襲撃
転移によるシステム的座標移動に伴い、プレイヤーの五感は一時的にシャットされる。正確には少しの間システムがプレイヤー本体の脳に与える情報の供給を止めるのだ。
極寒地域から灼熱地帯への転移、また暗い場所から明るい場所への転移などによって急激に感覚情報が切り替わると、プレイヤーの脳や身体に深刻な影響を及ぼす可能性があるかららしい。
時間的には数秒もないのだが、その間俺は青い光の中で、温度も音も匂いも消えた不思議な世界に立つことになる。暗闇でないのは救いとも言える配慮だ。
最初に感覚が復活するのは嗅覚だ。制限された情報量が徐々に増やされて、負担のかからないペースで感覚が戻っていく。
──異変を感じたのは、丁度、嗅覚が半ばほど戻った頃だった。転移の詠唱から数秒後のことである。
懐かしい、木と果物の香り。夏の色を以前より強くさせたその香りに混じって俺の鼻孔に届いたのは、煙の臭いだった。
続いて聴覚が遅々として復活する。軽やかなBGMでも流れてきそうなのどかな街だったはずのセントタウンで、響くはずのない凄惨な音が鼓膜を震わす。
重いものが立て続けに崩れ落ちるような、地響きと轟音。木がメキメキとへし折れる音も聞こえる。そしてそれに混じって微かに届くのは──人の、悲鳴……?
「…………は……?」
そして、転移の光が薄れ、俺は街の有様をこの目で見た。
街の入り口。フィールドへと続く門を背に立った俺の目の前にあるセントタウンは、かつてのそれではまったくなかった。
各地で上がる、火の手と人の金切り声。悲鳴、怒号、咆哮。粉塵にまみれた街は赤を帯びた灰色だった。
眼前に伸びる馴染みの露店街は見る影もなくなぎ倒され、奥に聳える噴水だけが健在だ。その更に奥、つまり街の南端に位置する居住区の様子は噴水に遮られて見えないが──
「母さん……? ケント……?」
全身の細胞が鳴らす警笛に前髪を引っ張られるように、俺の足は居住区へと向けられた。出せうる最高速度で我が家を目指す。
街を疾走する間にも、悲鳴と崩壊音は各地で上がり続けた。疑いようも無く、今この街には招かれざる客がいる。それも複数。
俺はメルティオールがザガンの襲撃を受けたという話を思い出していた。平和な街をこんなにする存在が誰なのか、俺はザガン以外の答えをどうしても見つけられない。
「なんでだ……なんで大人しくしてられないんだお前らは……ッ!」
まるで俺の復讐心を維持促進させるかのようなタイミングではないか。ハルカのためにこの心は封印すると決めたのに、なんでだ。
こんなことされて、それでも俺に黙って指をくわえていろと言うのか。
歯を砕けるほどに噛み締め、俺は眼前に迫った噴水を飛び越えた。【二段ジャンプ】を使っての大ジャンプ。
大きく広がった視界が映し出したのは紛れもない地獄絵図だった。あそこも、あそこも、あそこも。懐かしむべき場所が全て滅茶苦茶に破壊されている。
俺が再び地面に足を着けるまでに、うずくまる女性や家屋の下敷きになった男性など複数の人影を確認したが、ザガンのシルエットは見当たらなかった。
後で駆けつけるからと心の中で呟いて、俺は着地と同時にダッシュを再開した。真っ先に確認したいのは我が家の、母とケントの安否だった。
かつて毎日のように走った馴染み深いはずの家路が、俺の幸福な記憶を嘲笑混じりに否定する。もうここは、俺の知る故郷では全くないのだ。あの日ゲイルと対峙した細道を歯を食いしばって駆け抜けながらその実感を噛み殺す。
どうしてセントタウンがこんな時に、俺は何百キロも離れた極寒の地で呑気にマイホームを買う算段をつけていたのだ。
ザガンを追うためにこの街を出たというのに、今ザガンはこの街にいるではないか。
ついに居住区へ差し掛かった。全壊、半壊の家屋の群れが炎に包まれ悲鳴を上げている。俺は果てしなく狼狽した。母が暮らす家は、坂を上った先にある。
