崩壊
この街だけじゃない、世界中の空気が一度に冷水に浸けたように張りつめたのを肌で感じた。俺は掠れた声で呻くだけで、痺れた脳は皆目働いてくれない。
『現在、アルカディアの総力が迎撃に当たっています。戦況はこちらが優勢です、ご安心ください。しかし繰り返すようですが、くれぐれも外出は控えるようお願いいたします!』
聞き覚えのある声の主はシンジの部下の秀──シュウであると思われた。彼の力強い声の背後で、野蛮な怒号、痛々しい悲鳴、そして勇敢な咆哮が乱れ飛んでいる。運営本部の生の音声を耳にしただけで全身に悪寒が走った。
一体、何が起きているというのだ。矢継ぎ早に勃発する異常事態に、俺の平和ボケした脳みそは活動停止寸前だった。
俺はたまらなくなって走り出した。向かう先は我が家、母とシュンの元だ。プレイヤーの住居はシステム的に施錠してしまえば登録者以外いかなる存在も不可侵となるため、今や唯一身の安全を確信できる場所と言える。
何より、このまま夜の街に一人でいることなど到底耐えられそうになかった。家族の顔を見たかった。
残されていた僅かな距離を一瞬で走り抜け、俺は我が家に飛び込んだ。見えない何かにずっと追われているような感覚が拭えず、室内に突進すると同時に勢い良く扉をシステムロックする。
「セツナ! 良かった……!」
部屋着の上に薄手の上着を羽織り、今まさに家から飛び出そうとしていたらしき様子の母マキが、俺を認めるなり表情を大きく緩めた。突然の警報はこの理想郷の住民全員に計り知れない不安と恐怖を与えたのだ。
「帰りが遅いから探しに行こうと思ってた所だったのよ。ねえ、それよりさっきの放送、セツナ何か知ってるの……?」
俺の両肩に手を置いてひたすらに落ち着かない様子の母の言葉も届いておらず、俺は母越しに部屋の中を眺め回した。見当たらない。
玄関にも、あいつの靴がない。
「母さん、シュンは……?」
俺もシュンも、「暗くなるまでには帰るように」という母との約束を重んじている。俺はともかく、シュンはその約束を破ったことはかつて一度もない。前の世界からの葛城家のルールなのだ。
俺はあの黒ローブ二人組との一件があったから帰宅が遅れたが、シュンは当然既に帰宅していると思っていた。心配という次元を超えた嫌な予感がして俺はフレンド一覧画面を呼び出す。
「え、セツナと一緒じゃないの!?」と目を剥くマキに満足な返事を返すこともできずシュンにコールメッセージをかける。──通信、不可。
内耳に直接響くコール音はトゥルルルルというコール中を示すものではなく、ツー、ツーという通信不可状態を表すものだった。全身の血の気が引いた。
フレンド間のコールシステムには電波の概念が存在しないため、通常、相手が世界中のどこにいようと通話することができる。しかし例外がいくつか存在する。
例えばプレイヤーが抜刀状態、即ち戦闘中の場合、コールは応答を待たずして切断される。戦闘の妨げになるため、相手にはこちらがコールしたという事実さえ伝わらない。
つまりシュンは、今武器を抜いて何かと戦っている可能性がある。そこまで整理した俺は気づけば外へ飛び出していた。背後で母親の叫び声が聞こえる。
「シュン……!」
全力疾走する傍ら、マップ画面を展開。フレンドのマップ追跡機能を使用してシュンの現在位置を特定する。
スキャニングが終了し、シュンを示す黄色い光点がマップ上に出現した。北門を出たフィールドの遙か北北東、未踏破地域でそれは孤高に点滅していた。
よりにもよって俺の行ったことのない地域だ。少しでも割の良いモンスターを探して深くまで探索領域を広げたんだろうが、ここからどれだけ急いでも一時間弱はかかる。
絶望的な距離だと分かっていても、俺はじっと彼の帰りを待つことなんてできそうもなかった。何かに突き動かされるがままに走り出す。
走りながらひたすらにコールボタンを連打するが、応答不可は変わらない。シュンが戦闘中であることはほぼ確定的だ。
街中での抜刀、攻撃。現実と遜色ない痛覚レベル。この世界がかつてとどうしようもなく変わってしまったことはもう疑いようがない。そしてそれをやってのけたのは、あいつらをおいて他にいないだろう。
アルカディアを襲った黒ローブの集団。ゲイルやソーマがその一団のメンバーであることも間違いないと言っていい。
『システムが正常に書き換えられているか』──俺の記憶が正しければ、ソーマはそんなことを口走っていた。
ガキ一人に聞かれたところでどうなるわけでもないと思ったのだろうが、黒ずくめの集団の目的はアルカディア本部でシステムコードを書き換えることだったのだと推測できる。
大規模なテロ行為だ。黒ローブ集団の所在はひとまず置いておいて、俺には何よりもまして気がかりな事項がある。
多分それが、嫌な予感として俺を走らせているのだ。拠り所に欠けた頼りない手がかりを撚り合わせて導き出した、この上なく嘘であって欲しい仮説。
『──殺しなどするものではありませんよ』
白髪の青年が何てことない顔で放った恐ろしい声が、脳内で繰り返しリピートされる。酷く馴染みの薄いそのワード。殺し、殺し、コロシ……
──俺はあの時、ソーマに助けられていなければ、"殺されて"いた……?
死、という感覚がイマイチ掴めないほどに俺の脳はおめでたくなってしまったようで、しかしだからこそ過剰なまでの恐怖に苛まれる。
この世界は、もうかつての理想郷ではない。斬られれば痛いし、首が飛べば本当に死んでしまう、言わば生々しいリアルそのもの。いや地獄とさえ言っていい。
世界は変わってしまった。
それが俺の仮説。根拠なんてあの二人のやりとりだけだが、妙な確信を持って言える。
夜風を切って疾走を続けるにつれ、俺の思考は徐々に整理されていった。冷静を取り戻しつつある俺は並行して余計に恐慌し、速度を上げる。
脳内でシュンの笑顔が咲いて、そして音を立てて粉々に砕け散った。
「間に合え……!」