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リアル・プレイング・ゲーム  作者: 旭 晴人
第一章《Utopia》
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規格外

「う……ッ!!?」



 唐突の出来事に、ハルカは耳を塞ぐことは愚か受け身をとることも叶わなかった。あまつさえ全速力で獅子に向かって突撃していたハルカを、気を失いそうな衝撃が前方からガツンと殴った。



 台風の中手を離れた傘のように何バウンドもしながらごろごろ転がっていくハルカ。混濁する意識が少しばかりはっきりしたとき、ハルカは獅子から十メートルは離れたところで這いつくばっていた。



 ボス級モンスターの咆哮には稀にプレイヤーに若干の硬直時間を与える効果を持つものがあったが、これほどの広範囲攻撃を兼ねている種など寝耳に水だ。



 ダメージ自体はそれほど抜けた印象はないが、吹っ飛ばし効果も含むとは冗談は図体だけにして欲しい。がんがん響く頭を押さえて、ハルカは力の入らない両足に喝を入れて起き上がろうとする。




 垂れた頭の上で、狂喜の色を帯びた唸り声が響いた。




 反射的に顔を上げたが遅かった。既に視界いっぱいに広がる、獅子の金色の鬣。エメラルド色の二つの光点。



 こいつの突進速度を、忘れていた。



「が……ッ!!!!」



 まさしく、体中の骨が折れたと思った。少なくともそれに相応する痛みだった。



 跳躍突進攻撃をモロに受けたハルカは、あまりのダメージ量に本能が意識を閉ざそうとした。気を失って当然の痛みだったのだ。



 しかし。



 全てがシステムによって管理されるこの世界ではそうはいかない。



 《気絶》という状態異常にならない限り、いかほどの激痛を受けようとも気を失うことはできない。それが人体に──アバター体に宿るプレイヤーの意識に、どれほど深刻な影響を与えるのか。



 ハルカはそれを初めて身をもって体感していた。



 精神は完全に瓦解していた。ここがどこであるかも、自分が誰であるかも一時的にぶっ飛んで、自分の体にうまく命令ができない。指一本さえ動かせない。



 遠のく意識を、無理矢理システムに繋ぎ止められている感覚。言わば無限に続く拷問。



 憎らしいほど正常に働く聴覚が、獅子がズシンズシンと音を立てて接近していることを告げる。頬が感じるひんやりとした土の感触が、自分が今地面に伏していることを教える。



 動かせない目の端で、金色の鬣の束が見えた。目の前の地面が巨大な影で暗くなる。



 意識すれば見えるはずのHPバーはうまく確認できない。けれど生きているのが不思議なくらいのダメージだ、きっともう長くない。



 次の一撃で、ハルカは死ぬ。



 悔いだらけの人生だった。母を喪ってから、ハルカはこの世界で一度でも楽しいと感じたことがない。



 この世界を一度でも愛したことがない。この世界は嘘だらけで、信じられるものなんて何一つなかった。



 一時期二十人いた《赤い星座》も半分に縮小した。ずっと仲間だと約束したのに。



 ザガンについての情報を教えると家に招かれ、男性プレイヤーに麻痺毒入りのコーヒーを飲まされたこともある。



 肉体の乖離した空虚なコミュニケーションは、人間の悪しき部分を目覚めさせやすい。ネット上で暴れ回る小心者が後を絶たないように、オンラインRPGはあらゆる人にあらゆるロールプレイを許してしまう。



