ロストソング
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大好きな人が、私の名前を呼んでくれた。最期にそれを聴けただけで、なんだか満足してしまう。
鎌が私の体を徹頭徹尾通過した。二つに裂けるような激痛に、私の喉から唄が失われる。
唄えば死ぬ──だからロストソングなのだ。
全神経が一瞬だけ過敏になった後、体の感覚が一気に希薄になった。すぐ傍で燃えているはずの炎の光を感じられない。色がぼやけて混ざる。ぐちょぐちょで気持ち悪い地面が、なんだかお風呂みたいに暖かい。
私を仕留めた死神は、狙い通り、《戦意喪失》の状態異常にかかっていた。赤い目玉から完全に光が失われ、すぐ近くにいるはずのカレルやソラを攻撃しようともしない。
【ロストソング】は、使用者が殺されてからが本領発揮なのである。えっへん。
「アンナ!」
多分名前を呼ばれた。彼の声だけは不思議とよく聞こえるのだ。抱き起こされたようだったけど、触れられている感覚が殆ど無い。
ただ、ただ──背中に感じるセツナの手、なんだかちょっとだけ温かい。
「えっ……へへ、ごめんねー……。セツナ、怒るだろうと思ったんだけど」
泣くな。耐えろ。どうせすぐに砕けて消える涙腺だ。だからもう少しだけ──我慢して。
自分の声さえ殆ど聞こえないけれど、なんとか、伝えたいことを彼に。
「……生きて……絶対、生きて……」
私が死ぬことでセツナが今を生きられるなら、本望だ。セツナにはハルカがいるんだもの。私は愛する人と親友、両方を救って死ねる。そんなに悪いもんじゃない。
「せっかく、御守り、もらったのに……効かないじゃん、セツナの、バーカ……」
あっさり一撃で殺されてしまった私を、一度はこの腕輪が助けてくれたものの。どっこい追加効果の毒で結局死んじゃうんだ。
──ああ、けど。なんか、もしかしてこれ猶予もらえてる?
腕輪の効果なのか知らないけど、私、まだ、まだ生きてるよね。
足下からゆっくり冷気が這い上ってくる。死ぬのってこんなにゆっくりなんだ。
まだ、失われていないのかもしれない。私の唄。感覚の無い唇をそっと開いて、私は愛する彼の腕の中で唄い始めた。
「──あなたはきっと 誰にも負けない──」
まだ声になる。まだ唄えてる。だったら、もう一つだけ。
もう一つだけ、君に伝えたいことがある。
自分で言うのもおこがましいのだけれど、私は世界的大スターだった。
そんな私、超プリティービューティートップアーティストANNAちゃんこと朝比奈 杏は、見事ユートピアの抽選に外れた。
それはもう思いっきり泣いた。毎日が本当に楽しかった私にとって、死ぬことほど怖いものは無くて。
けどせめて、死ぬまでずっとこのまま泣き寝入りするのだけはいやで。私は芸能活動を最後まで続けることにした。
死ぬ瞬間まで盛り上がろう、というコンセプトでレクイエムライブなんて酔狂なものを企画して、実際実行に移すつもりだった。ただ──結果的に私は生き延びてしまうことになる。
事務所宛に一通のファンレターと、そして一台の《R.P.G》が届いたのは芸能界に復帰して何日目だったろうか。
『僕は学校でいじめられていて、苦しくて苦しくて死にたくなっていた時に、ANNAさんの唄に出会いました。いじめは最後まで無くならなかったし、辛いのも最後まで変わらなかったけど、不思議と、ANNAさんの唄に出会ってから一度も死にたいと思わなくなりました。
ANNAさんの唄には、特別な力があると思っています。ブログを拝見して、ANNAさんが抽選に外れたと知って、身勝手ながら僕のハードをANNAさんにお譲りしたいと思って配送させていただきました。
