初陣
俺はシュンが進んだ小道の左側、鬱蒼と茂る森林地帯に足を踏み入れた。俺が寄りかかっていた木はその入り口に立っていたものだ。
まっすぐ進む小道が、メインストーリーを進める上で通るルートだりその左側に茂る森からは時たまモンスターが飛び出してくるわけで、右側には小川が流れている。
しかしマップを開けば、この森は意外と奥深くまでフィールド認定されている。つまり、単なる景観、及びモンスターのリポップスポットに留まらないということ。
未踏破領域のためかマップは白いモヤがかかった状態だが、進めることは確かだ。六年前の記憶によれば、この森は《死の森》といって、正規のルートより一回りレベルの高いモンスターが出現する、序盤のレベル上げで最も効率のいいスポットだったはずだ。
その分ゲームオーバーのリスクも当然高まるが、調べた限りデスペナルティは看過できる程度のものだ。
HPがゼロになれば、俺の身体は宿屋や自宅のベッドなどの最終チェックポイントに戻され、再び目を覚ます。その際所持金が半分没収され、所持アイテムからランダムで一つが失われる。
所持金半分もアイテム没収も、とりわけ序盤の序盤である今なら痛くも痒くもない。それにさっき猿の鋭利な爪による大振り切り裂き攻撃を受けたが、文字通り痛くも痒くもなかった。
鈍い衝撃が身体の内側で弾けるような不快感はあるが、痛覚は、取り分けモンスターの攻撃による痛覚は鈍く設定されているようである。ここまで分かってしまえばいくら俺でも強気になる。
というわけでこの深い森に足を踏み入れたわけだが、一分ほど歩いた今激しく後悔していた。
とにかく暗い。不気味。怖い。帰りたい。
幸い、マップが狂うなんてイレギュラー要素は無く、迷子になる心配は無用そうだ。
俺は歩きながら、薄暗い周囲に目を凝らし続けた。夥しい量のヘビやら蜘蛛やらの形をしたモンスターが俺に油断のない視線を送っている。
しかし俺は心配無用でそのすぐ側をくぐり抜ける。襲われる心配がないからだ。
基本的にモンスターは攻撃を受けて始めてアクティブ化する。つまり、こちらから仕掛けない限り襲ってこない。
見た目の恐ろしさに過剰に恐怖してなまじ手を出すと一気に周囲のモンスターがアクティブになって袋だたきに遭う。こんな風にたくさんのモンスターに囲まれている時は、手を出さないで通り抜けるのが利口だ。
そんなわけでモンスターが少ない地点を探して歩き回っているのだが……おかしいな。
「全然モンスターが減らないぞ……」
むしろ、どんどん暗くなる周囲に俺も平常心ではいられなくなってきた。次々と送られてくるシュンの稼いだ経験値だけが孤独を忘れさせてくれる。あいつ、一人で何体狩ってるんだ。素手で猿の集団を殴り飛ばしている絵が、容易に浮かぶ。
──と、唐突にモンスターの気配が消えた。
三百六十度、気づけばモンスターが一匹も見当たらない。これはチャンスだ。
はぐれモンスターを見つけて狩ろう。狩りのテクも大分勉強したし、多少強くても何とかなるだろう。負けたって構わない、挑戦が大事だ。
俺は目を凝らした。果たして、三時の方向、少しばかり木の本数が減っている空間に大きな影があるのを発見した。
デカい。
距離は十五メートルほど。目算で二メートルを超える巨体だ。流石に分が悪い。恐らくフィールドボスか何かだ。別のを探すべき。
そうは思っても、俺はその余りの存在感に目が離せなかった。ずんぐりとした体躯は熊のようで、しかし立派な角のようなシルエットを見ると鬼のようだとも形容できる。
恐怖とは別の感情が俺の胸に去来した。それは恐らく、興奮と名のつく感情だろうと思う。
その、現実世界では決して拝めなかった異形の怪物を、もっと間近で見たくなった。
俺は突如、まるで俺が最初からこの世界で生まれ、今日まで狩りをして生きてきたかのような錯覚に囚われた。いやむしろ、この世界が俺の迷い込んだ異世界であるかのような。
俺は勇者で、あれはこの世界の存在。そう思うと、もっと近くで見たい、という抗い難い衝動に駆られて、俺はしれず一歩を踏み出していた。
長いことそいつを視界に捉えていたため、巨体のモンスターに《タブ》が付いた。モンスターの頭上にダメージを与えていないのにHPゲージが現れ、輪郭が緑色に浮き上がる。
これは一種のマーキング的なシステムだ。一定時間視界に捉え続けると自動的に発動し、マップ上にその現在地が表記されるようになる。カーソルの色はアクティブ状態か否かを表しているらしい。