俺は情けないほど呼吸を荒くして、ほとんど飛んでいるに等しい速度で残りの距離を走り抜け、そして坂を飛び越えるようにして我が家に辿り着いた。生まれたのは、絶句と自我の崩壊だった。
「…………俺の、家……」
立ち尽くす俺の眼前で。帰る場所だったはずの我が家は木片の束へと慣れ果て、業火に包まれて横たわっていた。瞳孔が、あの日と同じようにひん剥かれていく。
「あ……あぁ……!」
斜めに歪んだ太い柱が、メキメキと凄惨な音を立てて崩れ落ちた。火の粉が俺を責め立てるようにぶわっと舞った。
あそこが玄関。上がってすぐそこが食堂で、それならあそこがダイニングキッチンだろうか。紅蓮の炎に包まれた我が家の健常な姿を、必死で頭の中で形作ろうと試みる。
半壊していた壁がボロボロと倒壊し、申し訳程度だった屋根がゆっくりと崩れて、俺の前でとうとう我が家が死んだ。目の眩むような閃光を伴って、炎を纏った生家の残骸が粉々に砕け散った。
アバターで言えば数十体分の、光る粒子の雨が静かになった居住区に降り注ぐ。周囲の家屋も続々と後を追うように耐久力をゼロにして、その実体を構成していたポリゴンの欠片となって爆散する。
人の死も、家の死も。この世界での死は非常なまでに後を濁さない。生という状態を示す一本のバーが無くなったならば、死とみなされて砕け散る。亡骸も匂いも遺さずに、何一つ無かったかのように。
俺は何事もなく広がるだだっ広い更地にただ一つ、ぼんやりと浮かぶ一つの光球を見いだした。左上腕に締めた腕輪がズキンと疼いた。
「母、さん…………?」
それこそが、死者が唯一遺すことを許されたもの。だがそこに、母がここにいたという情報は何一つ蓄積されていない。母の装備を物質化したところで、そのエプロンから彼女の香りを思い出すことは永遠にできない。それは既に、ただのエプロンというアイテムなのだ。
お前のせいだ。誰かが鋭く囁いた。
胸の奥に深々と突き立った巨大な矛のような疼痛に、抑えようもなく嗚咽が漏れたが、俺は一滴さえ涙を流すことを許されなかった。
狂ったように叫んでも、帰る場所がもうどこにも無いという事実を何度認識しようとも、どうしたって涙は出てくれなかった。
俺に泣く資格などないからなのだろう。母を殺したのは間違いなく俺なのだ。俺がひとえに、その瞬間母と一緒にいてやれなかったから。
俺は母の遺産に触れた。死んだプレイヤーのアバターが砕け散ったその場所に浮かぶ、液体と気体の中間のような材質の光球。今では《レガシー》という名で定着しつつあるものだ。
触れた途端それは紐解けるように消え、母の所持していたアイテムと通貨の全てが俺に受け継がれた。
シュンのこれに触れたとき、もう二度と見たくないと思っていたレガシーは、きっと今街中に浮かんでいるのだろう。
俺はこの胸の痛みの正体を悟った。気が狂ってしまいそうなこの痛みの正体は、贖罪の感情だ。途方も無い罪悪感なのだ。もしくは自己嫌悪に似た自傷衝動。
涙が出ないのはそういう了見だったのだ。俺は叫ぶことをやめ、のっそりと背筋を伸ばした。
降りしきる光の粒子に囲まれたセントタウンの成れの果ては、いつの間にか戦場としての喧噪を失いつつあった。人々の怒号や悲鳴は途絶え、今はどちらかと言えばすすり泣くような、悲劇の余韻に包まれている。
ザガンの脅威は終わったのだ。これから奴らは、一仕事終えたような気持ちで帰っていくのだろうか。
──逃がすわけ、ねぇだろうが。
それは最早俺では無かった。ついに本当の一人になった俺は絶望と後悔に押し潰されているはずなのに、無限とも思える力が全身に漲って勝手に体が動くのだ。
俺の周囲を取り囲むように、煙と共に総勢二十を下らない数の"俺"が現れた。【分身の術】の連発だ。
「絶対に逃がさねぇぞ……ッ!!!」
我を失うとはこのことを言うのだろうか。俺は発狂し暴走する自分を、ぼんやりと眺めていることしかできなかった。




