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リアル・プレイング・ゲーム  作者: 旭 晴人
第二章《Lost》
86/167

ハルカ脱出大作戦

 今度はトーリが間抜けな顔をする番だった。



「え……おい、ちゃんと考えたのかよ?」



「時間が無いって言ったのはそっちでしょ。そんなに考えてないけどいいの、決めたんだから」



 彼はカイジ達ベテルギウスからハルカを救った。あの時の本気の激怒の表情。今はあの顔を信じてみることにする。



「で? どうやって逃げればいいの。まさか泳いで暗黒海を渡れとか言わないよね」



 トーリはハルカの問いにしばらく黙考する様子だったが、やがてこんなことを聞いてきた。



「……お前、空飛べる?」



「飛べるか!」



 まさか本当に策ナシで逃げろとか言ってたの!? バカじゃないの!? ハルカは絶句してトーリを見つめた。



「だよなぁ……じゃあ、やっぱ俺がついて行くしかねぇか」



 苦肉の策と言わんばかり。ハルカはあらゆる意味で瞠目した。だって彼の言い方はまるで。



「え、ちょ、ちょっと待って。……君は飛べるって言うの? その……空を?」



「まぁな。俺、これでもザガンのナンバー2だし」



 空を飛ぶ。この男の付き添いがあればハルカにもそれが可能であるという。まるで夢のような話だ。滞空時間にもよるが、空を飛べさえすればいかに凶悪なリポップスポットである暗黒海も関係ない。



「ていうか、え、君もついてきてくれるの?」



 ハルカにとってそれが一番意外なことだった。いかにも非協力的で、いかにも意地悪なこの男が、他でもない監視対象のハルカの逃走を手引きするだけに留まらず同行してくれると言うのだ。



「じゃないとどうやってあんたを逃がすんだよ。……あぁ、くそっ! コーメイの奴やるなら自分で逃がせよな!」



「……どういうこと?」



「詳しい説明は後回しにする。一つだけ言っとくとさっきのはコーメイの一人芝居だ。あいつ、かなりのゲームマニアでな、メインメニュー画面を好き放題カスタムしてる。あいつは左利きだからコールの通話を開始するコマンドを左端に変えてるんだ。なのにさっきはわざと俺に見えるように右側を操作していた」



 それはつまり、仲間内であるトーリだけが察することができた大芝居。ならば最後にトーリに向けた「しっかり護れよ」という言葉の真意は。



「コーメイはあんたを逃がせって、俺に命令しやがったんだ。ムカつくぜあの野郎……」



 ハルカは頭がいい方では無いし、特定の分野において超の付く鈍感だが、本来察しはいい方だ。



 トーリとコーメイの先程の様子から、バットマンに歯向かうことがどれだけザガンにとって痛手であり、また無謀なことであるかはよく分かった。



 それなのに、コーメイはハルカのために嘘を吐いた。嘘だとバレれば彼はどうなるのだろう。



 分からない。何故自分にそこまでしてくれるのか。だがハルカはもう、彼らのことを疑う気持ちを完全に失っていた。



「コーメイのことなら心配いらねえ。舌先三寸は奴の十八番だ。それよりてめぇの心配してろ」



 トーリは先程までの迷いが消え失せた表情ですくっと立ち上がり、部屋の窓を全開にした。身を屈めれば余裕で通れるくらいの大窓だ。瘴気を含んだ夜風でも今は何故か心地良かった。



「おい、ハルカ。近くに来い」



「え、あ、はいっ」



 初めて名前を呼ばれたせいで反応が遅れた。窓枠の傍らに立って外の様子を見下ろしているトーリの近くに駆け寄ると、トーリがちらりとこちらを見て不満そうな顔をした。



「もっと近くだよ。この窓枠を通れるサイズのキューブにしないといけねぇんだから」



「なに、キューブ?」



「いいから、もっとこう……膝を曲げて背を縮めろ。それでもうちょっと俺にくっつけ」



 不本意に思いながらも言われたようにする。距離にして十センチを切ったトーリはハルカに背を向けてくれた。



 それにより抵抗感がなくなり、ハルカはもう少しだけ距離を縮めた。指先が触れたザガンのローブは思ったより肌触りの良い素材をしていた。



「そうそうそんな感じ。じゃあいくぞ。"展開オープン"」



 軽い感じで何やら詠唱したトーリの手の平の向こう側が真っ白に光り輝いた。興味を持ったハルカは身を屈めたトーリの肩越しにそれを観察する。



 トーリの、五指を少し折り曲げられた右手の先で、丁度手の平に包み込まれるようなサイズで小さな白い物体が浮遊していた。それは精密な立方体で、白とは言っても正確にはほとんど透明に近い透き通るような色彩。