ANNAさんはここで死ぬべき人じゃない。これからを生きる人々に、変わらない笑顔とパワーを届けてほしいです。
あの日、ANNAさんに救われた命です。ANNAさんのために使わせてほしいのです。
これからも、唄ってください』
中学生の男の子、直筆の手紙だった。私はすぐにその人の居所を調べ上げ、直接会ってハードを突き返そうとしたが、彼は断固として受け取ってはくれなかった。
最終的に、私は心から感謝の気持ちを伝えてハードを譲り受けることにした。そうして私はアンナとして、ユートピアの地を踏んだのだ。
灯ノ国──と呼ばれる、なんとも和風な城下町が始まりの街だった。
譲り受けたハードカプセルは一台。両親と年の離れた弟とは、地球の最期が来るギリギリまで一緒の時間を過ごし、そして涙の別れを経験した。
本当に、涸れるまで泣いた。やっぱりこの人達と一緒に死のうとさえ何度か考えたけれど──唄ってください、彼のその言葉に支えられて、私は生きる決心をしたのだった。
私は初日に灯ノ国名物の温泉をたっぷり堪能すると、翌日にはフィールドに出かけた。目的はもちろん、ユートピアでの芸能活動である。
世界中を旅して、色んな人と出会いながら、戦い、笑い、食べ、唄う。そんな生活を送る内に、いつしか私のジョブは吟遊詩人になっていた。
楽しい世界だった。そして私の歌を聴くと、もっと楽しくなると、皆が言ってくれた。私は私の命の恩人に、恩返しができていることを誇らしく思っていた。
元々の知名度も手伝って、ぼちぼちユートピアでも名が売れてきた。レベルが30を突破した祝いにギターを新調し、滞在していた砂漠の都デザーティアから南東に向け出発した──その三日目の夕暮れ時だった。今でも覚えている。
けたたましい警報音。忙しなく響き渡る、アルカディアの放送。システムが何者かにジャックされたという異常事態を、私はフィールドのど真ん中で告げられたのだ。
頭上を照らす美しい茜色が、やがて不安を助長する濃紺に上塗りされていき──次の瞬間、その空から無数の光が降り注いだ。
雨のように降ってきたのは、胴体の太い真っ黒な巨大コブラや、二足歩行で火を吐く深紅のワニ。それに全身武装した巨大ヒヒなど、見たことも無い巨大なMob達だった。
襲われそうになったところを命辛々逃げ出し、安全エリアに身を隠した私は、さっきのモンスター達が今回のシステム書き換えで新しく野に放たれた化け物達であることを放送で知る。
私はたまらなく怖くなった。逃げるときに転んで擦り剥いた膝はヒリヒリ痛むし、ソロでの旅とは言え安全な旅路を徹底して選択してきた私は戦闘は不得手だったし、何より──一度でも死ねば向こうの私の体も死ぬって?
無理だ。痛みも怪我も飢えも、死ぬ危険も無かったからこそ吟遊の旅は楽しかったのだ。こんなデスゲームみたいな世界でこれからも芸能活動を続けるなんてバカのやることだと思った。
ごめんね。あなたとの約束、破っちゃうことになるけど。
心の中で彼に詫びた。きっと許してくれるだろうと思った。ただでさえ地獄と化した理想郷に、悪意あるプレイヤーまで跋扈しているという。そんな中目立つ行為なんて絶対にできない。
私は、どうにかしてこの危険フィールドど真ん中から、そうは言っても比較的安全な都市へ逃げ込むことを画策した。
デザーティアに引き返すことも悩んだが、ほぼ同じ距離なら最後の旅だ、と腹を括り、目的地でもあったユートピア最南端の都市──セントタウンを目指すことに決めた。
私にハードをくれた彼への、せめてもの罪滅ぼしの意味もあったのかもしれない。セントタウンに辿り着けば、私は当面の目標だった五大都市全制覇を遂げることになる。
セントタウンに着いたら、なるべく目立たないように生きていこう。そんな風に考えながら、私はモンスターを巧みに回避して目的地までの距離を着実に縮めていった。
