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リアル・プレイング・ゲーム  作者: 旭 晴人
第一章《Utopia》
70/167

プロローグ

 漂う、闇。



 まるで太陽の存在しない世界であるように、そこは一年中黒に支配されていた。



 墨汁のような海に囲まれた絶海の孤島。草花の類いと言えばそこかしこで擬態している食人植物モンスターぐらいで、干ばつしひび割れた大地と色気の無い岩山が散見するのみという殺風景な有様だ。



 見上げれば、青空などは無くただ陰鬱に一体を覆い隠す重々しい黒雲。時折雷が飽和するような稲光と身の毛もよだつような重低音が雲の中から発せられるが、不思議なことに落雷はおろか小雨さえ降ったことが無い。



 そして、空中を流離さすらう濃い紫色の瘴気。エフェクトによる演出なので吸い込んでも毒状態を患うようなことは無いが、まともな者はつい息を止めてしまう。まさに闇が漂っているような光景。



 地獄のようなその場所は、確かに最終ボス魔王との決戦の地としてはこれ以上無い。



 浜辺近くの廃墟の壁にもたれて座り込んだ、薄汚い老爺型のNPC曰く。この島の名は《鬼ヶ島》。このゲームにおける最終ボス、《魔王アノン》が玉座にてふんぞり返る魔王城は、この島の北に聳える大山脈の頂点に構えられている。



 魔王アノン──設定レベル300。デザインされた数多のモンスターの中で限り無く希少な人型であり、漆黒の髪と火焔を煮詰めたような灼眼を持つ。



 狂気的な嗤いと常に限界まで開ききった瞳孔、そして焼けただれた顔の左半分。恐怖そのものを具現化したような容貌は相対した者を確実に金縛りに遭わせる。



 血塗られた両手剣から放たれる極大の斬撃、その余波だけで竜王のブレスに匹敵するダメージ量。HPが五割を下回ればアノンは剣から手を離し、今度はその両手の平から最上位闇魔法を連発する。



 規格外の攻撃力パラメータと無尽蔵に近いHP。まさしく最終ボスに相応しい難易度であり、レベル三桁の猛者が何十人と集まるような攻略パーティーでない限りは、倒されるようなことはまずないというのがまともな結論とされていた。



 際限なく新機能、新要素を実装していかねばならないオンラインゲームにおいて、ラスボスとは絶対不落の神話がついて回るぐらいが丁度良いものである。



 ──そのアノンを単独撃破したとき、ソーマのレベルはまだ100の大台に乗ったばかりというところだった。



 現在ではベテルギウスとザガンのアジトとなっている魔王城。そこの大広間──即ち魔王アノンと挑戦者達の戦場となる予定だったその場所で、今まさに戦いが起きていた。



 それはもはや、戦いと呼べる次元のものでは無かったが。



 一人は、倒されたはずの魔王アノン。しかし表示されているHPの最大値はシンジの設計したものの二倍近くあり、彼の握る剣もどういうわけか二本に増えている。



 焼けただれた方の頬を三日月型に吊り上げて、瞳をもはや真円まで見開いたアノンの開ききった瞳孔は深紅に爛々と燃えていた。壊れたマリオネットのようにギコ、ギコと揺れたかと思うと、次の瞬間アノンの姿が掻き消えた。



 暴風を巻き起こしながらの猛烈な突進は、その速度故に最早瞬間移動に等しい。両手の剣をクロスして振り抜くその突進攻撃を、もう一人は間一髪というタイミングで防御した。



 直後、防御を突き抜けて闇色の辻風がバツの字型に顕現した。鋼鉄もぶった切るような威力のそれが、突進を受け止めた男の身体を容赦なく通過し、背後の分厚い石壁に爆音を上げて激突した。



「ぐぅ……ッ!! …………くく、あはははは!」



 笑い声。快感でたまらないというその声は、狂気以外の何ものでも無い。



 四肢をもがれるが如き激痛が脳に届いたはず、だというのに。度を超えて凶悪化しているアノンに挑むその男は、信じられないほど荒い呼吸の中で快哉を上げたのだ。



 量感のある雪のような白髪。見開かれた血のような瞳。苦痛と快感に歪む顔には大量の玉の汗が浮かび口元にはよだれまで滲んでいるが、その容貌は信じられないほどに美しかった。



