ヒロキ
「うわぁっ!?」
男の悲鳴を接続が完了した聴覚が拾った。光が収まったところで視線を彷徨わせると、目の前で一人の男性が腰を抜かしている。
頭に白いタオルを巻いた、なんというか冴えない青年。顎にはそり残したような無精ひげがぽつぽつと中途半端に散見している。
唯一目を引くのはタオルからはみ出した髪の毛の色だ。黄緑というか、明るめのグリーン。タオルでほとんどを覆い隠せる程度の短髪だ。垂れた眉毛は同色で、丸くなった瞳は茶褐色。
「来ちゃった」
俺の肩を組んだままのアンナは、ハートマークが付きそうな口調でそう言った。笑顔だが、目が笑っていない。怖すぎる。
フレンドのアイコンをタップして転移すれば、その者のすぐ傍に移動することは確かにできる。先ほどベテルギウスの増援がケントの真後ろというピンポイントに出現したのはそういうからくりだ。
だが、まさか一度顔を合わせただけのような男の目の前に瞬間移動するなんて、アンナの行動力には本当に恐れ入る。
ここは彼の自宅のようだった。落ち着いた配色の家具が無難に配置されたリビング。家主は椅子に腰掛けていたところをひっくり返ったようで、なんとも間抜けな顔を俺とアンナ交互に向けて見上げていた。
「家に転移してくるなんて……とんでもないお嬢さんだな」
「お陰で覚えられたでしょう? 私の名前」
「ああ……たぶん一生忘れない」
皮肉っぽく苦笑してから青年は体を起こした。ライムグリーンのツナギ姿だが、胸にはコーヒーのような茶色いシミが立派な地図を描いている。床にマグカップが転がっているところを見ると驚いてひっくり返してしまったらしい。これは悪いことをした。
「お願いです」
ようやく俺から離れたかと思うと、アンナはいきなり頭を下げた。見下ろした横顔は、どこまでも真剣だった。
「大切な人を助けたいの。力を貸してください、お願いします」
俺は慌てて彼女に倣った。
「お願いします。親父に……シンジに会わせてください」
年は恐らく三十手前と言ったところの青年、ヒロキは、俺の言葉に息を呑んだ。数秒の沈黙の後、柔らかい声が俺の下げた頭の上から降り注いだ。
「セツナ君……か。その名はアルカディアの人間なら知らない方がおかしい。これまで本当によく頑張ったね」
冷ややかな人間だとばかり思っていたが、それは間違いだった。俺の境遇全てを心得ているかのような温かい言葉に、涙腺が緩みかける。
「本当に……立派になったよ。僕にとって、君はシンジさんが最後に見せてくれた六年前の写真の姿で止まっていたから。シンジさんに会うために、良い仲間にも恵まれて、僕のところまでこうして来てくれたことが本当に嬉しい」
ヒロキは涙を引っ込めようやく顔を上げた俺に慈しみ深い眼差しを向け、ついでアンナにそれを移した。
「さっきは失礼なことを言ってごめん。ちょっと最近色んなことが行き詰まっててイライラしてて……女の子の相手なんてしてる場合じゃ無いって思っちゃってさ」
顔を上げたアンナに、ヒロキは素敵な大人の笑顔を見せた。
「セツナ君のために頭を下げてくれてありがとう。君みたいな子なら、シンジさんもきっと安心だ」
「い、いえ、私とセツナは別にそういうんじゃ……!」
ぶんぶん手を振って誤解を解くアンナ。俺は単刀直入に聞いた。
「父に会わせてもらえますか」
「勿論だ。彼は意地っ張りだからなんだかんだ言うと思うけど、きっと会いたがっているから。シンジさん、ものすごく根詰めてるからクールダウンが必要だと思ってたところでね。そうだ、今からここに呼ぼうっと」
悪戯を思いついたような顔をしてヒロキは虚空に指を走らせた。拍子抜けするほどスピーディーにことが進んでいることに肩すかしを食らった気分だったが、俺は同時に凄まじく緊張し始めた。
何しろ会うのは久しぶりだ。最後に会ったときもほとんど会話を交わせなかったし、会話の仕方も忘れていたような有様だった。
頭が真っ白になった。唯一の肉親に言う予定だったこと全てが吹っ飛んだ。何を伝えたかったのかまったく思い出せない。
そんな俺の思いを知ってか知らずか、ヒロキは悪戯っ子の笑みをより明るくさせる。果たして、ヒロキの指の動きが止まった。
室内を奇妙な緊張感と共に流れる、一定のリズムのコール音。心の準備が完了しないまま、たった2コールで応答された。
『おうヒロキ、どうした?』
紛れもなく父の声であった。胸が一際大きく高鳴る。懐かしい──失われた掛け替えのない日常の一欠片が蘇るような、懐かしい声だった。
顔を合わせていなくても、父を含めた4人家族が俺達の日常だったのだ。
「お疲れ様ですシンジさん。どうです例の秘密兵器の方は? 順調ですか?」
『俺を誰だと思ってる。完成までもう間もなくだ』
傲岸不遜な態度も相変わらず。緊張の中、思わず口角が緩むのを覚える。ヒロキは含み笑いを浮かべながら言った。
「それは安心しました。で? 僕にぐらい本当のところを教えてくれてもいいんじゃないですか?」
コール画面の向こう側で小さく悔しそうな唸り声が聞こえた。
『……進行度はさば読んでも二割ってところだ。世界一の盾を貫く矛を創ろうってんだ、楽じゃないとは思っていたが……用意しなきゃならない命令式が多すぎるぜ』
その答えにヒロキの笑みが引きつり、沈痛な表情になる。話しについていけないが、どうにも父の仕事の進み具合が芳しくない様子だ。