だが、巧くいく時間は長く続かない。
システム書き換えの日から二日が経った晩、私はついにモンスターの群れを引っかけてしまった。
体長一メートルと五十センチほどの、藍色の毛並みの狼。名を《レイドウルフ》。茂みに隠れていた私の前を単独でそいつが通ったものだから、はぐれかと思ってつい手を出してしまった。
ここのところ三食全て携帯食料、というような貧相な食生活だったので、そろそろ肉に飢えていたのだ。
結果、思いっきり吠えられて仲間を呼ばれた。それも集まった数は十や二十では無い。この樹海を抜ければセントタウンは目と鼻の先だったというのに……私はこの時自分の運が尽きたことを悟った。
この数相手では、私じゃ勝負にもならない。あっという間に食い殺されてしまうだろう。抵抗する気にさえなれず、ガタガタ震える体を両手で抱いて努めて笑顔を繕った。
せめて笑って死んでやるんだ。
四つ足を踏ん張って唸る狼達の鋭い歯が月明かりを浴びてギラギラ下品に光る。裂けたような口の端から涎がボタリと滴った。
この群れのリーダー格らしき、一際体格の大きく片目に傷のある狼が一声吠えて私に飛びかかってきた。私は固く目を閉じて、迫り来る痛みに備える──しかし。
痛みはやってこなかった。代わりに響いたのは、何とも流麗で上質な金属音。
恐る恐る目を開けると、足下には既に事切れたリーダー狼の体が横たわっていた。舞い散る赤い花弁に紛れ、狼の体も細かい粒子に分かれて砕け散る。
「……俺の通り道、塞ぐなよ」
寒気が走る。背筋がぞっとする声だった。気づけばすぐ近くの距離に、桜色の刀を握って静かに佇む黒い少年の姿が。
長めの前髪から覗く目は、底無しに暗い。見たことの無い目だった。まるで地獄を見てきたかのような。
リーダーを殺された狼達は全員が怒り状態になって、ターゲットを私から少年に切り替えた。
「キャンキャン吠えるな……うぜぇんだよ」
吐き捨てた少年の見開いた瞳が──蒼く燃えた。
私はその蒼色の美しさに、そして彼の圧倒的な強さに骨抜きにされた。たった数十秒であれだけの数の狼を駆逐してしまった少年は、腰を抜かしてしまった私をさして興味もなさげに見下ろしている。
そのとき、私は茂みなどに身を隠しやすくするため、カムフラ値の高いフード付きの羽織り物で全身を隠していたから、彼から見たら性別さえ分からなかったことだろう。
だが、彼は背丈や体つきで判断したのだろうか。素っ気ない口調で断定的に言い捨てた。
「……世界がこんな時に、こんなとこ、女の子がほっつき歩くもんじゃない」
私をさっさと素通りしていく少年。彼の広いとは言えない背中が途轍もなく大きく見える。
けれど──その黒い背中に、なんだか亀裂が走っていくように私は錯覚した。
「あ、あの!」
呼び止めても彼は立ち止まりもしなかった。声さえ聞こえてないかのよう。私は悟った。彼は──復讐者だ。
「あの! 名前、教えて! そしてできればフレンドに……」
「名前は見れば、分かるだろ」
足を止めずに彼は言った。なるほど確かにタグを付ければ名前は確認できる。
「……セツナだ。絶対ついてくるなよ」
踏み出しかけた足は先に刺された釘に縫い止められ、セツナの背中は闇に溶けた。
生まれて初めて、本気の恋をしてしまった。
相手はあんな得体の知れない男。もう二度と会えるかどうかも分からない。けれど自分ではどうしようもなかった。
半ば放心しながらセントタウンに辿り着いた私は、そこに宿を借りてしばらく籠もった。それは何も、目立たぬようにと引きこもってしまったわけではない。
一週間かけて、私はこの世界に来て初めての詩を書き上げたのである。
