死線
かつて、ここまで全力疾走を続けた経験があったろうか。
システム的なスタミナの概念さえ忘れたかのように俺はただひたすらに足を動かし続けた。はやる気持ちが足を空回りさせ、何度も盛大に転んだ。
擦り剥いた箇所は熱を帯びてひりひりと痛む。これまでの痛覚仕様とのギャップでそれは実際以上の激痛に思え、滲む涙を乱暴にぬぐった回数ももう数え切れない。
とにかくシュンのアイコンが光っている場所に真っ直ぐ走っていたが、断崖絶壁や濁流、巨大な山などに阻まれていることもあった。
そういうときはかなり前まで戻って脇道を通らなければいけなかったりで、苛立ちと焦燥が募るばかりだった。
モンスターにターゲットされる感覚は数秒おきに感じていたが、構っていられるはずもなく全てをぶっちぎってここまで来た。
デジタル時計を任意表示して時刻を確認する余裕もなく、また見るのも恐かったが、体感時間でおよそ三十分経過している。その間俺は一度と速度を緩めはしなかった。
疲労で棒のようになった足が何かにつまずき、もう何度目かも分からない転倒をしたとき。顔面から地面に滑り込んだ俺はすぐに立ち上がろうとして、ふと違和感に気づいた。
身体が、動かない。
それに気づいた瞬間、思い出したように突然全身の筋肉が悲鳴を上げ始めた。呼吸は過呼吸に近いレベルにまで荒ぶり、視界は白いもやで霞む。
気道を確保しようと苦労して仰向けの状態になるのが現界だった。喘ぐように酸素を求め、涙が頬を伝う。耳の血管がドクドクと煩い。
我に返ってみると、まったく見知らぬ土地に来ていることに気づいた。枯渇した砂の大地に、元気のない木が点在する荒野。空気が澄んでいることだけは自慢であるかのように空には満天の星が瞬いている。
冷たい夜風に髪を撫でられて、俺はふと自分がこの上なく滑稽に思えてきた。勝手な妄想を繰り広げてこんな僻地まで走ってきて、我が家も随分遠ざかってしまった。きっとシュンに大笑いされてしまう。
「なにしてんだよ、俺……」
幾分落ち着いた呼吸と共に吐き出して、俺は瞼を閉じた。微睡みに似た心地良さに包まれ、すぐに眠気が忍び寄ってきた。
──夜の荒野の静寂を縫うようにして、微かに戦闘の喧噪が俺の耳に届いた。瞬間、一気に脳が覚醒した。
弾かれたように立ち上がると、疲労は僅かばかり回復していた。マップを開き直して確認するなり、俺は思わず破顔した。
シュンを示す光点は、もう目と鼻の先の距離にあった。俺はちゃんと辿り着いていたのだ。
マップが示す方角を見やると、確かにそちらから戦闘の気配がする。もう俺は地面を蹴っていた。
果たして、両脇を岩肌に囲まれた坂道を上った先の丘で、おぞましい量のモンスターに囲まれて戦っている人影を認めた。深緑色の鎧姿、そして左上腕に嵌められた、厚さ一センチ程度の美しい銀色の腕輪。間違いない、シュンだ。
「シュンッ!!」
思わず叫ぶ。しかし三十を超えたレベルを誇るシュンの聴力でも俺の声は届かなかった。余程余裕のない戦闘を続けていると見える。
シュンの左腕で輝いている腕輪こそ、シンジから贈られたAランク防具《イージスの腕輪》だ。圧倒的な防御力の恩恵に加え根性系統の装備スキルを備えている。あれを装備していればまずゲームオーバーはないとさえ言われる逸品だ。
しかし、駆け寄るにつれ目視できるようになったシュンのライフは既に五割を下回っていた。
もともとシュンは肉を切らせて骨を断つというか、捨て身に近い特攻を良しとする傾向にあった。しかしそれでも奴のHPがイエローに染まるようなことは腕輪を装備してからは俺の知る限り一度もなかった。
「あっ!」