 誰もが、何かの役割を演じて生活している世界に、ハルカは真実なんて見出せない。



 唯一真実と信じていたのが、母が注いでくれる愛情だった。幼い頃に父を亡くしたハルカをたった一人で支え続けてくれた、最愛の人。彼女の心だけは真実だと思っていた。



 それも、あの男にあっさり奪われてしまった。殺人鬼を演じることに酔った、生きている価値もないゴミによって。



 母を奪ったザガンの名は《カイジ》。必ずこの手で殺すと決めたのに。



 ──私にはそれさえも許されない。



 本当に、なんのために生きてきたのか。ハルカの停止した瞳が潤み、涙が次々滴り落ちた。



 ひょい、と自分の体が持ち上げられる。獅子の鋭い爪がハルカの衣服を引っ掛けて持ち上げたのだ。



 動かない視界に、獅子の開いた巨大な顎が映った。毒々しい紫色の肉厚の舌。生え揃った牙。どうやら自分は食べられてしまうらしい。



 これがトドメ技に設定されているとは悪趣味な研究員もいたものだ。ぼんやりとそんなことを考えて、ハルカはふともう一つの心残りを思い出した。



「……ごめんなさい、セツナ君」



 彼に謝れなかった。彼の助けになることもできなかった。



 思考が停止しているせいか恐怖は感じない。痛みだけはバカ正直に感じるので、殺すなら一思いに殺して欲しいところだ。



 獅子の双眸が、歓喜に緩んだ、気がした。拘束から解放され、ハルカは獅子の口に落下する。



 さよなら──そう口にするより早く。



 安堵と呆れの入り交じった声が、すぐ近くで穏やかに響いて鼓膜を優しく震わせた。





「無茶しやがって」



 柔らかな衝撃と共に、視界が高速でぶれた。



 掠め取られるようにしてハルカは何者かに奪取され、獅子の歯はガチンと空振りする。



 顔を動かそうとすると、その何者かにぐいっと無理矢理動かされた。こっちを見ろとばかりに、体躯の割に大きな手で。



 黒髪の少年の不機嫌面が至近距離にあった。全身にいつの間にか力が戻っていたが、不思議なことに抵抗する気にはならなかった。



 お姫様だっこのようにして抱えられたハルカは、涙に濡れた顔を余計にくしゃりと歪ませた。恐怖が遅れて蘇り、あまりに頼りない体の少年にしがみつく。こんな小さな体が、どうしてこんなに頼もしいのか。



「お、おい離せ」とセツナは身じろぎするが、動揺している彼が珍しく少し楽しくなったので離してやらなかった。



「と、とにかく! 半分ハルカが削ったから、残り半分は俺に任せろ」



 最初、何を言ってるのか分からなかったが、「いいな」と念を押されたのでハルカは体を少し離して頷いた。心なしか彼の顔が赤い。目も合わせてくれない。



 あの獅子のHPのことを言っているのだと分かったのは、セツナがハルカを地面に下ろして背中を向けたときだ。



 獅子は獲物を奪われたことで激昂し、セツナを値踏みするように両眼を眇めている。両前脚には太い血管が浮かび、今すぐにでも飛びかかれる体勢だ。



 無茶だ。ボスモンスターはHPバーの色が変わるごとにアルゴリズムが変換され、攻撃パターンが変化する。のみならず、純粋なステータス強化に加えて変化時には状態異常も解除される。さっき付けたスタンとやけどが弾かれたのはそういうわけだ。



 あの獅子は今、ハルカが追い詰めていた頃の獅子とはレベルが違う。ハルカは何とか起き上がり、ジョブスキル【シックスセンス】を発動させた。



 やはり。数値的なレベルこそ変化はないだろうが、このスキルなら感覚的に敵の力量が測れてしまう。



 あの獅子の現在の実質的な強さはレベルで言えば70近い。バーが赤に変われば更に上がるだろう。今の時点で、直感した獅子の圧倒的な強さにハルカは体の震えが止まらないのだ。



 一旦退こう。以前なら有り得ない提案をセツナにしかけた時だった。



「自分でも分かんねえけど」



 ゴワッ、と。大量の油を撒いたようにセツナの全身が急激に発火した。



 美しい、蒼い炎だった。



「ハルカ痛めつけられると、ムカつくなあ」



 なんだあれは。



 ハルカは驚愕のあまり、ぺたんと尻を地につけた。囂々と燃え盛る蒼炎はまるでセツナの体の一部であるかのように、時にとぐろを巻き、時に弾け、時に閃いてセツナを美しく演出する。



 黒いウルフヘアは炎の光を受けて神秘的なクリアブルーを反射し、白い肌は薄ら光沢を放つ。後ろから僅かに垣間見える彼の目は、炎より熱く、静かに燃えていた。



 セツナから発せられる、炎とは別の不可視の力。オーラ、としか言いようがないが、今のハルカはそれを感覚で視ることができる。ハルカの腰を抜かせた最たる要因はそれだった。




 レベル、80オーバー。




 これほどになってしまうと、最早その概数が的を得ているのかすら怪しいが。ともかくも、奥で殺気を放っている巨大獅子よりも明らかにハルカはセツナが怖かった。



 触れるだけで斬られそうな、天災に等しい危険度。



 たまりかねた獅子の恐怖を打ち消さんというような咆哮。耳を覆いたくなる大音響を纏った衝撃波が地面を削りながらセツナに迫る。ハルカを吹き飛ばした音の塊だ、直撃すればひとたまりもない。



 避けて。そう叫ぼうとした。



 ──ぶん。



 炎を纏った少年は、疎ましい眼前のハエを払うように勢い良く右手を振るった。セツナの目の前で、ぱんぱんの風船を割ったような大音響を打ち鳴らして咆哮攻撃フリックボイスが相殺される。



「うるせえな」



 ブワァン、と衝撃の余波がセツナを突き抜けてハルカの髪の毛をバサバサとかき乱す。



 セツナは左腰に右手を添えて、音高く抜刀した。ハルカはこの時初めて、彼の腰に武器が差されていたことに気づいた。黒のロングコートで目立たなかったのだ。



 なんだ、あれは。ハルカはもう一度瞠目した。彼の武器は、あれはまるで日本刀ではないか。



 刀が武器として存在するなんて初耳だった。彼の得物の美しさにハルカは思わず見入った。なんて綺麗な刀身だろう。



 淡く、どこか儚い輝き。桜色の刃。



「セツナ君……君はいったい」



 呆然と呟いたそれが最後まで言い終わらない内に、セツナは目の前から掻き消えた。

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