ユートピアの美しさや人々の温かさを唄いたかったはずなのに、それは出来上がる前に世界が変わってしまった。
だから私が書いた詩は、無為に殺されてしまった人々の魂を救済するレクイエムであり──セツナ。今もこの世界のどこかにいる彼に宛てた、ラブソングでもあった。
ねえ、今どこにいるの。ちゃんとご飯は食べてるのかな。すごく辛そうだったけど、私でよければ何でも話してほしい。
会えない日々が、彼への思いを募らせる。そして私はその日々の中で、ずっと考えていた。
こんなところ出歩くなと私に説教垂れたあいつは、自分は最前線を歩き続けて無茶な戦いを続けているのだ。
セツナの言いつけを健気に守っている内は、一生会えない。私は彼と対等になりたかった。強くなって、役に立つようになって、彼を支えたいと心から思った。
次の日、私は再びフィールドへ飛び出した。
安全マージンを十分取りながらレベルを上げて、街に立ち寄っては酒場で出張リサイタルを開催した。
騒ぎを起こせば、セツナに会えるかもしれないと思ったというのもあるが。私の頭にはまだ、もう一人の命の恩人との約束がこびりついて離れなかったのだ。
今こそ、私の唄は真に人々を救っていると信じることができた。ザガンによって奪われた笑顔を取り戻すために唄っているのだと思えば、彼との約束が日々果たされているような気がして。
唄って、唄って、唄って。一ヶ月以上が経った。そして──とある雪の降り止まない街の酒場で、私は唐突に彼と再会を果たした。
彼の姿を見つけたときの動揺を隠すのに全女優魂を消費した。そのせいで、彼の向かいの席に赤毛の美少女が座っているのを見たときは、つい、少しだけ顔に出た。
それを誤魔化すためにトークの中で彼女をいじったのだが、抑えが効かずセツナにも声をかけてしまった。彼の反応は──私の知るセツナでは既になかった。
私が与えてやるんだと息巻いていた笑顔を、セツナはもう誰かから与えられていた。恐らく向かいに座るあの美少女だ。
セツナは案の定、私のことなんて全く覚えていなくて。それを短いやりとりの中で確信した私は、せめて、彼のために作った唄を聴いてほしくて。
初めて人前で、その唄を唄った。セツナは泣いてくれていて──嬉しいような、切ないような、何か吹っ切れたような。不思議な気持ちになった。
リサイタルは今日で最後にしよう、と心の中で考えながら、お客さん全員に向けて……本当は、主にセツナに向けて有りっ丈叫んだ。
──愛してるっ!
気分は晴れやかだった。爽やかな失恋の味。うん、悪くない感じだった。なんならこの気分で一発、新しい詩でも書いてやろうかなんて思っていた。
けれど。
厄介な人たちに絡まれた私を助けてくれたのが、何の因果かセツナだった。あの時と全く同じ、数の暴力をねじ伏せる圧倒的な強さ。そして蒼く燃える憎悪の瞳。
彼はまだ、完全に幸せになれていないのだと、私は助けられながら思ってしまった。
ならまだ、私も諦めたくないって思ってしまった。
私はなけなしの勇気を振り絞ってセツナを旅に誘った。正直、超プリティー(以下略)の私の誘いなら、もしかしたら飛びついてくれるんじゃないかってほんのちょっぴり打算していた。
けど、やはり私の見込んだ男はムカつくほどにいい男で。ハルカを理由にセツナは私の誘いを断った。引くに引けず、ハルカも連れてくればいいなんて言ってしまった。
恋敵であるはずのハルカがいい子すぎて可愛すぎてもう愛くるしすぎて、いつの間にか親友になってしまったのは別の話だ。
──ねえ、ハルカ。
あんたのことだから、もしセツナと出会う順番が私と逆だったら、なんて見当違いなこと考えたことがあるでしょう。
安心して。先にセツナに会ってたのは私の方だもん。いっそ清々しいほど、ハナから完敗だっつーの!
