その3 闇
次の日の朝…彼は今日も早くから出かけていく。
寂しいです…
そんな気持ちを隠しきれずに今日も問いかける。
「今日も…遅いのですか?」
「ああ。しばらくはいつもより遅くなるだろうから、先に眠っていてくれて構わないぞ」
いつもと少し違う言葉…
「…そうですか」
そんなやり取りにも僅かながら心が沈む。
すると頬に彼の手が添えられて…
「昨日の事は何もありはしない。心配するな。俺にはおまえだけだ」
その言葉と共に大好きな彼の青い瞳に見つめられ、優しくいつもより長い口づけをかわす。
そして一粒の喜びの涙がこぼれた。
そう、大丈夫。
だって、こんなに幸せなんだから。
今日はお気に入りのカフェへと足を伸ばす事にした。
今朝の事で幸せが溢れ過ぎ、侍女に「顔に出てます」と笑われたからだ。
失礼な、と思いつつも顔の緩みが止められず、ちょっと気持ちを落ち着けようと思ったのだ。
お気に入りのカフェのお気に入りの紅茶にお気に入りのケーキ。
…失敗した。
只でさえ溢れた幸せが更に溢れ出してくる。
どうしようニヤニヤが止められない…
明らかに今日の私は浮かれている。
だからだろう。
「あれ?リーンハルトの奥さん?」
「フリードリヒ様?」
旦那様の同僚にして一番の親友だというフリードリヒ・ハイデッガー子爵公子様だった。
「お久しぶりです」
「久しぶりだ。
結婚してもう三年だっけ?いまだにあいつに貴女の事を惚気られて困ってるよ」
そう言いながら少し苦笑いのフリードリヒ様に心が緩む。
「少しご一緒してもよろしいか?」
「どうぞ」
良人に貞淑たれと教育され続けて育った私が、旦那様の友人とは言え、旦那様以外の殿方と二人きりでまさかの相席。
けれども共通の話題は旦那様との事。
おかげで私の心も軽やかに話も弾む。
そんな幸せな時間をしばらく過ごし、立ち去ろうとしたフリードリヒ様が言った一言が…
「昨日は声をかけられず、すまないと思っていたんだが、今日こうして話を出来て良かった」
昨日の事だった。
「昨日…ですか?」
「あれ?昨日街外れのレストランであいつと二人で食事していただろう? 声をかけようとも思ったんだが、仲良さそうに二人が寄り添って出て行ったので、お邪魔してはと遠慮したんだが…」
「いえ、わたくしは昨日一日家に居りましたが…」
そう言うと、フリードリヒ様はしまったと言わんばかりに顔を歪めて目を背けられた。
「いや、この事は忘れてくれ」
そして、そう言い残し、フリードリヒ様は伝票を持って足早に立ち去られたのだった。
昨日…
そんな筈は無い…
だって今朝だって…
薄暗い店内で誰かと見間違えたに違いない…
そう思いながら心に抜けない棘を刺したまま、重い足取りで家へと戻った。
夜、やはり遅くに戻った彼を出迎えた。
「なんだ、まだ起きてたのか」
「その…少し眠れなかったもので」
違う。
待っていたのに…こんなことを言いたかったわけでは無い。
違いますよね?
私だけと言ってくださいましたよね?
聞きたい事が口から出てこない…
「仕方ないな。早く寝ないと肌に悪いぞ?」
そう言いながら、彼は私の腰に手を回し、抱き寄せて額にキスを落とした。
普段なら、それで幸せを抱いて眠りにつく事が出来るおまじない…
…けれど…
近寄ると判る香水の匂い…
消臭しようとした後もある…
けれども微かに残るこの香りは…
女性用と判るこの香りは、当然彼が使う香水では無い。
もちろん、私の持っている香水とも違う…
なら…誰の?
けれどもそれは聞けないまま…
「ありがとうございます。お休みなさい」
いつものように礼を述べ、一人、部屋に戻った…
ブックマークしてくださった方、ありがとうございます。
とても励みになります。