七月の七番目の夜に空に祈るということ
「今年は曇りだな」
空を見上げて何でもないように呟いたのは鷹だった。空は灰色で、今にも冷たい雫が落ちてきそうな色だった。鷹はそう呟いたあと、そんなことはどうでもいいというように鋭い嘴で羽を整えていた。
「人間は悲しむだろうねえ」
残念そうに鵲が言った。しかしその表情はちっとも気の毒そうではなかった。
「まあ、橋を作らずにすむのはよかったけど」
ぽつりと心の内を呟いた。鷹はふんと笑って言った。
「織姫様と彦星様にはよかったな」
「ああ、曇りなら人目を気にせずに逢えるもんね」
晴れだと人間が皆空を見上げるから落ち着かない、と彦星が以前漏らしていたのを鵲は思い出した。曇りなら人間からは見えなくなるし、雲が川を渡る橋の役目をしてくれるのだという。
鵲は織姫と彦星が嫌いではなかった。毎年自分たちの働きを喜んでくれるし、二人のおかげで自分たち 「かささぎ」は伝説に名を残すことになれたから感謝もしている。だから二人が逢って喜ぶのは嬉しかった。
「しかし、人々の願いを叶えるのは難しくなった」
「曇りだから?」
「ああ。願いを叶えてあげられるのは星だからな」
毎年、この日には空を見上げて祈っている人間がたくさんいる。その願いはときに無視され、ときに星の持つ不思議な力によって叶えられるのだ。星は神様の近くにいるという。伝説に名を残しているといえど、鵲は神様に会ったことはなかった。
「それは残念だねえ」
「人間にとってはな。ほら、あそこにもいる」
鷹は不意に下を向いた。鵲も視線を追う。
鷹が見ていたのは、今自分たちのいる木の下に座っている少女だった。
「近くの村に住む子だ。たまにこの森でも見かける」
鷹が小声で言った。
少女はただぼんやりと空を眺めていた。その目はなんの思いも持っていなかった。とても小柄な少女で、背中を丸めて座る姿は身体をますます小さく見せた。短い髪の毛が顔にはり付いている。泣いているようだった。
「どうしたの、あの子」
鵲は鷹に訊ねた。鷹は声を低くして答えた。
「会いたがっているのさ」
「誰に?」
「あの子の大切な人だろ」
「大切な人ってだれ?」
「それは知らない」
「なぁんだ、知らないのか。その人はどこにいるんだろね」
鵲の言葉に、鷹は少しだけ深く息を吐いて、乾いた声で答えた。
「星のところさ。神様の近くだ」
鵲は驚いた。神様の近くには遠い遠いもう一つの世界があって、たくさんの人や動物がそこにいるらしい。しかし、まだ若い鵲はそのことを自分の近くで聞いたことはなかった。
「遠い遠い、世界?そこにいるの?」
「ああ。少し前に知った。あの女の子はずっと泣いていたよ」
「…うん」
鷹は少女から目を離して空を見上げた。
「鵲。お前の言う遠い遠い世界のことを、人間は『天国』と呼ぶらしいぞ」
「てんごく?」
「ああ。とてもいいところ、という意味でも使う言葉らしい」
「…その、天国は、神様の近くの世界は、いいところなのかな」
「そうだろうよ。行った人が誰一人帰ってこないんだから」
鵲は再び女の子を見た。女の子は空の方に顔を向けたまま目を閉じていた。唇が微かに動いていた。
「お祈り…してるのかな」
「話しているんだよ。まあ、祈っているとも言うかな」
「そうなの?」
「祈るというのは、ただただ思うことでもあるのだぜ、鵲」
「神様に向かって?」
「それだけじゃない。星のところにいる人のことを思うこと、他の人に忘れられてしまった人のことを覚 えていること、会えない人への思いをしまって温めておくこと、全部祈ることだ」
「…うん」
「祈ることは思いやることでもあるのだよ、鵲」
「…わかる」
「だから、今日のこの夜のことも大切に温めておけば、いつかお前はもっと大人になれる」
「…どういうこと?」
返事はなかった。
鵲の横に鷹はもういなかった。
不意に鵲は、ひと月ばかり前にあった山火事のことを思い出していた。真夜中にあったそれは、この森の たくさんの木を焼いてしまった。木も、草も、花も、そして、仲間も。
鷹の巣は、ごうごうと燃える炎に包まれていたのだった。
鵲はまっすぐ上に向かって羽ばたいていた。上に行けば星が出迎えてくれる、そうすれば鷹にも会えるかもしれない。そう信じて必死で翼を動かした。しかし、行けども行けども鷹はどこにもいなかった。ただ灰色の雲が海のようだった。
鵲は泣きながら巣に戻った。鵲は久しぶりに泣いていた。涙が無くなることはなかった。いつのまにか鵲は泣き疲れて眠っていた。
「…鵲」
鵲はいつの間にか泣き止んでいた。
とても幸せそうな表情をして眠っていた。
まるで鷹がそばにいるかのように。
同じ頃、この小さな森のすぐそばにある小さな村の小さな家で、少女が眠っていた。
とても幸せそうな表情をして眠っていた。
まるで愛する人がそばにいるかのように。
今日は七夕。
一年に一度、願いが叶うという。
お読みくださりありがとうございました。
大切な人をきちんと大切にしてください。