 ベテルギウス総大将、ソーマ。通称《鬼神のソーマ》。



 命の損耗と魂の摩耗、その先にある筆舌に尽くしがたい快楽。限界ギリギリの戦闘というものに骨の髄まで魅せられた男。



 純白の刀の柄を砕けるほどに握り締め、ソーマはアノン目がけて地を蹴飛ばした。



 ソーマの突進速度は、確かに速い。間違いなくプレイヤー内で最速だ。だが、それでもアノンの三分の一にも満たない。



 純白の刀の一撃が、アノンがクロスした双剣によって防がれた。途方も無い量の火花が散る。照らされたソーマの顔は歓喜に緩んでいた。



 本来、アルゴリズムに従って動くだけのモンスターが、プレイヤーの攻撃をピンポイントで防御するなど決して有り得ない。



 アノンが絶対不落と言われる最大の理由は、その有り得ないが有り得てしまう点であった。シンジ自らが作成した人工知能を搭載したアノンは、その化け物じみた演算能力によってプレイヤーの攻撃行動に迅速に反応し、弾き返す。



 それ故、アノン討伐に十や二十の人数で挑めばたったの一撃も与えられずにゲームオーバー、なんてこともざらに起こりうる。まして──ソロ攻略など狂気の沙汰だ。



 狂った鶏のような音で嬌声を漏らしながら、ソーマは目にも留まらぬ速度で刀を振るい続ける。だがアノンはそのAIによってソーマの全身の仮想筋肉の力み具合を測定し、全ての攻撃の軌道を先読みする。



 白きプロミネンスのように全方位から無尽蔵に噴出する剣戟を、アノンの双剣が余すことなく叩き落とす。剣が二本に増えたことで、シンジが敢えて残していた針の穴ほどの隙さえ消滅している。



 だが、ソーマはそれでも嗤うだけ。手が届かないと実感すればするほど、腕が重くなれば重くなるほど、そして、死を感じれば感じるほど、たぎる。



 ソーマの刀が生み出す衝撃波が、巨大な刃の形となってあちこちで炸裂する。超常現象に等しいそれは、しかし断じてスキルではない。



 刀という武器が含有する切断属性の総量。ソーマの圧倒的かつ正確無比な一閃により何百倍にも増幅されたそれが、斬撃を飛ばすという神業を引き起こしたということ。



 音速を超えて飛翔する空気の刃の一発が、その戦闘とも言えぬ戦闘を観戦していた一人の男に向かって飛来した。気付いたときにはもう遅く、男は悲鳴を上げる間もなく身体にそれを通過させた。



「……怖ぇぇぇ!! すり抜けるって分かってても走馬灯見えたぜ!」



 斬撃は男の身体を通り抜け、背後の石壁に巨大な亀裂を走らせた。男のHPはびた一文減少していないが、当の本人は自分の身体をぺたぺた触りながら斬られた壁を間抜け顔で見上げている。