「うわ、綺麗……」



「だろ? そのまま身を屈めてろよ」



 トーリが曲げていた指をパッと広げると、手の中の美しい半透明の箱は眩い光と共に急激に拡大した。



「わっ!」



 驚いた。拡大した箱の一面がトーリを貫通し、一気にハルカの顔に迫ったからだ。ぶつかる、と反射的に目を閉じたハルカのまぶたの奥で白光が一度瞬いた。



 白い光のカーテンをくぐったような感覚。怖々目を開けると、不思議な光景が広がっていた。



「わぁ……すご」



 ハルカとトーリ。身を屈めそこそこ密着した二人をすっぽり囲むようにして白い半透明の箱は拡大していた。先程はすり抜けたのに、大きさが確定した途端六面は実体を持っていた。ハルカはぺたぺたと手の平で背後の壁を触ることでそれを確認した。



 ひんやり冷たい。そして硬い。耐久力はかなりありそうである。床の代わりに足場となった箱の底面の強度も、ブーツのヒールでこんこん踏んでみてよく分かった。



「これ、俺のオリジナルスキル。【不可思議な筺マジック・キューブ】ってんだ。こういう風にして身を守ったり、敵を拘束したり……」



 言いながら、トーリは不意にこちらを振り向いて箱の中に腰を下ろした。垂直な背もたれが少し窮屈そうだ。



 そして伸ばしていた指を、人差し指と中指だけを残して折り曲げた。残った二本の指を揃えて、ふん、と軽く上に向ける。



「えっ、わっ!!?」



 エレベーターが突然上がり始めたような奇妙な感覚。ハルカ達の内包されたマジックキューブとやらが突如五十センチほど急浮上したのだ。



 スカートの裾を押さえながらハルカは短い悲鳴を上げて尻餅をついた。



「こんな風にして空を飛ぶことができる。その気になればザガンフルメンバーの輸送だって可能だ」



 得意げに笑うトーリは遊んでいるのか上向けた指をくるくる回し始めた。箱が遊園地の遊具のように緩やかに回転を始める。



 曲げた膝と膝が触れあう程度の距離しか空けられない狭い密室空間。なのに全く息苦しさを感じないのが不思議だ。



 半透明な壁はじっと目を凝らすと更に透明度を増して、ほとんど目視できないまでになる。酸素も減らないし、閉塞感が無い。



「これ……すっごい便利だね」



 何より綺麗だ。とても楽しい。



「だろ? さ、戯れはここまでにしとくか」



 トーリが指を大きく回すと、二人を乗せた箱は緩やかに回り続けながらサイズギリギリの窓枠を綺麗にすり抜け、真っ黒な空へとその美しい形を踊らせた。



 上を見上げても真っ黒な雲、下を見下ろしても真っ黒な海とくればさすがに風情が無さ過ぎる気もするが、ハルカは興奮冷めやらぬ心地で透明な壁に張り付いていた。



 信じられない。今、自分は空を飛んでいるのだ。まったく向かい風を感じないので正確な速度が分かりにくいが、尻をつけている床越しに下を覗き込めば力強く唸る黒い大海原の上をかなりの高速で滑るように進んでいるのが分かる。海面までの距離はおよそ二十メートル。



「速ーい! てか、すごい! 空、飛んでる!」



「いつまで興奮してんだよ。俺達、一応逃亡中の身だぞ」



 壁に背をもたせかけて頬杖を付いているトーリは呆れ声だ。俺達、と言ったところが意外だった。



 現在、飛行を続けて5分ほど。とうの昔に陸地が終わり、島を飛び出したハルカ達は暗黒海上空を真南の方角へ向け進んでいた。目指すはひとまず、ユートピアの本大陸。足下が海ではいかにも一息つけない。