セツナ、あのね。
何も見えなくて、セツナの温度さえ感じなくなって。それでも私の唄は、まだ、まだ消えてない。
「──けれど刃を 汚すたび 黒い背中に 亀裂が走るの──」
どんどんか細くなっていく声だけど、何故だか今までで一番よく響く。セツナは今、どんな顔してるのかな。
セツナ。私ね。ずっと、ずっと前から。
本当は君のこと、大好きでした。
「──だから ……どう……か」
声が掠れる。喉をラップで塞がれたみたいに、音がうまく出てこない。
ああ、待って、もう少しだけ。良いところなんだから唄わせて。お願いします、神様。この唄だけは最後まで……
──離さないで
声にならなかった、歌詞の続きが。彼の声で再生された。唄が暗闇を斬り裂いて私に届いた。男にしてはまだ高い声。
セツナって、こんなに綺麗な声で歌うんだ。
瞬間、手放しかけていた全てをあらん限りの力で抱き寄せて、私は目をこじ開けることができた。
見える。はっきり見える。セツナの顔がすぐ近くにある。セツナ、泣いてる。
「……一緒に唄って。セツナ」
セツナは声にならない声で頷いた。そうして、私は彼と一緒に。
「──ぎゅっと 握ってて──」
ああ、すごい。セツナの声が聞こえる。今なら彼の温もりも、心臓の音も、匂いだって感じる。
もう何も怖くない。
「──きっといつか 世界を照らす──長い夜明けの 陽になるから──」
そっと口を閉じた私達は、お互い涙でぐちゃぐちゃの顔で見つめ合った。セツナの表情を見上げていると喉がぐっと詰まる。
そんな顔、しないで。
唄は終わったはずなのに、美しいメロディーの残響が辺りに満ちていた。まるで私達を祝福するみたいに。もうすぐ、お別れなのに。
「この唄の名前はね……トワイライト。セツナ──この世界を照らしてね」
解けていく無数の糸を片っ端から撚り合わせるようにして、辛うじてつなぎ止めていた意識に限界が訪れる。
セツナの頬を伝う涙を拭おうとして、伸ばした私の手は光を放って、薄く向こうが透けて見えた。
お別れか。なんでだろう。唄で気持ちは伝えられたはずなのに、心残りなんてないはずなのに──涙が止まらない。
最後まで、我慢しようと思っていたのにな。笑って死ぬだなんて決めていたくせに、どうしてだろうか。
全然笑えない。
「セツナ……私……!」
急激に心細くなって、セツナにしがみつこうとした私の手は、もう実体を保っていなかった。するりとセツナの腕をすり抜けて、落ちていく。
気が遠くなる。ぶつん、と電源が切れる感じと言うより、ゆっくりつまみを捻って音のボリュームを下げていくような。
まるで唄の終わりみたい。デクレッシェンドで消えていく意識。小さく小さく、小さくなって、唄の余韻は最後まで大事にされながら、やがて誰にも聞こえなくなる。
「……アンナ」
至近距離での囁き。
極限まで希薄になった体を、力強く抱き留められた後──何が起きたか分からなかった。
「ん……う……!」
唇に、雪が触れたような感触。受けたことのない電流のような衝撃が、もうとっくに動かせないはずの瞼をかっぴらいた。
眩しくてよく見えないけれど、すぐそこにセツナの顔がある。口と口が触れ合っている。熱い。柔らかい。意味分かんないぐらい気持ちいい。
あっと言う間に腰を抱き寄せられ、全身が隙間無く密着した。慌てて離れようとしたけどもうどこが手でどこが足なのか分からない。そもそも力の差がありすぎる。全部言い訳だねごめん。
ただ、さっきまでの寒さが嘘のように温かい。
セツナの腕の中にいる。それだけが分かる。ほんの数秒で唇は離れたけれど、涙が完全に引っ込んでいた。化かされたみたいで癪だ。本当に気に食わない。
だって口元が勝手ににやける。
「セツナ……大好き」
おかしいな。死ぬ直前なのに心臓が人生最大級に元気だ。あと数秒で死ぬだなんて本当に信じられない。もしかしてキスで生き返った?
いや、んなわけ。
セツナは泣きながら微笑んでいた。彼はこんなに、強かったろうか。
……あぁ。
──バイバイ、私の英雄。
光でセツナの顔が見えなくなる直前、私は人生で一番幸福な笑顔を作ることができた。