「うるさいよ、カイジ。そのすり抜けるスキルの効果がある内に引っ込んだ方がいいんじゃない?」



「だってよぉ、いきなりあんなの飛んできたらそりゃあビビるぜ。ケント、俺は生身でこんなとこに来るお前の方がどうかしてると思うがね」



 観戦者は二人。両者とも、黒いボロ布を纏っていた。薄汚い、という言葉がピッタリはまるような男と、対称的に美しい顔立ちの少年。



「心配してくれてどうもありがとう。俺だって気が気じゃないさ、いつ流れ弾で死ぬかも──」



 言い終わるまで待たず、今度はその少年目がけて斬撃が飛来した。全身に膨大な量の赤い電流を纏った彼は、次の瞬間、腰に差した刀を抜き放った。



 神速。紅の光芒が尾を引いて閃いた。遅れて金属が悲鳴を上げるような甲高い音。斬撃はケントの剣戟によって真っ二つに斬られ、後方の壁に炸裂した。



「──分からないからね。一瞬たりとも気を抜けないよ」



「……俺に言わせりゃ、お前も十分化けモンだよ」



 カイジの独白をケントは黙殺する。余裕を装いながらも、ケントは言葉通り一瞬たりとも気を抜いてはいなかった。



 それは自らの命が脅かされかねないからではない。それもあるが、それ以上に。



 目の前で繰り広げられる次元の違う戦いから、目が離せなかった。



 事の発端は、ケントがベテルギウスに入団して数日も数えない頃のこと。確か、丁度シャビ達若い衆がセントタウンを暇潰しに襲撃した頃だった。



 現在ユートピアのシステムを掌握している存在──《バットマン》と呼ばれるそいつに、ソーマは自らが倒してしまった魔王アノンを生き返らせて欲しいと依頼した。



 そして甦ったアノンをどうするかと思えば、ソーマはそのアノンに戦いを挑んだ。そして三日三晩続いた激闘の末辛くも勝利すると、一週間寝込んだ。目を覚ましてしばらくは狂熱が冷めたように穏やかな彼に戻ったが、つい最近のことだ。



 もっと強い敵を、私にくれ──何かに取り憑かれたような顔でソーマはバットマンに頼むのだ。そして甦ったのが今の強化版アノン。



 新参者であるケントの知る限りでさえ、ソーマは実に三度も魔王アノンに単独で挑み、そして過去の二度はそれに成功している。二度目は先述の通りケント入団の直後だが、最初の撃破はシステム書き換えの事件があった直後のことらしい。



 ケントがまだ、セントタウンで平和ボケしていた時期のことだ。



 当時のソーマのレベルは102。この数値はソーマが自力で積み上げたものである。このゲームをたった一月でレベル三桁に到達させるのは事実上不可能に近いが、現実での身体能力が考慮される仕様により、ソーマだけはその限りではなかった。



 顕著な例を挙げるなら、レベル一桁でソーマはダンジョンのヌシを屠った。ソーマはそれほどまでに人間離れした強さを持っている。推奨レベルを逸脱する個体を貪り続けることによってソーマは三桁の大台に到達したのだった。



 だが、三度目の正直ということなのか。今回ばかりは相手が悪すぎるようだ。



 ソーマの、雷を纏ったケントでさえほとんど目で追えない速度の攻撃が全て防がれている。これでは何日続けたところで一撃も浴びせられはしないだろう。疲労の存在しない永久機関のアノンに、消耗戦も望めない。



 ソーマは負ける。それは即ち死ぬということ。それだけは防がなければならない。



 しかし万が一ソーマの窮地に助太刀をするようなことがあれば、間違いなくソーマの逆鱗に触れる。



 その意味でも、目が離せないのだった。



「おいおい、ソーマ様マジで死んじまうぜ。ケントよぉ、お前もそうは思わねえか」



 愚問だった。前を見たまま冷ややかな返事をやる。



「明らかに劣勢だ。ソーマ様は楽しんでいるようだけど、少しずつ剣速が鈍くなってきている」



 当然だ、筋力は使えば使うほど二次関数的に最大パフォーマンスを低下させる。システムに明記されている以上、人間の枠を超越した肉体を持つソーマでさえその例には漏れない。



 いつか、腕が上がらなくなる瞬間が来る。アノンの防御にも余裕が生まれてきた。もういつ、アノンが反撃を差し挟んでくるかも知れない。



 ──だが、ケントは知っている。この程度が、我が主の本気では全くないということを。



「『スキルを使わずに倒す』……なんて縛りがどれだけ無茶か、流石にソーマ様も分かった頃だろう」



 言い終わるかどうかというところだった。防戦一方だったアノンがギョロリと眼球を閃かせたかと思うと、片方の剣でソーマの刀を迎撃した。振り始めの力の入らないタイミングを狙われたソーマは一方的なノックバックを受ける。