「さっきトーリ君言ってたじゃん、このキューブは外からの音は聞こえるけど中の声は遮断されるって。だったら静かに逃げる方が損だよ」



「……ほんと、逞しい女だな。中身まで瑞季に似てやがる」



「……それって、私に似てるっていう女の子の名前?」



 トーリの眼差しがかつてないほど弱々しくなった。トーリは初めて見せたが、どこかで見覚えのあるその表情に胸が締め付けられた。



 セツナが、たまに見せた表情だったから。



「ああ。男勝りで神経太くてクソ鈍感で。そのくせに誰よりも美しかった。そんな赤い髪じゃなけりゃほんとにあんたと鏡映しだ、写真があったら見せてやりたいぜ」



「その人は、じゃあ抽選には……」



「瑞季は死んだ」



 言葉尻をぶった切る刃物のような言葉だった。



「だからさ……俺達、あんたを見てすごく動揺したよ。でもなんつうかさ、嬉しかった。瑞季が帰ってきた、みたいで」



 返す言葉が見当たらず、ハルカは後ろへ流れていく黒い海に視線を落とした。



「悪いな、あんたにこんなこと言っても仕方ないのは分かってるんだ」



 トーリは目をそらして頭を掻いた。心底自分自身を軽蔑するように小さく悪態を吐く。



「ううん。ねぇ、気になってたけど、ザガンの皆って向こうの世界でも知り合いだったの? だって、その瑞季さんと全員が共通の知り合いってことは」



「ん、あぁその通りだ。俺達は全員、高校時代のクラスメート。男子校でさ、ウチ。瑞季は近々共学になるってんで、試験的に投入された初めての女生徒だった。俺達のクラスの仲間になった」



 黒い空を見上げながら語るトーリの顔は、見ていられないほどに切なかった。



「……あの。ちゃんと言ってなかったから言わせて。私のこと、逃がしてくれて本当にありがとうございます」



 頭を下げる。攫われたことも監禁されていたこともハルカからすればいわれの無いことだが、それでもトーリ達にはひたすらに感謝の気持ちを感じていた。



「いいって、コーメイの機転から始まったことだ。俺は正面からあのコウモリ野郎に挑んであんたを逃がす隙を作れるか、その可能性しか考えてなかった」



「うん、コーメイ君にも伝えて。ありがとうって。あの、私のこと送ってくれるのは陸まででいいから。あとは馬を使ってなんとかできる」



「バカ、アルカディアのアジトは空にあるんだよ。ってそりゃ知らねえか。だから最後まで送ってく」



 ハルカの目的はアルカディアの庇護下に転がり込むことだ。この世界の神であるバットマンはハルカの位置ぐらいいつでも割り出せる。世界中のどこにいても安全とは言えない。



 ただ、アルカディアのアジト、レガリアだけはその限りでは無いのだ。何故なら他でもないバットマンが、今現在もあそこを侵略できていない現状があるから。



 だからトーリはハルカをレガリアまで逃がすと教えてくれた。だがそれがまさか空に浮かぶ要塞だったとは今初めて聞いた。



「ごめん……そういうことなら、そこまでよろしくね。転移できれば早いのに……」



「たまには鈍行で行くのもオツでいいもんだ」



 何てこと無しに言う彼は、もしかしなくても優しい。



 ハルカはバットマンの手によって転移が不可能になる呪いをかけられている。呪いとは《魔法》というスキルの一種だそうで、コーメイが得意とするものだ。どんな高ランクのスキルもバットマンなら使い放題。何とも苦々しい気分だ。



 あの城に連れてこられ、バットマンと初めて会ったその日に呪いをかけられてからというものハルカは転移ができない体になった。このゲームで本気で人を監禁しようと思うなら転移を封じることは確かに不可欠だろう。