「シンジさんでも一ヶ月以上かけて二割……僕に、力になれることがあれば良いんですけど」
『言うな、人にはそれぞれ適正ってもんがある。凶暴化したモンスターに、悪意剥き出しのリポップシステム、お前が直さなきゃいけねえヤマはたくさんあるんだぞ。信頼してるからな、頼んだ』
父の力強い言葉に、俺は紛れもないリーダーの器を見た。
「……はい! シンジさんの最高傑作の完成が待ちきれませんね」
『任せとけよ。さっき丁度、ディザイアジェネレーターをいじれば二四時間ぶっ通しで動けるんじゃねえかと思いついたんだ。理論的には可能だろ?』
「そんな……頼みますから馬鹿なマネはやめてください」
目を剥いて反駁するヒロキとそれをあしらうシンジのやりとりは、アルカディアのとんでもない多忙さを俺に十分すぎるほど教えていた。
《ディザイアジェネレーター》とはその名の通り、欲求発生装置のことだ。実際は物質的な機械の形をしているわけでは無いが、便宜上そう呼ばれる。
アルカディアシステムの一角を担うこの機関は、ユートピアに接続されているプレイヤー全てを常時監視し、感情パラメータの増減などを参考に、適切な欲求を適切量、プレイヤーに適宜与えていく。
この世界でデータの食べ物を口にすると満腹感を覚えるのは、まさにこの装置が食欲を絶妙な匙加減で調節していくからだ。
発生装置というより調節装置に近いこのシステムは、操作権限を未だアルカディアが確保しているというのは今の話を聞けば分かった。
あの日ザガンとベテルギウスが運営本部をジャックしたのは時間にすれば数十分程度。表向きはアルカディアが撃退する、という形で襲撃は終わった。
あの短時間で先方の頭脳労働担当者が手中にできたシステムには当然限りがある。人の欲望を好き勝手に操作してしまえるこのシステムが奴らの手に落ちなかったのは僥倖以外の何ものでもあるまい。
そしてシンジは、このシステムをいじって自分の睡眠欲と食欲を無理矢理ゼロに設定し、不眠不休飲まず食わずで働くというぶっ飛んだアイデアを提示したわけだ。
有り得ない。不可能だ。欲求は本来身体の異常を知らせるサインで、眠気を感じたなら全身が睡眠を求めていて、腹が減ったなら身体はエネルギーを欲しがっている、ということなのだ。
それを完全にインタラプトすることは、痛みを感じないゾンビと何ら変わらない。足が折れても走り続けるゾンビはやがてワケも分からず立てなくなるのだ。
睡眠欲を消したところで、寝なくて良いことには全くならない。眠くなくなるだけで、三日も続ければ強烈な頭痛に悩まされるだろう。
痛覚再現装置、ペインジェネレーターはザガンの手中にあるから、その激烈な痛みは誤魔化しようがない。
だが、そんなことが俺に分かって父に分からないはずもなく。
『自分の身体は自分が一番分かってんだからよ、心配すんな』
と、コール越しに届いてきたのはそんなどうしようもない、親父らしい有無を言わさぬ返答だった。
ヒロキも、父のそんな性格は十分心得ているとばかりに、諦め半分の苦笑を浮かべた。
「天才も大馬鹿も紙一重だな。シンジさん、そんなあなたに会わせたい人がいるんですけど」
『あん、俺に? 珍しいな。とうとう嫁候補でも見つけたか?』
「そんなんじゃないですって」
笑ってあしらったヒロキはちらりと俺に目配せした。ついに来た、と緊張で心臓が跳ねる。
ヒロキはコール画面のオプションを操作して、周囲の音もコールシステムが拾うように設定したようだった。これで俺やアンナの声も、遠くから微かに聞こえてくる獰猛な獣の唸り声もシンジに届く。
「きっとびっくりしますよ。ほら、もっとこっちよって」
手招きするヒロキに対してなかなか一歩が出ずにいると、後ろからそっと、アンナが背中を押してくれた。
アンナと目が合う。彼女はゆっくり頷いた。それに励まされるように、俺は勇気を出してヒロキの傍らに歩み寄る。
浮遊するディスプレイには通話中を示す、駆け抜ける電波をイメージしたような光の演出と、通話相手である『Shinji』の文字。 この向こうで、父が不思議そうに、じっと、俺の第一声を待っている気配が伝わってくる。
「……親父」
思えば父のことを、彼に向けてこう呼んだ経験は今までほとんど無かったのではないか。そもそも、父のことを呼んだことが、人生でいったい何度あっただろう。
そう思えるほどに新鮮な気分だった。
『セツナ……? お前、そこにいるのか?』
父の反応は、何故だ、という無言の詰問だった。俺は一度唇を噛み、俯き、そして顔を上げた。
「話したいことがある。今から会えないか」
『……分かった。すぐに行くから待っていろ』
ヒロキは俺達の会話の雰囲気が予想と大分違ったのだろう、困惑した様子で俺の沈んだ顔を見つめていたが、シンジの方から通話が切断されると空気を入れ換えるように大きな声を出した。
「さ、さあ! 二人だけで話す方がいいだろうし、僕達はちょっと席を外そうか!」
その言葉にアンナも胸が痛むような元気の良さで返事をした。
「ねえヒロキさん、私ドラゴン乗りたい! さっきから聞こえてくるあれドラゴンの鳴き声でしょ? いこいこ!」
アンナはヒロキの手を引っ張って部屋から出て行った。アンナの優しさに救われる思いで、俺はソファに身体を預けた。