 致命的な隙。アノンの双剣が狙い澄ましたようにどす黒い紅の光芒を帯びる。ソーマの命の残量を喰らい尽くすに余りある威力の剣技が、まさしく今放たれようとしている。



「おいおい、やべえ!」



「馬鹿なこと考えるなよ、殺されるぞ。アノンとソーマ様、どっちにかは分からないけど」



 助けに入ろうと前のめりになったカイジを腕で制し、ケントは目を見開いた。



 機械と縁の無い暮らしをしてきたために極度の機械オンチであり、その延長で《スキル》という概念に苦手意識のあるソーマ。テレビゲームだって彼はしたことがないのだ。



 システムのアシストに一切頼らない我武者羅な戦い方しかできない不器用な彼は、アノン相手にもスキルを使わないと制約を立てていた。



 それは更なる窮地に自分を追い込むことで、見返りである興奮と快感を増幅させる意図もあるらしい。だがそれはいくらなんでも、無謀以外の何ものでも無かった。



 だからケントは、決闘の直前彼にこう耳打ちした。──本当にヤバくなったら、こう唱えるのです。



 まさしくアノンの剣に胸を穿たれる直前、ソーマの口からそれは放たれた。



「──【明鏡止水】」



 それはランクで言うなら中の上と言ったところのウェポンズスキル。ケントも体得しているし、解放条件は易しめであるからセツナも恐らく会得している。



 内容は単発水平斬り。水色のエフェクトが伸びて実質リーチが倍近くなることと、高確率で敵をひるませる効果がウリの技。絶望的な状況を打破するだけのポテンシャルは無いように思える。



 だが、なまくらも一流の剣士が振るえば業物となるように、スキルもまた使い手によってその威を開花させる。



 ソーマの刀がクリアブルーの光を帯びて水平に振られた刹那──空間が割れた。



 大広間が横一線に分割され、ブゥンという音と共に大気に亀裂が走ったのだ。それは果たして目の錯覚だったのか一瞬で収まったが、直後アノンの背後を不可視の衝撃が迸った。



 まるで透明な核爆弾が斬撃の形に凝縮され、そこで炸裂したようだった。耳を覆いたくなるような轟音を上げて繊細な彫刻が施された壁画は無残に両断される。



 魔王アノンの二振りの魔剣はソーマの刀を真っ正面から受け、スパークじみた火花を膨大に散らす。刀はアノン自身を捉えてはいないのに、恐ろしい勢いでアノンのHPがごりっと削れた。



 今度はアノンが仰け反る番だった。ソーマは今自らが放った一撃の威力が信じられないとばかり、目を丸くして青く光る刀身を眺めていたが、我に返るや否や──その双眸を凶悪にぎらつかせた。



 一度でも体勢を崩せば、もうアノンは鬼神のソーマを捉えられない。



 無数の斬撃がアノンの胴体を縦横無尽に通過していく。風を裂く甲高い音が大広間を支配し、アノンが漏らす首を絞められたような声を遮る。



 高性能AIの演算さえ、一度取り逃がしたソーマの剣戟を再び弾くことはついにできなかった。



 数分かけてその無限に近いHPを削られきったアノンは、恍惚の表情で刀を振り抜いたソーマの目の前で粉々に霧散した。カイジが声も無く目を剥く中で、ケントはソーマに無尽の敬愛心を覚えていた。



 ──この方には、絶対に誰も敵わない。



 たった一種類のスキルを教えただけで、もう遙か手の届かない高みまで登ってしまった。そんな無敵のソーマはケントにとって絶対神であり、彼に刃向かう羽虫はすべからく排除の対象だった。



 糸が切れ、かくんと崩れたかと思うと、ソーマはその場に倒れ込んだ。



 もう自粛の必要は無い。ケントは矢の如くソーマの元に駆けつけ、ぐったりしたその身体を抱き起こすと口元にそっと水の入った瓶を傾けた。



「お疲れ様です、ソーマ様」



 水を貪るように飲んだ後、ソーマは荒い呼吸の合間にケントの名を呼び、興奮冷めやらぬ子どものような顔を向ける。そして心から愉快そうに笑った。



「あは、アハハハハハ! 素晴らしい! なんて素晴らしい戦いだったのでしょう! もう本当に死ぬかと思いました……あなたが教えてくれたあの呪文、すごいですよ、身体が自動で動いて、自分では到底出せないような威力の一撃が……」