 そのせいで、トーリにわざわざ最初から最後まで送り届けてもらう以外、ハルカがアルカディアのアジトへ逃げ込む術は皆無なのだった。



「アジトまでどれくらいかかるの?」



 なるべく軽い感じを装って聞いてみた。送ってもらう身で、間違っても焦っていることや気持ちが急いていることを表に出すわけにはいかない。



 本音を言えば、この速度でもものすごくもどかしい。一刻も早く、安全を保証されたい。一秒でも早く、彼に会いたい。



「そうだな。この運転、障害物のない空が道だから細かい操作いらないし、簡単で特に神経磨り減らしたりとかないけど。SPはそこそこ消費するんだ。だから厄介なことに長時間はけっこう疲れる。居眠りでもしちまったら地上目がけて真っ逆さまだし、休み休み行かないとな。焦る気持ちは分かるが、十日は覚悟してくれ」



「うん、分かった。なぁんだ、意外と早いのね」



 焦っていることを気取られたこと。十日という気の遠くなるような時間と距離。何より、そんな長時間も自分のためにトーリを拘束してしまう申し訳なさ。



 それらが動揺を生んだが、精一杯明るさを取り繕った。何の得にもならないことをしてくれているトーリに、あまりにも申し訳が立たない。



「そう言ってくれるのはありがたいが、無理してんのバレバレ。それと、俺に気ぃ遣う必要はねぇぞ。嫌でやってるわけじゃないからな」



「え、でもトーリ君、バットマンに逆らっちゃって。なのにそんな」



「ハルカが洗脳される方がよっぽど寝覚め悪ぃさ」



 センノウ。不慣れな響きの単語に困惑する。



「奴の言ってた儀式。そいつが洗脳の儀式のことだ。今日逃げてなきゃ、ハルカ、あんたはバットマンに頭の中を書き換えられてたんだぜ」



 忌々しげに吐き捨てるトーリ。そんな話、いきなり信じろという方が無理だ。



「信じられないって顔だが、それがバットマンのオリジナルスキルなんだよ。俺はハルカの前にも一人、あいつによって洗脳された奴を見たが……ありゃえげつない。正義の味方に服を着せたような金髪のガキが、洗脳された今じゃベテルギウスのナンバー2で老若男女殺しまくってるんだぜ」



 その話を聞いてハルカは激しく喘いだ。戦慄が喉を締め付けて悲鳴も上手く出せなかった。



「それっ、それって、ケントって人のことじゃない!?」



 トーリは僅かに目を見開いて首肯した。



「そうだ。なんか知ってるのか」



「私の……親しい人の、親友だったみたいなんだ」



「そうだったのか。その親しい人ってのはもしかしてセツナってやつ?」



 他人の口から彼の名前を聞いた途端、ハルカは自分でも滑稽だと思うほど分かりやすく反応した。全身を強張らせて目をまん丸に開く。



「やっぱそうか。こっちも色々繋がった。トモヤ、分かるだろ? あいつがそのセツナってやつの話をしてくれた。珍しく熱が入ってたから印象に残っててよ。ソーマの野郎もそいつの名前をよく口にしてた。それにもちろん、ケントもな」



 ベテルギウスを初めて殺した一般人。恐らくそれはセツナだ。彼はハルカの知らないところで思っていた以上に名が売れていたらしい。



「そいつのためにも俺達の行動は間違ってなかったかもな。セツナってやつからしてみれば、ケントに続いてハルカ、あんたまで敵に回すところだったんだ」



 ケントと対峙したときの記憶が鮮明にフラッシュバックする。あの狂気的な人間性は、セツナが親友と認めるような男とは到底思えなかった。それはバットマンの洗脳スキルの恐ろしさをそのまま確信させる。



 一と〇が支配するこの仮想世界において、ほんの一握りの例外を除いて断言できることがある。



 あり得ないことなんてあり得ない。



 音より速く走ることも、全身から蒼い炎を出すことも、空を飛ぶことも。システムがそうなると決め、そうなるように全ての数字が整理される以上、この世界の全てのあり得ないはあり得てしまう。ゲームの中ではどんな夢物語もコマンド一つだ。



 セツナは何度も言っていた。この世界は感情さえも理解するのだと。アルカディアのワタルの功績だ。ならば、プレイヤーの感情を好き勝手書き換えるスキルがあったとしてもおかしくない。