覚えず声が漏れた。シュンの背後を取っていたモンスターが手に持った棍棒でシュンを後ろから殴りつけたのだ。目の前の敵の相手をしていたシュンは地面に倒れ込む。後頭部を押さえて呻いているあたり、シュンの痛覚レベルも俺同様跳ね上がっていると見て良い。
シュンを囲んでいるのは、グランドベアをも上回る体躯を誇る、黒い毛並みの武装ヒヒだった。鈍色の胴当てを分厚い胸板の下にぶら下げ、上半身のサイズと釣り合わない細い下半身。小さな頭には帽子型の兜が乗っかっている。
右手に粗雑な棍棒、左手に金属製の盾を持ったそのヒヒは、目算で十五は下らない。一匹一匹が三メートルを超える巨体であるため、そんなヤツらに取り囲まれているシュンにどうやって近づいたものかも分からない。
俺はヒヒの一体に狙いを付けてターゲットタブを付けた。俺のジョブスキル【狩人の知識】が発動し、モンスターの名称だけでなくレベルも表示される。
ちなみにこれは前のジョブ《ハンター》三つ目のジョブスキルだ。ジョブチェンジの際に旧ジョブから一つだけジョブスキルを引き継げるのがこのゲームの仕様である。
数秒でサーチは完了した。モンスターの名は《バレルコング》、レベルは……30。
俺は思わず辟易した。モンスターのレベルはつまり、一対一での狩りで推奨されるプレイヤーのレベルの最低値である。明らかにフィールドボス級だ。それが十五体以上も。
この辺りに来たことはなかったが、あくまで始まりの街から徒歩数時間の範囲内だ。推奨レベルはせいぜい10がいいところ。30なんてレベルのモンスターには俺は一度も遭ったことがない。繰り返すようだが、それが十五体以上も目の前にいるのだ。
そしてその全ての攻撃対象がシュンに集中している。いくら腕輪の加護があるとはいえあれではもう幾分も持たない。HPがゼロになれば、シュンは……
そこまで考えた瞬間、竦んでいた足が勝手に前に出た。俺を駆り立てるものなんて全部不確かなものに過ぎないのに、理屈じゃない何かが俺の仮説を的中と告げる。
シュンを助けろと叫ぶ。
「ど、けぇぇぇぇぇぇッ!!!」
抜剣。あまりに頼りない武器を片手に俺はヒヒの大群に突撃した。距離は十メートル。俺に近いヒヒの何匹かがくるりと俺の方を向く。
人間で言えば白目の部分が真っ赤で、鷹のような黄色い瞳をしていた。皺が深く刻まれた醜悪な面だ。
倒そうなんて考えるな。シュンを助け出して即撤退だ。努めて言い聞かせ、スキル名を発声。
「【電光石火】!」
跳躍と同時に発動した【電光石火】は、空中を舞った状態のままヒヒ目がけて突進するという物理法則を完全無視した動きを俺に強制した。ターゲットしていたバレルコングを貫通して俺はヒヒ達の作り出していた円の中に着地する。
そこには立ち上がって半泣き状態のシュンがいた。
【電光石火】は対象を貫通する攻撃スキルだ。威力はそれほど高くないが今のような移動に重宝する。
「シュン! 大丈夫か!?」
「え……!?」
なんでここに、と目を丸くしているシュンに、とにかく逃げるぞ、と言葉を割り込ませる。そして緊急用に常に具現化しているアイテムを収納している腰のポーチを探った。
取り出したのは黄色く発光するテニスボール大の宝玉。《閃光玉》、地面に叩き付けて使う宝玉アイテムだ。効力はその名の通り、モンスターの視力を暫時強烈な閃光で奪う。
俺の攻撃をくらってもろくにHPの減っていないバレルコングが、憤慨したように棍棒を振り上げた。 振り下ろされる前に俺はその宝玉を地に叩き付けた。
爆散する眩い閃光。圧倒的光量だが俺達プレイヤーの目にはまったく害を与えない。全てのヒヒが同時に目を押さえてのけ反る、一瞬の隙。
「走れ!」
俺はシュンの手を引いてヒヒの股の間を潜り抜けるようにして包囲から脱出した。シュンの大剣は凄まじい要求筋力値で俺には到底扱えるものではなく、必然的にそれを握ったシュンの重さはもの凄い。とても担いで走るような芸当はできないためこいつには自分の足で走ってもらうしかない。
