長の大声に他所の部署が驚いてこちらを見つめてくるが、俺の顔を見ると、またアイツか、と無機質な表情になって仕事に戻る。


「お前がしっかりしないと皆が迷惑すんだよッ!」


「は、はい……すみません」


ーー『軋み』だ。

俺は目を伏せて次長の説教をありがたく拝聴する。

机を叩く度に伝票が二、三枚くらいひらりひらりと落ちてしまうが、拾っている猶予なんか、俺には無い。


困ってるのは俺もなんだ。俺だってアンタと同じ人間なんだ。この苦しみに悩み抜いているんだ。

何も考えていないわけじゃない。みんなに迷惑をかけている罪悪感が薄れたことなど一度もない。

何とか今のだらしない自分自身を、少しでも磨き上げていきたいと俺は。


俺は。


待てよ。

何故、こんな苦しい思いまでして俺は『ここ』にいる。


ーーそれがこの世界だからだ。耐えられないなら舞台を降りるしかない。


説教中であっても意識は自分の殻の中にあって、事が済むまで意味のない自問自答が続く。


本当にそうなのだろうか。

この閉ざされたオフィス空間の外には限りない世界が広がっているのでは。俺には別の道を探す勇気すらないのか。


何故、何故……俺は『ここ』にいるんだ。



§



昼間は若干空に曇りがかった天気だった。枯れ木の隙間から弱々しい太陽の光と睨めっこしながら俺は公園に来ていた。

十五時を回り、勉強を終えた子供達が増え始める。


ブランコで母親と遊ぶ子供、鉄棒で逆上がりの練習をしている子供、出来の悪い特撮怪獣のような蛸の滑り台で追いかけっこする子供、サッカーに飽きたのか、足で描いたラインを使ってキックベースをする子供。

笑う子供、泣きベソをかく子供、慰める子供に貶す子供、つられて泣き出す子供、意地の悪い顔した子供に気弱そうな子供、幸せそうな子供に幸の薄そうな子供、小さな子供に大きな子供。


必ず得のする奴がいれば、何をしても厄を与えられる奴もいる。そうして世界は成り立っていることは、とっくの昔から周知されてきたこの世の真理だ。

十人十色な特徴を持つ子供達が公園で遊ぶことで公園が公園としての形を成していられるんだ。中には俺みたいな大人の子供が、公園を彩る景色として一部を担っている。それも役割か。


「おじさん」


「……」


安っぽいシャツに安っぽい短パン。見ているだけでも寒々しい子が隣に座って俺の顔を覗き見ていた。

男か女か中性的で気品ある顔立ちで判断がつかないが、格好からして男の子だろう。それにしてもなんて綺麗に透き通った緋の瞳をしている。どこかの外国人との間に産まれたハーフなのだろうか。

俺の心の奥底に眠っていたあらゆる負の感情が引き摺りだされ、白日の下に曝されていく気がしてならない。


「何かな」


「おじさん、なんかさぁ……」


「ん?」


老けて見られたことにさり気なく衝撃を受けたが、つまらない動揺を悟られぬように平然とした態度で無表情を保つ。


「元気ないよね」


「……」


元気が無いだと。

はしゃいでいる大人だけが元気なのか。俺には俺の感情がある。俺の事を知った風な口をきかないで欲しい。

こんな幼い子供に図星を突かれ、大人気なく行き場のない不平不満を頭に浮かべることしか、今の俺には出来ない。


「そう見える?」


弱い自分を隠すような、思わせぶりな口調で答えると、その子は小さく頷いた。


「見えるよ、疲れてる。とってもね」


「はは、そうだよな」


誤魔化すように乾いた笑いを出して俯くと、ある疑問を解消すべく、それとない会話の中に混ぜて尋ねてみる。


「君、家族は? この辺じゃあ見ない顔だけど」


そう言うと怪訝な顔になって、暫く口を噤んだ後、薄気味悪い縦長の瞳で俺を見つめて質問に答えてくれた。


「分かんない。親なんて見たことないし」


「そうか……ゴメン」


「ううん」


不謹慎だが合点がいってしまった。見た目は他の人と大差ないのに瞳だけが明らかに顕著な部分として表面に出てしまっている。

正直に言うと気味が悪い。いてはいけない何かが紛れて人間になったような、大袈裟に言うなれば異能な生命体という印象だ。


こいつも孤独なんだろうな、と勝手な見解でこの子を同類にした自分が憎たらしい。

しかし、同時に一人じゃないのだとホッと安心している自分もいる。


「それはそうとね、実はおじさんにお礼がしたくて、ここまで会いにきたんだ」


「お礼?」


何の事だ。全く身に覚えが無い。そもそもお互い初対面だろうに。


「僕の家に来てよ。ちゃんとしたお礼を渡すからさ」


そう言うと小さな両足をぶらぶらとさせて、少年は空を見上げる。


「……」


子供を使った宗教勧誘か。何の根拠もなく納得した俺は身勝手な怒りがこみ上げてきた。

少し前に地下鉄で物騒な事が起きたし、関わらない方がいいかもしれない。ちょっとでも仲間意識を持って気を許した俺が馬鹿を見たのだ。


「悪いけど、今は忙しいんだ」


ベンチから立ち上がって、逃げるように目的地も無い外回りに向かおうとする。


「……そう、分かった! じゃあ後でまた家に行くね。ちゃんとしたもの持ってくるから」


彼の言葉にぴたり、と歩みが止まる。


「何だと?」


ーー身体中に戦慄が走った。


いつの間に身元を調べ上げたんだ。いや、調べているのは親の方か。何にしても不気味だ、いよいよもって胡散臭くなってきたぞ。今朝のいたずらもこいつか。


阿鼻叫喚の現世に悶える俺に救いの手を、か? 馬鹿馬鹿しい、勘弁してくれよ。


「いいかい、君に言っても仕方ないかもしれないが、親に伝えなさい。いたずらもたいがいにしないと警察に言うぞって」


「僕に親なんていないよ! おじさんがーー」


「だとしても二度と俺に近づくんじゃないっ!」


「おじさん、待って!」


急いでその場を走り去って追いかけてくる子供から目の届かない場所へと俺は移動した。

公園を出るときに会社の二階からほくそ笑んでいる橘と目が合ってしまったが、知ったことか。

俺は逃げなくちゃいけないんだ。

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