 そんな恐ろしいスキルをアルカディアがデザインしたとは思えない。自らバットマンが新たに創り出した能力だろう。



 膨大に過ぎるこのユートピアの全ての情報量をたった一人で管理し、新たなスキルまで創り出してしまう奴は、本当に人間なのだろうか。



「ねぇ、トーリ君って年いくつ?」



「ん? 今年で十九だ。俺達全員、卒業生一年目だからな」



 いくつか年上だろうとは思っていたが、いざ具体的な数字を聞けば随分先輩である。今更ながら敬語抜きの口調に物怖じする。



「気になってたの。ザガンの人達ってそんなに若くて、なんていうか考え方も思いのほかマトモでさ。そんな人達がなんでベテルギウスなんかと一緒に住んでるのかなって」



 トーリやコーメイ達を見ていると、とてもベテルギウスと馬が合いそうには思えない。加えて、ベテルギウスのように暴力に酔って快楽を得るような人間にはとても見えない。



「同盟だよ。奴らは俺達だってなるべくなら仲良くしたくない連中だが、腕だけは確かなんでな。それにあれぐらい極端に馬鹿で外道じゃなけりゃ、当時神格化されてたアルカディアを襲うなんて、罰当たりな作戦の片棒担いじゃくれねえよ」



 頭の芯がすうっと冷めたような気がした。トーリのことをどこか、不器用で柄は悪いが人格の良い青年だと認識していた自分が頬を張られたように目を覚ました。



 目の前のこの青年は大犯罪者だ。大量の人間が意味もなく死ぬことになったきっかけを作った張本人。分かっていた。分かっていたはずなのにどうしてこんなに切なくなるのだろう。



 知りたい。ベテルギウスのような動機であるはずがない。暴力そのものを目的としないのならば何故。何故お前は──私から母を奪った。



「どうしても殺したい男がいた」



 問わなくてもトーリは答えてくれた。恐ろしいほどに真っ直ぐな眼差しで。



「そのために誰がどうなっても、そいつがのうのうと生きていることだけが許せなかった。大馬鹿野郎さ俺達は。俺達はたった一人を殺すためだけに、全ての人間が死ぬ可能性のある世界を創ってしまった」



 燃え盛る炎のような高熱と、震えが止まらないほどの冷気が内側で混ざり合ってハルカをぐちゃぐちゃにした。



 トーリは一見無表情に見えて、よく見ればとてつもない痛みと闘っているようだった。それは彼が罪人に似つかわしくないことの証明であり、同時にどこまでも傲慢が過ぎる態度だった。



 そんな顔をする権利は、彼には無い。それさえもきっとトーリは分かっている。ハルカはそれが一番腹立たしかった。



「俺達はこの世界に来て、努めてその男に対する憎悪を忘れて過ごした。だがこの愉快なゲームの世界を俺達は心から楽しむことができなかった。夜の数だけあいつを呪ったよ。そんな時だ。バットマンが俺達の前に現れた」



 事実を淡々と告げる彼の瞳をじっと睨む。何か言いたい気持ちはあるのに、何一つ言葉が出てこなかった。



「奴はアルカディア襲撃を手伝わないかと俺達に提案した。この世界を自分のものにしたいというバットマンの目的には興味なかったが、この世界で人を殺せるようになる、その話に俺達は揺さぶられた。一週間悩んで、俺達は結局悪魔の誘いを飲んだ。バットマンはもう一組の集団に声をかけていて、それがベテルギウスだった」



 かくして同盟は結成された。各々目的は違えど、手段が一致していた。アルカディアを襲い、世界は変わった。



「俺はどうしようもなく愚かだった。考えがまるで足りてなかったんだ。当時、俺はこんなことを本気で考えてたんだ。人が死ぬ世界になったところで、それは元の現実の真理に戻っただけのことじゃないかって」



 無表情の仮面の奥で、トーリは確かに泣いていた。



「たくさんの人が死んだ。ほとんどがモンスターと、ベテルギウスを筆頭にした悪意あるプレイヤーによって殺された。信じられなかったよ、この世界じゃ命ってこんなにも脆いんだってことが。数字が無くなりゃ砕けて消える。なのに肝心の仇は一向に見つからねえ。何度後悔した、何度反省した。そして何度……そんな資格は無いと言い聞かせたかもう分かんねえ」



