再生
ーー『軋み』だ。
身体が、精神が『軋み』に悲鳴を上げている。
〜世界は俺に依存している〜
「お前馬鹿かッ」
昼下がりのオフィスにて、一人の気の弱い青年が怒声を浴びせられていた。
青年は誠意を込めて謝罪するが、重ね重ねのミスに、ついに相手の堪忍袋の緒が切れてしまい、思うところ全てを噴火させてしまう。
「すみません……」
「ろくな仕事もない癖して一丁前にミスだけはしやがる。三年目の社員がすることかよ!」
ーー吐きそうだ。
責め立てるように何度も机を叩くと、胃液が俺の喉まで押し上げられてくると同時に、身体中からべたついた汗が滲み出してくる。
「それにお前、前にあれだなッ、無断で遅刻してきたよな? そういう事やってるからお前はいつまでも駄目なんだよッ」
ーーまた上司が机を叩く。そして俺は頭を垂れる。
上司の机の上に置かれた鉛筆が揺れ動いて、敷き詰められたカーペットへと転がり落ちて行くのを目の当たりにしながらも、条件反射でひたすらに謝罪の言葉を言った。
「どうなんだよ、何か理由があるなら報告してみろよ!」
「はい……」
「はい、じゃねえんだよッ」
芋づる式で前にやらかした事まで引っ張り出してくるんだ。冗談じゃない、いつまで続くんだ。
「ココでやってけるのかって聞いてんだよ俺が!」
「はい、いや、やって……いきます……」
ミスだって遅刻だって好きでしたわけじゃないんだ。
と言い訳なんかしても火に油を注ぐだけ。
こんなオフィスのど真ん中で怒鳴られたら、新入社員にだって示しはつかない。
いや、もとより俺は後輩から慕われているわけでも無いし、指導出来る程の立場でも実力も無い。
仮に後輩へ示しているとしたらソレは上司の『戒め』だ。
こんな奴にはなるな、と。
§
仕事の内容は、数十枚の伝票の整理と起票で午前いっぱい時間を潰し、午後は外回りの営業勤務に充てる。……俺には挨拶に行くような取引先なんて1、2社くらいしか無い。
新規相手の飛び込み営業だなんて……無理だ。
だからこうして通い詰めの公園のベンチにへばりついて、何処ぞの子供達のサッカー観戦をしながら定時を待ち、時間になれば会社に一報入れて自宅に帰る。それで俺の仕事が終わる。
「あぁ〜……あ」
繰り返しの日々に溜息しかでない。いつも広場で同じ遊びをして、毎日同じ友達と繰り返しの一日を過ごしているあの子供達は、どうしてあんなに幸せそうな顔なんだろう。
ーーよく父親に隠れて漫画ばっかり見ていた。友達なんて出来やしなかったから、サッカーも野球も、鬼ごっこも泥警も、多数での遊びはやれなかった。
あそこで無邪気に遊んでいる子供達とは、俺とかなり環境が違うようだ。
普通に仕事をこなして、会社の柱として一つの職務を果たせれば、それで人並みに幸せだった。
同じ人間が愛し合い、同じ人間から産まれてきたってのに、こんなに人としての格に差が出るとは思わなかった。
ただ何となく普通の大人をやりたかっただけなのに、今じゃーー。
「ボール取って!」
「え?」
マフラーを巻いた少年が俺の足元を指差し何かを叫んで思考を遮る。
勿論、考えごとをしていたので全く聞き取れなかった。
「ボールだよ! ボール!」
「あ」
座っていたベンチの下に、革が剥がれかけの古臭いサッカーボールが丁度すっぽり嵌まっていた。
「よし、待ってろよ」
気怠さを引き剥がすように重い腰を上げ、ベンチ下からサッカーボールを取り出し手前に置くと、暗い気分を吹き飛ばす勢いで足の内側を使い思い切り振り抜いた。
「そらっ」
真っ直ぐ飛んで行くはずのボールは、どこで違えたのか少年からややコースを逸れてしまった。
「オーライ、オーライ」
少年が素早い身のこなしで咄嗟にカバーしてくれたおかげで、俺の下手くそなパスは無事に成功した。
「ありがとう!」
「ゴメンな」
