抜けない刀
いつの間に感慨に耽っていたのか、それとも眠ってしまっていたのか。気づけば空は鮮やかな緋色に焼けていた。
身体を起こすと、もう六月になるというのに冷気を孕んだ爽やかな風が吹き付けて思わず身震いする。
傍らで、ケントが丸くなって眠っていた。時刻を確認するともう六時を回っている。
今日は七回くらいフリーバトルをやったはずで、終わったのは確か三時半くらい。となると俺は二時間以上も外で寝ていたことになる。我ながら呆れる脳天気だ。
何となく手持ち無沙汰になった俺は、メニューパネルを開いて装備画面に移行した。人の形をした3Dフィギアにいくつかの罫線が伸び、腰に伸びた線の横には《ベアズクロウ》──俺の愛用しているダガーナイフの名称が記されている。
あの時倒したグランドベアからドロップした武器で、俺の初期のナイフ、《ハンターナイフ》より二もランクが上のEランク武器である。刃渡り二六センチの両刃ナイフで、何より取り回しと切れ味の良さが売りだ。
その愛剣の名前をタップすると、背景黒、文字白だった色彩が反転した。同時、俺の手にあった鞘に納められたダガーは光りの泡となって消え、非具現アイテムとして俺の仮想アイテムバッグ、いわゆるストレージに格納される。
無装備状態になった俺はすぐさま、装備一覧画面から一つの武器の項目をタッチし、そのままドラッグしてさっきまでダガーの名前があったところに持ってきた。
3Dフィギアの腰に伸びる線のすぐ横に、《龍刀 葉桜》の四文字がガチャリとはまった。そして間も無く、俺の左腰に新たな重みが加わった。
それは一風変わった太刀であった。鞘は定番とも言える漆塗りの黒ではなく、ゴツゴツした岩肌のような材質の若葉色。鞘が鮮やかな黄緑色なのだ。
ならば刀身は……と、当然興味はそちらに行く。しかし、その様子を見ることは不可能なのだった。
葉桜という名の日本刀の柄に、ゆっくりと手をかける。はっきりと俺の手に馴染むこの刀は、間違いなく俺のために存在するものだ。
だが、柄に力をゆっくりと込め、刀を鞘から引き抜こうとするも。──抜けない。
抜刀の意思を察知したシステムが、俺の目の前にメッセージを展開した。赤いパネルに白文字で、一言。『現在のジョブでは装備できません』
俺はさしてがっかりすることもなく、ひたすらにその美しい刀を愛で続けた。この刀は、この世界に来た初日の夜に父から送られてきたものである。
プレゼントデータに同封されたメッセージには「楽しんでるか? ゲームマスター権限で、お前らにだけ贔屓してやる。内緒な」と記されており、心躍ったものだ。
俺がAランクの武器をもらったのと同じように、シュンにはAランクの超レア防具が贈られていた、母が何をもらったのかは教えてくれないので分からないが、母はメッセージを見て泣きながら笑っていたのできっとなんだかんだ嬉しいものだったんだろう。
しかし、防具に装備制限はないというのに、武器にはしっかり存在するのだ。それぞれジョブには装備可能な武器が決まっており、俺のジョブ──ハンターの上位職、《ストライダー》が装備可能なのは《短剣》、《弓》、《ボウガン》の三種類のみ。短剣一本槍のハンターに中距離武器が追加された感じだ。
それを知って当初こそ大いに嘆いたものだが、レベル30になって次のジョブチェンジができれば、もしかしたら今度こそこの葉桜を抜くことができるかもしれないのだ。
装備不可能な武器は具現化こそできるものの、実際は装備されていない状態にある。剣なら鞘から抜けず、銃なら引き金が引けないといった具合に、武器を使用する一切のアクションがシステムによって禁じられる。
納刀状態のまま殴りかかっても、武器の攻撃力が一切加算されないため、実質そこら辺の棒きれで殴りかかるより弱い。スキルや熟練度の恩恵も受けられない。
よって、俺は今文字通り宝の持ち腐れ状態なのだ。一刻も早くレベルを上げたいところだが、もうこの近辺のモンスターでは経験値の足しにならない。
「……セツナ」
傍らで、ケントが俺の名を呼んだ。どうやら起こしてしまったらしい。
「よう、起きたのか」
「うん。またその刀見てるんだね。飽きないねえ」
ケントの挑発に俺は乗らない。今回のケントのこれは俺をファザコンとバカにしているのでは無く、単純に俺の武器が羨ましいだけだからだ。
「……ねえセツナ」
「なんだよ改まって」
ケントの方を振り向くと、ケントはよっこいせと上体を起こして悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
「僕達三人で、旅に出ないか?」
よもや委員長気質のケントから、こんな悪ガキじみた提案が飛び出すとは思わなかった。
それは俺も何度も考えたことだったのだ。俺達のレベルは既に、本来始まりの街に留まっているレベルを相当に逸脱している。逆を言えば、だからこそこのレベルに到達するのに一ヶ月もかかったのだ。
RPGはほぼ例に漏れず、主人公が旅をするシナリオになる。そして間違いなく、故郷から遠ざかるにつれ自動的に敵は強くなり、獲得できる経験値も多くなり、ストーリーも盛り上がりを見せる。
ただ、このゲームを百パーセントゲームとして楽しむわけにはいかないのが俺達だ。この世界は今や俺達の現実で、この街は単なるスタート地点ではなく、住むべき家のあるホームタウンだから。
それに、全てを投げ打ってでもレベル上げに邁進するような輩はこの世界で限りなく稀だ。ゲームオタクが勇んで購入したわけでなく、ゲームのゲの字も知らないような層まで、色んなユーザーが住まう世界なのだから、当然といえば当然なのだが。
何が言いたいか。競争相手がいないのだ。MMOというのは有り体に言って少しでも上位のプレイヤーにあり続けて優越感に浸るのが楽しいのであって、誰もろくにインしていない過疎ったオンラインゲームでやる気を出せという方が無理だ。今の俺の心理状態はそれに近い。
それをケントに言うと、可哀想な人間を見る目で見られた。
「もうちょっと汚れの無い目で物事を見れないのかい、君は」
「前から思ってたけどお前けっこう失礼だよな」
思えば、会って一ヶ月しか経っていないのにこれだけ仲良くなってしまっているのはいつもの俺なら考えられない。キツい言葉も楽に言い合える関係というのは、もしかしたらこの特殊な状況下にあるということも手伝って築けたものかもしれない。
「こんな美しい世界だよ。冒険したいと思うのは当然じゃないか。張り合いなんかなくたって、僕達三人で強くなればそれで楽しいじゃないか。それに、君も僕にずっと負けっぱなしで良いのか?」
「……でもさ。母さんを、置いては行けねえよ」
ケントの言葉は確かに俺の心を揺さぶった。しかしこれまで女手一つで俺達を育ててくれた母を置いて、子どもだけで何日も帰らない旅に出かけることにどうしようもない後ろめたさを覚える。
ケントは俺の言葉に、途端に表情を変えた。
「……そっか、そうだよね。でもさ、もう一度だけ、考えておいてくれないかな」
俺は小さく返事を返した。空は茜色から少しずつ暗い色を帯びてきて、時刻は六時四五分。そろそろ母が心配する時間だ。
「じゃあ、今日は帰るわ」
「うん。返事はいつでも良いから。じゃあ、また明日」
「おう」
少しばかり沈んでしまった空気から脱出するように、俺は駆け出した。茜と紺の混じり合った空は、美しかったが少しだけ不気味だった。