幸いにして俺の弟は勇敢だ。涙を無理矢理引っ込ませて俺についてきた。ヒヒ共のひどい体臭が充満した空間から脱した瞬間、夜の冷たい新鮮な空気が俺達を歓迎した。
さっき上ったばかりの急な下り坂を二人して全力で駆け下りる。背後でシュンが心から安堵したような声で俺に言った。
「兄貴、マジで助かった!! 敵の攻撃半端なく痛くてホント恐かった……! 帰ろうと思った直後に空からたくさんモンスターが降ってきてさ、イベントかと思って相手してたらそいつらクソ強いし、極めつけにこんなのに囲まれるし……」
「話は後で聞いてやるから走れ!」
俺は振り返り怒鳴った。ヒヒはターゲットしていた俺達を見失いきょろきょろと辺りを見回すモーションを取る。再ターゲットまでまだ数秒の猶予がある。
助かった。広い場所に出れば逃げ切るのはそれほど難しいことじゃない。まずは近くの安全ポイントを確認して……
「兄貴、前っ!!」
「え──」
シュンの叫び声が聞こえた直後、全身を痛烈な衝撃が襲った。
真横からの衝撃だった。すぐ横の岩肌に激突した俺は以前、車にひかれて死にかけた時と同等の痛み、衝撃を感じていた。
脳が麻痺し、痛いというより熱い感じ。視界がチカチカ光る。
「兄貴!!」
「いっっ……てぇ……!」
片目だけ辛うじて広げると、俺の傍らで泣きそうになっているシュンの顔が見えた。そして俺とシュンをまるごと、大きく暗い影が覆っている。
見上げれば、山のような巨体。
「まだ仲間がいたのかよ……」
いや、少し違う。あそこで間抜けにふらふらしているヒヒより一回り大きな躯。何より眉間から鼻にかけてどこかの狩猟民族を思わせる赤と青の化粧が施されている。これは、バレルコングの上位種……?
見つめすぎたのか、見たくないモノを見た。名称──《キングバレルコング》、レベル41。
絶望が視界に暗い蓋をしたようだった。ゲイルの時と同じように戦意を喪失した俺は、手に持つダガーを取り落とす。
「……兄貴、ちょっと休んでろ」
傍らで、弟が囁いた。俺は彼の言う意味が理解できない。
屈んでいたシュンは立ち上がり、俺とボスヒヒの間に割り込むように立ちはだかった。身の丈に迫るサイズの大剣を片手で持って肩に担ぐその後ろ姿はこの上なく逞しかった。
「やめろ、シュン……!」
シュンのレベルはフレンド追跡を使用した際に確認したが、俺の知る数値よりいくらか上がって34だった。恐らくは今日でレベルアップした分なのだろうが、その驚異的な伸びを加味してもシュンは今一目で疲労困憊と分かるほどに消耗している。ライフも既に半分以下だ。
こんな状態で自分よりレベルが上のモンスターと渡り合えるとは思えない。あまつさえ、今にも背後で大量のヒヒが俺達を再ターゲットしようとしているというのに。
弟に守られているという情けない現状を自覚して、結局何もできない自分が無力で無力で恨めしかった。
「こいつは、多分何とかできる。自信あるんだ。だから心配すんなって」
シュンはニカッと笑って振り返った。俺は最初こそ、なんて強い奴なんだろうと思ったが、それは違った。
俺とシュンでは、抱いている危機感が違いすぎる。こいつは何も分かっていない。
「先に家に帰ってるからな。兄貴は上手くやれよ、デスペナくらったら承知しねえ」
シュンの全身が発火した。正確には炎を模した紅蓮のライトエフェクト。俺はシュンが何をしたのか当然分からなかったが、何をしようとしているのかは悟った。
「やめろ、シュンッ!!」
「──【命懸け】」
シュンはボスヒヒに向き直るとそう呟いた。恐らくはジョブスキル、効果は名称を聞けば容易に想像がつく。