あどけない笑顔を見せてお礼を言うと、受け止めたボールを抱えて何処かに行ってしまった。
俺は精一杯の引き攣った笑顔を返しながら手を振り見送ると、再び腰を下ろして背を伸ばす。
「ありがとう、か」
久しぶりに耳にした気がする。どんな些細な事だとしても、その一言で心が洗われていく、なんて素晴らしい言葉だ。
ーー十六時を過ぎて陽に橙の色味が増し、遊んでいる子供達がぽつりぽつりと帰っていくのを惰性で眺めていると、携帯電話のバイブ振動が上着のポケットから静かに伝わってきた。
最悪だ。こういう時は十中八九俺宛ての苦情電話なんだ。脈打つ鼓動を徐々に早くさせて、PHSの通話ボタンを恐る恐る押した。
「……はい、渡部です」
「どーも、経理の真中です。お仕事中ゴメンね」
真中課長だ。独特の穏やかな喋り方が嫌な予感に拍車を掛ける。
「いえ……」
「あの請求書の件ってどうした? 今朝渡したよね、君に」
請求書。
月末までの売上額を記載した請求書が毎月経理から渡され、その請求書を相手先にFAXし原紙を郵送、近場のお得意様の場合は直接原紙を渡しにーー。
渡していない。鞄の中だ。
「いや……」
「でね、相手先も親会社に報告書を作らないといけないから、結構急ぎなのよ。外回りついでで良いから必ず渡しておいてって僕言ったよね。今どの辺りにいるの? 催促の電話が入ってさ……」
「す、直ぐ渡しに行って来ます!」
マズい。社内では普段怒らない温和な人なのに。
あの会社は二駅先の戸町駅付近だ。ここからなら十五分もしない。相手先の就業時間内に間に合うはずだ……!
慌ててベンチから離れようとすると、繋がったままの電話口から喋り声が聞こえてきていた。
「……そうじゃなくてね、君は今何処なのって」
苛立ちが濃くなった声色で真中課長は問いかけてくる。
「あ、それは……」
言えるワケがない。道路挟んで向かい側の公園です、なんて。
極度の緊張状態に、俺の口の中はカラカラに乾燥してしまっている。
「聞こえてる?」
「はい、何でしょうか……」
「だから! どうして伝わらないかなぁ……ウチに近いなら先にウチのFAXから請求書送れば済む話だよね? そうでしょ?」
更に真中課長は機嫌を悪くした口調で、諭すように叱りつけてきた。
「はい……あ、そうですね」
「で、今何処って聞いてんの」
§
俺は直ぐ様会社に戻ってFAXを送信し、電話で相手先に謝り事無きを得た。
当然文句は言われたが、思っていた程に相手先『は』怒っていなかった。
血相を変えて会社に戻ってきた俺に上司が目をつけ、一連の流れの詳細を喚き散らしながら説明を求め、余すことなく俺に白状させた。
長ったらしい説教を終えた俺は、机の椅子にもたれかかり高層ビルの窓明かりが織りなす幻想的な夜景を眺めていた。
机に置いてある受信用の高機能ラジオから流れてくる『ラジオ・スターの悲劇』がオフィス内に響き、俺を感傷的な気分にさせる。
「渡部さん、随分とまた絞られましたね」
癒しの景色を阻むようにして俺の視界に入る、一人の女性社員が柔らかな微笑みを向けてくる。
こいつは橘<たちばな>。俺と同時期に入社した、清楚な雰囲気で気立てが良く、誰にでも好かれて、最高に『嫌味』を吐く奴、だ。
毎度毎度散々に怒られた後、必ず俺のところにきて今のように「絞られましたね」とか、「派手にやられましたね」とか嬉しそうな面をしてからかいにくる。
「……なんだよ」
今日はそれだけか?
御説教の時間も最高記録を更新ですね、とか言わなくて良いのか。
「いえ、別に」
これ以上何を言うでなく、だが何か言いたげに俺をじっと見つめてくる。
くそ、分かってるんだ。不甲斐ない奴だってのは。だからそんな見下した眼差しで俺を見るな。
お前が崩れてしまうから、そうやって俺を貶して自分を保っているんだろう?