「ご所望とあらば、まだいくつかお教えできる合い言葉はございますが」



 まくし立てるソーマをあやしつけるようにしてケントは微笑む。



 ソーマと会話している。更に自分を賞賛してくれている。ケントはそれだけで何もいらないと思えるほどの幸福を覚えるのだ。



「それは本当ですか! 私、色んな必殺技を使ってみたいです!」



 スキルを必殺技とのたまうソーマは子どもそのものだ。



 彼は口調こそ大人びているものの、中身はあまりに幼い。生まれて初めて遊ぶゲームというものにどっぷりハマってしまい、そして本当の命のかかった所謂デスゲームに、それ以上に魅了されてしまった。



 この世界で生きることそのものが、彼にとっては、ただ楽しくゲームをプレイしているだけのつもりなのだろう。



「しかし……また次の機会にしましょうか。これからバットマンさんと少し話があります」



 その言葉に、ケントの笑みが消える。



「あの薄気味悪い奴ですか……。当の本人はハルカちゃんの方に付きっきりで、最近はほとんど姿も見てませんけど」



 この城は二棟に分かれており、片方はベテルギウスが、もう片方はザガンが使っている。とてつもなく広大なこの城では、棟の違うザガンのメンバーと顔を合わせることなど滅多に無い。



 ザガン側が身柄を預かっているハルカという少女に何か用があるとかで、バットマンは彼女がここに来てからというものあちら側の棟に入り浸っている。



「ハルカさん、と言えばバットマンさんが連れてくるように依頼した女の子のことですよね。私も一度見てみたいものです。それに、セツナ君とやらもね」



 ベテルギウス──つまり自身のことを激烈に恨み、殺そうと息巻いている少年、セツナに、ソーマは興味を持っている様子なのだ。あんな取るに足らないやつになぜ、という思いが、すんでの所で言葉になりかけた。



「……あいつはソーマ様が期待するような奴じゃありませんよ」



 表現を変えて零すと、疲弊したソーマは愉快げに笑った。



「面白いことを言うんですね、バットマンの洗脳は聞いた以上にえげつないようだ。彼をどれだけ評価していたかも、今では忘れてしまったと」



「……事実を言ったまでですが?」



 まあいいです、と苦笑気味に笑って立ち上がったソーマに、釈然としないままケントも付き添う。



「──やあ、ベテルギウスのソーマさん。素敵な戦闘でしたね」



 それは、唐突に、背後から。機械で声を変えたような、鈍く紗のかかったような声だった。



 こんな非人間的な声の持ち主はケントの知る限り一人しかいない。舌打ちしそうなのを堪えて振り返ると、予想通りその人物の姿があった。



「やあ、バットマンさん! わざわざそちらからいらしてくれるとは! 今回は最高の敵をご用意してくださって本当に」



「礼には及びません。既存のアノンに僕なりのアレンジを加えてステータスを伸ばしただけのこと、大した仕事はしておりません」



 機械の声の主は、黒い生地に青い昇り龍の刺繍が豪胆にあしらわれた艶やかなローブを身に纏っていた。あれはザガンのメンバーが全員身につけているものである。



「いつ見ても不気味な面だな、あんた。ソーマ様の御前だぞ、フードくらい取ったらどうなんだ」



 ケントが突っかかる。ソーマが軽く諫めるが、この男は言葉通り、不気味さを体現したような見た目をしている。



 ローブに付いたフードを被っているのだが、特別深く被っているわけでもないのに──顔が見えないのだ。



 顔のあるはずの空間が、漆黒の闇で染められている。声はその空間から確かに聞こえてくるし、ローブの長い袖からは案外と綺麗な白い手が覗いているのだが、これではローブだけが一人歩きをしているように見えてならない。



 システム管理権限を掌握しているこの男のことだから、何かプレイヤーの視覚に訴えるコードをその範囲に適応させているのだとケントは予測している。バットマンの名が定着する前は、《カオナシ》、《ゴースト》などと密やかに呼ばれていた。