HP、もしくは防御力を犠牲にして攻撃力を高めるバーサーク系統のスキルと断じて良い。シュンは、死ぬ気なのだ。
どうせ勝てないと判断したのだろう。ならばボスだけでも倒してゲームオーバーし、一瞬で家のベッドに戻る方が楽だと考えた。シュン、お前の思考回路なんてお見通しなんだ。
「いくぜ化け猿」
大剣を地面に突き刺したシュンはそれを支点に勢い良く旋回し、ボスヒヒの分厚い胸板に回転蹴りを浴びせた。吹き飛ばすまではいかないまでも、ボスヒヒは呻きながら数メートル地面を滑走する。
着地したシュンはすぐさま剣を抜き、腰を落とした。炎のオーラが爆発的に高まり、大剣はオレンジ色に発光する。
「馬鹿野郎……っ!!」
「【ペインブレイカー】!」
立ち上がろうとしたが、ビキッと激痛が響いてとても身動きが取れない。更によくよく見ると、俺のHPバーの隣に黄色いひし形のマークが二つ並んで点滅している。──状態異常、スタン。いわゆる打撃攻撃による麻痺だ。
「おらぁぁぁぁぁぁあっ!!!」
燃える大剣を掲げて跳躍したシュンはそのまま、大上段に構えた大剣をヒヒの脳天に打ち下ろした。
剣は鉄の帽子を砕き、そのままヒヒを始終通過した。ボスヒヒのHPが抉れるように減少していく。しかしあとほんの僅かというところで、減少は止まってしまった。
「……だめか。俺の負けだ」
荒い呼気の合間に悪態をつくシュンのHPバーを見て俺は絶句した。なんと僅か一ドットを残して消滅している。
HPを1まで減らす代わりに、一度だけウェポンズスキルを超強化する。それが【命懸け】の効力なのだと悟った。現にシュンの周囲で燃えていたオーラは水をかけたように失せ、彼の額には無数の玉の汗が滲んでいる。使用後はかなりの消耗も強いるらしい。
シュンの腕輪が持つ装備スキル【イージスの加護】は、一度だけどんな攻撃を受けてもHPを1残して耐えるというものだ。
しかしその超強力なスキルと、今の【命懸け】とやらとの相性は最悪と言っていい。いや、むしろ腕輪の加護でHPが1になった時にこそ発動すべき力じゃないのかそれは。
「だめかあ……ちえ、お前一匹くらいならなんとかなると思ったんだけどなあ」
大きなのけ反り状態から回復したキングバレルコングが、巨大な棍棒を握り直してシュンに一歩詰め寄る。その瞳は激昂した獣のそれだった。
身も凍るような恐怖に襲われる俺とは対照的に、シュンはむしろ清々しい表情で目を閉じていた。
「次は勝つからな。首洗って待ってろよ」
全ての力を絞りきったシュンは、既に敗北をすんなり腹に収めている。のみならず、今度こそ万全な状態を整えてのリベンジに燃えている。
「やめろ、逃げろシュンッ!! 次なんて無いんだよ、死んじまったら全部終わりなんだ!!」
あらん限りの力を込めて起き上がろうとしているのに、指一本動かない。スタン状態からの回復にはまだ数秒かかる。
「何言ってんだよ兄貴、またゲームと現実がごっちゃになってるのか? 一度も死んでない兄貴は凄いと思うけどさ、慣れればたいしたことないぜ、ゲームオーバーなんて」
いつも、言われていることだった。万全に準備を整えてこれでもかとモンスターを研究し、時には戦略的撤退もしながら意地でもノーコンテニューで狩りをする俺を、非効率的だとシュンは言うのだ。
それを分かってもらおうとは思わない。事実、ついさっきまでここは現実だがゲームでもあった。でも、もうここは楽しいゲーム世界じゃない。
「シュン!! 逃げろぉぉぉっ!!! にげてくれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
「腹減ったなぁ。夕飯冷めてないといいけど」
棍棒が、振り下ろされた。