やめてくれ。こう見えても俺だって人間なんだ。俺も、俺も崩れてしまいそうなんだ。
「用がないなら帰れば? 鍵は閉めるからさ」
「大丈夫ですか?」
橘は冷笑を浮かべつつ振り返って窓際へ歩いていくと、窓の戸締りが出来ているか確認して見回る。
本当に嫌な奴だ。大丈夫って何がだよ。吐き気を催す言葉だ。鍵の閉め方は分かりますかってか。
「私、こないだ見ましたよ、渡部さんーー」
沈黙の中で、突然意気揚々と橘が喋りかけてきた。
勘弁してくれ。関わらないでくれよ。
「なぁ……! 本当に大丈夫だから、頼むから一人にしてくれ」
「……」
前に玄関の鍵を閉め忘れた事を馬鹿にしたいんだ。
その程度の事も出来ないんですか、と。お節介焼くフリをして、遠回しに人を小馬鹿にした態度を取るのが大好き、それが橘っていう人間の本性さ。
「では、お先に」
そう俺に頭を下げて足早に立ち去っていくと、次第にハイヒールの靴音が遠くになって寒々しい冬の夜に溶けていった。
「……」
漸く一人になれた。
こうやって誰もいない状態で缶詰になるのが一番仕事が捗る。作業に集中出来て気分は最高潮だ。
そう、最高潮。
「……何が最高潮だ」
独り言を呟いた途端、死にたくなるような激しい自己嫌悪がこみ上げ、唇をぐっと噛み締めたまま頭を抱える。
§
小学生の頃、俺は上級生に命令されて、同級生の女の子の上履きを隠した。
人を傷付ける行為なんて最低だ。そう思っていても、思うだけで無闇に抵抗なんてしなかった。
逆らうと上級生の持っていたバタフライナイフで刺されると恐怖を感じていた。
当然女の子の両親は上履きを隠した張本人である俺に激怒し、俺の両親へ報告をするとまで先生に言ってきた。
忘れもしない、地獄のように真っ赤に煮えたぎった夕陽に染まるアパートに、じりりんと鳴り響く黒電話の呼び出し音。
本命の電話がくるまで俺は布団で熱にうなされ、喉にせり上がってくる罪悪感に苦しみもがいていた。
やがて、一本の電話が入ると母親の顔が急変し仕切りに謝っている。
ばくん、と心臓が跳ね上がった音が耳から離れない。
その夜、仕事を終えた父が俺を押さえつけ、怒鳴りながら人の『痛み』を俺に植えつけると、穴だらけの襖を開けて押入れに投げ込んだ。
『初めて』押入れに入れられた時は悲しかったけど、本当の気持ちを理解しない両親に対して不貞腐れていた俺は、布団で埋め尽くされた押入れの中を居心地良く思うようになったんだ。
何度も下らない事をして半日、いや、夜が明けるまで押入れに缶詰にされた。
俺の家族は別の何処かにいて、こんな酷い事をする父親なんて、本当の家族じゃない、と考えていたから何をしても反省すらしなくなってきた。
それに、真っ暗な空間に差し込む小さな部屋の光や、湿気た香りのする布団に心が落ち着き、平常心でいられる。
秘密基地のような、自分だけの世界を手に入れた気がしていた。
このまま死んでもいいと高を括っていると、押入れの襖がすぅっと息を引くように開いて、差し込んでくる眩い光と共に、母の手が俺に伸びてくる。
ーーおいで。
「嫌だ」
母の柔らかい声に騙されるわけにはいかない。辛い思いをするのは分かっているんだ。
ーー大丈夫。
何てことのない普通の母親の手。それなのに母親の手っていうのは妙に安堵感を誘う暖かい手だ。
それでも、向こうの世界にいきたくなかった。現実では、俺は異常者なのだから。
「嫌だ……『そっち』に戻ればまた痛い思いをするんだ」
ーー大丈夫よ。
悲痛な願いを余所にお母さんは俺の腕を掴んで、抵抗虚しく現実世界へと引きずり戻すのだ。