 無表情が崩れた。ハルカは拳を握って全てに耐えていた。



「……くそ、カッコ悪すぎだろ。なんで俺は言い訳してんだ。だって俺は、結局一度でもバットマンに言えなかったんだぜ。元の世界に戻してくれって。俺達が間違ってたって。言えなかった……どんだけ後悔しても、救えねえことにまだ俺はあいつを殺すことに執着してる」



 熱も冷気も失せてハルカに残ったのは巨大な喪失感だった。



 ハルカやセツナが大切な人を喪い旅に出たのも、この世界が理想郷で無くなってしまったのも、全ては個人的で身勝手な復讐心がもたらしたものだったのだから。



 ハルカは自分を蝕む憎悪をいつの間にか崇高な正義感にすり替えて、悲劇に酔って矜持さえ抱いて旅をしていた。何と愚かしい。



 今、目の前で本気で苦しんで胸の内を吐露した青年の抱える巨大な復讐心を前にして、ハルカはこんな感想を抱くのだ。



 なんてくだらない。



 彼の痛みはハルカにはある程度分かるはずだった。死ぬほど憎い相手がいて、そいつがのびのびと暮らしていることが我慢ならない。その気持ちはハルカなら分かってあげられたはず。



 なのに。それなのに。



 他人の目から見た誰かの憎しみとはこれほどまでにちっぽけなのか。



「……取り返しの付かない間違いを犯した。規模が違うだけで、私もトーリ君と同じだよ」



 この手で名前も知らないベテルギウスを六人殺した。その気のない仲間を無理矢理引っ張って疲弊させた。何の得にもならないしんどい時間を浪費した。



「私、自分を世界で一番かわいそうだと思ってた。世界で一番損な生き方をしてると思ってた。なんて馬鹿だったのかな。数ある選択肢の中から一番楽な生き方を選んでおいて」



 トーリは思いっきりひっぱたかれたみたいに表情を変えた。



 ──俺、止めようと思う。復讐。



 ああ、彼はなんて強い男だったのだろう。あの時のようにセツナに合わせるのではなく、今、彼と同じように宣誓しよう。彼もザガンと出会ったことで何かを変えたのだから。



「私は止めるよ、復讐。ねぇトーリ君、一緒に行こう? ここよりもっと大変かもしれないけど、もっともっと、明るい場所に行こうよ」



「……強すぎだろ、お前。ふざけんなよ……やっぱ、お前の大切な人も、俺達奪ってたんじゃねえか……」



 トーリはまるで教えてくれと言っているようだった。憎むべき相手に何故手をさしのべられるのかを。



「原因の原因の原因まで遡って恨んでちゃ腐っちゃうわ。まあ昔の私なら問答無用で刺してたかもしれないけど……もっと楽しい生き方を教えてくれた人がいたの」



 セツナとの旅は、自分が思っていたより復讐以外のことを考える余裕があったことを教えてくれた。人間なんて本当はそんなものなのだ。アンナとの日々は自分が本当はどうしたいのか、どう生きたいのかを気づかせてくれた。