暗い故シルエットのみだったモンスターの後ろ姿が、途端に鮮明になる。それは後ろから見る限り、鹿のような角を生やした、若葉色の毛並みの熊、といった印象だった。
一般的な熊より横に太く、脚は短いが丸太のように太い。ダランと垂れた両腕も同様に太く、俺のナイフを上回る長さの爪が五本も生え揃った手。のそりのそりと、ゆっくり俺から遠ざかるように歩いている。二足歩行だ。PC版で、あんなのを見た記憶はない。
こちらから仕掛けなければ大丈夫。ちょっと近くで見るだけ。それはそうなのだが、俺はもしかしたら最初から、その巨大モンスターと戦う腹積もりができていたのかもしれない。
パキッ──踏みしめた木の枝が鳴らした音は不気味なほど森に響き、静寂を切り裂く。巨体がこちらを振り向いた、次の瞬間。
輪郭を縁取っていた光が、グリーンからレッドに変わった。直後、巨体が吠えた。
低く、猛々しい咆哮だった。まるで獅子のそれだった。俺は数瞬、萎縮され完全に身体の自由を奪われた。
プレイヤーを視界に捉えた瞬間にアクティブ化するのは、ボス級の種だけだ。
若葉色の毛並みを逆立たせ、熊型モンスターは四足歩行に切り替えて俺に突進した。あんなに勉強もイメトレもしたのに、その威圧感に全身が金縛りに遭う。
俺はもろにその攻撃をくらった。鈍い衝撃と共に激しく吹き飛ばされ、どこが上でどこが下かも一瞬分からなくなる。
木の幹にぶつかって停止した俺はむせ込みながら立ち上がり、すぐさま奴を探した。視界から消えたモンスターもタブを付けていれば、距離が一定以内ならタブの色に光る矢印が俺の視界に現れる。
左。視界左端にレッドに光る三角形が、頂点を左側に向けて点滅していた。弾かれたように振り返ると、赤い輪郭に包まれた化け物がもう二メートルにまで迫っていた。
「い──!」
心臓を殴られたような衝撃だった。バクバク煩い鼓動を抑えつけて真横に飛び込んだ直後、鋭利な爪が俺の残像を切り裂いた。俺のいた地点を滑る巨体。
チャンス。これはモンスターの攻撃パターンに必ず用意されている隙。とりわけ突進攻撃の後は、長く大きな隙があるのが常套だった。
俺は素早く立ち上がり、恐怖を振り払って巨大モンスターに突撃した。モンスターは案の定、腹から着地して呻いている所だった。
俺は柔らかいモンスターの背中に飛び乗り、後頭部部分に腰から抜いたナイフを突き立てた。命の危険を感じていたからか、驚くほど躊躇いなく。
悲鳴を上げるモンスターの頭上に浮かぶHPゲージがなんと二割ほども減少する。傷口から飛び散るのは流石に血液ではなく、赤色の粒子と表現できるダメージエフェクト。やはりセオリー通り、頭部がこいつの弱点のようだ。
攻撃箇所によってダメージ倍率が変動することを俺は既に学んできた。先程猿を倒すのに手こずったのは俺が当たり障りのない腹を刺したからで、シュンの上段蹴りは頭にヒットしたからこそ威力が高かったわけだ。
また、装備している武器自体の攻撃力は装備者のステータスに暫定的に加算されるため、大剣を背負ったシュンの上段蹴りは一時的に攻撃力を増した状態にあった、という要因も大きい。
更に、ダメージ総量を決定する演算にはまだまだ細かい要素が含まれている。
まず、当然だが俺自身の攻撃力の高さ。これは現実の筋力を参考に初期値が決定され、レベルが上がるにつれ上昇していく。
次に、武器の攻撃力。これは武器が同じならば一定だが、武器タイプの熟練度を上げていくことで結果的に上昇していく仕様のようだ。熟練度は同じ武器タイプを使い続ければ上がっていくらしい。
まだある。攻撃がヒットした際の速度と、傷の深さ。更に予期せぬ攻撃を与えた場合はクリティカルヒットボーナスなんてシステムもある。
だから俺は、全体重を乗せた一撃を最高の速度で、背後からお見舞いした。それが最も、大きなダメージを与えられる最適解だと計算して。
結果、一撃で二割も削ることに成功した。俺の脆弱な攻撃力で、こんなボス級相手に。それはこれが現実の狩猟ではなく規定されたルールの上に成り立つゲームであるからだ。
俺は素早く離脱し、すぐさま木の幹の影に隠れた。立ち上がった熊はいきり立ち、口から白い噴煙じみたエフェクトを吐き出し始めた。
《怒り状態》。大ダメージを一度に与えると発動する、状態異常の一種だ。
動きの速さと攻撃力が大幅に上がる反動で、防御力が大きく下がる。ピンチだが、チャンスでもある。
俺を見つけた熊が、一つ吠えて再び突進した。先程の倍近い速度だが、この地形を巧く利用すれば避けられないほどでもない。
幹の周りをくるりと半周することで難なく突進を躱した。見た目こそ凶悪で恐ろしいが攻撃は大振りで単調、冷静に見ればそれほど驚異でもない。