「ところでバットマンさん。その、立て続けに恐縮なのですが……さっきの敵を、もっと強くリデザインすることはできないでしょうか?」



 ソーマの言葉にケントは目をひん剥いた。この男は、あれほどの怪物を単騎で撃破しておきながら、まだ物足りないと言うのだ。



 バットマンの無いはずの顔が、ドン引きという感じに引きつったように思えた。続いて引き笑いの声が空洞のフードから聞こえてくる。



「勘弁してくださいよ。弱い者を強くするのと、強い者を更に強くするの、どちらが難しいかを理解していただきたい」



「初期のアノンを弱いって言っちまうとは、あんたも相当ぶっ飛んでやがんなぁ」



 何時の間にか隣に来ていたカイジに、ケントも同意だ。初期のアノンなら、自分でも単独で撃破してみせる──とは、言い切れない自分がいるのだった。



 ケントのレベルは101。ソーマが初期アノンを屠ったレベルと同等である。オリジナルスキル【ペイン・クリムゾン】を発動すれば更なる身体強化も望める。



 だが、それでも勝てるという確信は得られない。スキルの使い方さえ知らないソーマを、しかも過去の彼を、それでもケントは超えられない。



「そうですか……残念です」



「強敵なら、きっとすぐに向こうの方から現れるでしょう。何せ貴方はこの世界をぶっ壊した極悪ギルドの親玉、シナリオ上最凶最悪の悪役ヒール。言わばラスボスだ。そんな貴方がこの城の玉座でふんぞり返っていたのなら、そりゃあ来るでしょう? ──正義の主人公ヒーローってやつが」



 機械の声で、バットマンは嗤う。何が可笑しいのかケントには分からない。



「アルカディアのことか?」



 ケントの言葉に、バットマンは答えない。



「……それとも、セツナのことか?」



 やはり答えなかったが、バットマンは愉快げに笑った。ケントはやはり気に入らない。



「あんなやつ、俺にだって殺せる」



「ほう? けれど彼は死んでない。君は殺す気だったんだろう?」



 何もかも見抜くような空洞に睨まれ、ケントは舌を打った。生かして連れてこいと命じたソーマの前で、それはバラされたくないことなのだった。あの時その場にいなかったこの男が何故それを知っているのかは、この際置いておく。



「おや。バットマンさんも、あの少年に何かを期待しているみたいですね」



 ソーマが奇遇だとばかりに手を合わせた。信じられないほどに、無害な笑顔。バッドマンはそれには答えなかった。代わりにケントに向き直る。



「そう言えばきちんとお礼を言ってなかった。ケント君、ハルカを傷一つ付けずに連れ帰るという任を見事こなしてくれて感謝する」



「嫌みは勘弁してくれないか。俺はお前の頼み事なんて二の次で、ソーマ様の命令の方を……」



 思い出しただけで屈辱が揺り戻ってくる。セツナ一人連れ帰るというだけの簡単な任務を、ケントは失敗したのだ。



 ハルカとかいう女の、不思議な力によって。



「コウモリ男……お前がご執心のハルカは、いったい何者だ?」



 バットマンは肩をすくめて空洞の奥でため息を吐いた。



「さあ、どうだろう。絶世の美少女って説明じゃ足りないかい?」



「ロリコン野郎が……」



「あっはっは、否定はできない」



 機械の声で笑うと、バットマンは背を向けた。



「それでは失礼しますよソーマさん。ケント君。ちょっと彼女に会ってくる」



「待て」



 転移玉を用いない、GMコードによる転移をさせる前に、ケントはその背中を呼び止めた。



「ザガンとベテルギウス、全く異なる目的を持つ二つの集団を接触させ、同盟を結ばせてまでお前はこの世界の仕組みを書き換えた。だよね」



「そうだけど、どうかしたのかな?」



「気になったんだよ。バットマン──お前の目的はじゃあなんなんだ、って」



 バットマンは笑った。身の毛も弥立つような高笑いだった。



「今は知らない方がいい。でないと、生きていることが馬鹿馬鹿しくなってしまうよ?」



 意味深な台詞を置き残して、コウモリ男は闇に溶けた。

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