「例えば君を殺してしまうより、君と友達になる生き方、とかね。そっちの方が楽しそうだわ」



 トーリは思い切り目を丸くしてしばし絶句していたが、やがて僅かに赤面した。



「俺、いくらなんでもあの野郎と友達になるなんて絶対考えられねえぞ」



 憎んでいる相手のことを言っているのだろう。つい笑ってしまった。



「馬鹿ね、今回限定の話よ。私だってカイジと友達とか考えただけで五キロ痩せそう」



 締まらない言い方になってしまうが、トーリなら許せる。そんな感じだ。許せてしまうなら無理に憎む必要も無い。



 怒りも呆れもあるけれど、それ以上に失うのが惜しい。人はそれを許しと呼ぶのだ。



 ハルカのために自分を犠牲にして連れ出してくれた。惜しく思う理由はそれで十分。



「……なんだろ、これ。なんか……すっげえ、嬉しい」



 自分の感情に困惑するように視線を彷徨わせているトーリは、長いこと黙っていたが、しばらくして。



「……時間が欲しい。考えさせてくれないか」



 復讐を止めようという提案に対してだろう。なんだか告白を保留されたみたいな返事でむずむずする。



「うん。じっくり考えて。私もまだまだ完全に変われたわけじゃないから」



「いや、十分強えよあんたは。マジ、尊敬する」



「そうかな?」



 まんざらでもない気分で視線を落とすと、丁度黒い海がブツリと途切れたところだった。気づけば黒雲も晴れ、星の見え隠れする夜空から随分懐かしい粉雪が降っている。



「お、海を越えたのか。メルティオールがここからすぐだから、今日はそこで宿をとろう」



「え、ほんと!?」



 懐かしい地名を聞くだけでハルカの気分は跳ね上がった。トーリが片眉を不思議そうに上げた。



「やけに嬉しそうだな。故郷か?」



「違うけど、同じぐらい思い出がある場所なの」



「ふーん。俺はあそこ故郷だけど、メルティオールでの思い出っていやぁ、変な不動産屋の女プレイヤーが強烈すぎて記憶埋め尽くしてる」



「え、それってサクヤって人じゃない!?」



「知ってんのか!?」



 意外なところで盛り上がった。そういえばサクヤはオレンジ色の頭髪をしたザガンが男前だったとか目が気に入ったとか城をタダであげたとか言っていた。今思えば完全にトーリだ。



 緩やかに着地したキューブはトーリが指を鳴らすと音を立てて消滅し、ハルカは雪の薄く積もった陸地に尻をつけた。ひんやりとした感触も本当に懐かしい。



 うーん、とお互い伸びをして、ここからは徒歩でメルティオールへ。歩いて十五分ほどかかるが、今はお互い体を動かしたい気分だった。



「ねえ。競争しない?」



「は?」



「いいじゃん、ずっと軟禁されてた身にもなってよね」



 ハルカは既に雪に足でスタートラインを引いていた。トーリは呆気にとられた様子でハルカをしげしげと見つめている。



「どうしたの?」



「あ、いや……なんでも」



 トーリが瑞季という少女の面影をまたしても自分に見たのだと気づけるぐらいには、ハルカは実は鋭い。



「俺は、んなガキみてぇなこと……」



「私のナイトが務まるかどうか見てあげるって言ってんのよ」



 ふふんと笑ってやるとトーリは挑発に乗ってきた。



「上等だ。百馬身差つけられても泣くなよ」



「まー大きな口だこと」



 言い終わると同時にハルカはダァンと地面を蹴り飛ばした。トーリが「あっ、おいっ!」と泡を食った声も一瞬で引きはがす。



 久しぶりの全力疾走だが体になまりは感じない。向かいから吹き付ける強烈な冷気が身を切るが、それさえも心地よい。ハルカは羽が生えたように疾駆し、立ちはだかった針葉樹林をジグザクに蹴りながら加速して一息にコースの三分の二を走破した。



 気持ちいい。最高に爽快だ。林を突っ切って開けた視界の先、遠方にメルティオールの北門が見えた。あそこがゴールだ。



 さすがにフライングが過ぎたかな。拗ねて歩いてきてるかも。ちらっ、と一瞬だけ後ろを振り向いた。



 その瞬間、ザガンのローブがオレンジを帯びた黒い弾丸となってハルカのすぐ横を一瞬の内に抜き去っていった。バサバサ、と掻き乱された髪の毛にも構わずハルカは開いた口が塞がらない。



 積雪を猛烈に蹴散らしながら北門ギリギリで急ブレーキをかけたトーリは、数秒後に追いついたハルカを恨みがましい目で見ながら荒い息を繰り返す。



「えげつない、フライング、しやがって……しかも思ったより速いじゃねえか……」



「ま、まあ、君も思ったよりやるみたいね! 合格よ合格!」



 想像以上に頼もしいナイトがついたようだった。もう呼吸を安定させているトーリの涼しげな横顔を、ハルカは面白くない気持ちで見つめた。

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