ただ、努めて気にしないようにしていたが攻撃力はふざけたレベルだ。今、俺の脳内ではピコンピコンと電子音が鳴り続けていて、視界の端に表示されたHPバーは残り一割を残して黒く染まっている。残った部分は常のグリーンでは無く赤色で、ようするに死の一歩手前、ということ。
一撃でもかすればアウト。事実、こんな巨体の攻撃を一度受けてなお立っている現状の方が驚きなのだ。
これがデジタルデータの統治する世界での戦闘。ライフが残存していれば生き、損失すれば死ぬ。中間の無いシンプルな構造だ。
しかし俺はヒットアンドアウェイを繰り返して少しずつ敵のライフを削っていくにつれ、そんな野暮な思考から少しずつ遠ざかっていった。
脳神経の働きが加速し、余計な思考がどんどん排除されていく。今、俺は、確かに命のやりとりをしているのだ。そんな実感を疑いようもなく抱いた。
最近ではすっかり幽霊部員と化してしまっていたが、俺にもキラキラした夢に向かって我武者羅に部活動に励んでいた時期があった。身体を動かすこと自体は、良く思い出せば嫌いではなかった。
俺はバレー部で、リベロを任されていた。というより、背丈の問題でそこ以外に選択肢がなかっただけなのだが。
俺は、リベロというポジションが決して嫌いではなかったスパイクの爽快感など味わえるべくもないが、リベロは守備の要で、チームの要だ。
一、二の、三で敵の攻撃が来る。敵陣のボールが一度、二度と宙を舞うたび、俺の中で何かが、ぐん、ぐんとたぎっていく。そして、「来る!」という瞬間に、頭から足の指先まで全身に力がピンと張り詰めて、打ち出されたボールの描く軌跡の先へ本能的に一歩が出る。
あの瞬間、あの刹那の集中状態が、永続的に繰り返されるのが今だ。更に言えば、相手のマッチポイント、一本でも取られればゲームセットの状況。
全神経が目に集中され、最上のスリルと興奮が息がかかるほどの至近距離に張り付いて、それでも、まだ、負けてない。
ボールを落とさない限り負けない。今、ひたすらに攻撃を躱し続けているこの状況とあまりにダブる。あの興奮が何倍にも増して蘇ってくるようだ。
咆哮が轟き、俺の動きをAIがとうとう学習したのかモンスターの攻撃のモーションが微妙に変化した。これまでよりやや突き気味に振るわれた爪がついに俺の肩口を掠めた刹那、俺はここが仮想世界であることを忘れた。
傷は浅い。掠っただけだ。俺はもう、HPバーを確認することさえ忘れていた。恐らくその存在さえも。
比喩でない死の可能性さえ、この時俺の脳にはしかと過ぎっていた。そして救えないことに、それでも俺は「負けるわけにはいかない」と思った。
俺がハンターで、こいつがモンスターである限り。俺は完全にこの世界の住人だった。
「おぉぉォォァアッ!!!」
逆側から迫り来る第二波をかいくぐり勢いそのままに跳躍すると、俺はあらん限りの力で握りしめた得物を、敵の毛深い下あごに隠れた柔らかい首に突き立てた。かつてない量のダメージエフェクトが蜂の巣をつついたみたいに溢れ出て、眩い光が俺の視界を奪う。
聞き馴染んだ咆哮とは違う、悲壮と憎悪を孕んだ大熊の断末魔が鼓膜を震わした。
永遠にも思える一瞬の後、ナイフの柄に伝わる手応えがふっと軽くなった。同時、精緻なガラス細工をハンマーで粉々に砕いたかのような、爽快なサウンドエフェクトが森一帯に響き渡った。
半分寄りかかっていた熊の柔らかい腹も消失し、俺はそのまま前のめりに倒れ込んだ。意識が暗転しそうなのをこらえ辛うじて両手で受け身をとり、ごろんと仰向けに寝転がる。
「……ははっ」
壮観だった。
林に丸く切り取られた空は、すっかり薄暗くなりつつあった。雪のように降る、熊型モンスターを形作っていたポリゴンの粒子の隙間から、教科書や動画でしか見たことのなかった星空が見える。
勝利の達成感と爽快感の余韻と、サウンドエフェクトの残響が奇妙にシンクロして、俺は酒に酔ったような温い心地良さに包まれていた。脳内ではレベルアップを告げるファンファーレが鳴り響き、消えた。
間もなく目の前に、薄いグリーンのパネルが展開した。そのシステムメッセージには、獲得した経験値の恐るべき量と、ドロップアイテムとおぼしき名称がいくつか並んだリスト、そして、俺のレベルがいきなり四も上がったという仰天の事実が記されていた。
一人用RPGならともかく、限られたリソースの奪い合いが常識のMMOというジャンルにおいてあまりに破格な経験値だ。
俺が倒したのは、余程高ランクのモンスターだったらしかった。