89 戦後処理終了
チャーバントの戦後処理に於けるカスマンド側の全権大使は、国内でも指折りの政策通で知られたコスメック男爵であった。
コスメック男爵は、タランテロード公爵派に属する貴族であったが、実家の爵位が士爵低かったが、周辺諸国就中ロマンダリアとの友好関係を強固なものとしたいと希望する現国王の意向を汲んで、水面下で様々な交渉に当たってきた外交の専門家であった。
アランは与り知らないことだったのだが、ロマンダリアで暁の花園という犯罪組織をたった一人で壊滅させたアラン・リードという男がカスマンドに移動した後、ロマンダリア側から情報を得てその動きに注目をしていた1人でもあった。
その際、アランの行動を詳細に報告した功績で男爵に陞爵された経緯があった。
本来であれば外交的な決定を下すにはかなり危うい地位でしかないコスメックという男が抜擢された背景には、ロマンダリア同様長らく続いている平和が大きく影響していた。
戦時であれば裏の裏まで読み抜いて決定すべき外交問題を、わずかな功績で陞爵されたばかりの男爵に委ねる危険性を指摘する声も無くはなかったが、さてそれでは代わりの人選はと問われれば、誰しもが顔を俯けざるを得ない体たらくであった。
カスマンドは、獣人族のエリアに於いてはかなりの実力を持つ国家であったから、一たび事が起こって軍を動かすと途方もない影響を周囲に齎すことになる。
現国王はその辺りのことを十分に知悉しているが故に、チャーバントの蛮行を見逃して来た経緯があった。
それ故にか、解放されたケスガイゼの復興支援とチャーバントの処分に関しては積極的にこれを行う目論見があった。
ただ、そこで問題となるのが、同じく大国であるロマンダリアの動向である。
獣人族のエリア最大の版図と人口を誇るロマンダリアは、如何にカスマンドと雖もこれを無視して我を通すには無理のある相手であった。
お互いに相手国をけん制し合いつつ、落としどころを見極めるという外交の枢要な問題に精通している者が極めて少ない現状では、両国の爵位を併せ持つアラン・シュネーデルン・トロイジャール・リードにこれを一任するより外、打つ手がないのが現実だった。
早急にこの問題を解決しないことには、国内にケスガイゼはおろかチャーバントからの難民までもが流入してくる恐れが多分にあるうえに、チャーバントの難民を装った盗賊が国内で跋扈する懸念もあったので、カスマンド国王はそれなりの経験と多少の実績はあるものの形式的に何らの権限も無いコスメック男爵を本件の全権大使として指名したのである。
名誉男爵の叙爵以来、アランの立ち位置はデイマークス辺境伯の派閥の末席にあった。
カスマンド国内での諸問題を鮮やかに解決していく過程で、アランはもう一方の旗頭であるタランテロード公爵とも面識を得て、国内の貴族の範疇には収まり切らない一大勢力と見做されつつあったわけだが、ここに来て国王自ら侯爵に陞爵しその諱をを許すに及んで、アランの位置付けは絶対的なものへと変わった。
即ち、国内第3の勢力となったのである。
もちろん、カスマンド国内に領地を持つわけでもなく、何らの派閥を有するわけでもない身の上ではあるのだが、アランの余人に代えがたい実力は既に実証されていて誰も口を挟む余地などない状態であった。
故に、この度の対ロマンダリア外交の落としどころを彼に委ねたのである。
元はといえば、アランが起こした問題でもある。
自分が尻拭いしなければ、何人たりとも容易にはこの問題に解決の道を提示することは出来ないだろうとは、アラン自身も分かっていた。
アランの希望する世界を回る旅は、まだまだ先になりそうであった。
翌日、コスメック男爵は王都ジャガンダールのデイマークス辺境伯邸に出向いた。
男爵自身は派閥で言えばタランテロード公爵派に属する身ではあったが、最末端に近い立ち位置であるが故にどちらの派閥に対しても特に思い入れのある方ではなかった。
しかし、訪れてみて最も驚いたことは、リード侯爵がデイマークス辺境伯邸を我が屋敷の如くに振舞うその態度であった。
デイマークス辺境伯といえば、コスメック男爵から見れば雲の上の存在である。
確かに、爵位の格で言えば侯爵と辺境伯は同等ではあるものの、建国以来の家柄である辺境伯家と先日陞爵されたばかりの侯爵では存在感がまるで違うものと思い込んでいた。
ところが、それは単なる思い違いであることが訪いを告げた時点で分かってしまった。
それは、辺境伯邸の前庭に思い思いの姿で佇むケームの群れを見た瞬間だったのかもしれない。
小なりと雖も独立国であったチャーバントを、たった一日で陥落させた戦力が目の前に有るのである。
男爵は、息を呑んでその場に立ち尽くしていた。
案内されるままに、コスメック男爵はロマンダリアの全権大使が待つ会議の間へと進んで行った。
扉を開けて中を一瞥した男爵は、そこに居るのがたった2人の男だという事にまず驚いた。
副使も連れず書記役も連れず、ましてやブレーンすらも連れていないロマンダリアからの賓客と、そこに居ることが不自然なほど何らの威圧感も発していない人族の青年だけが彼を迎えた。
案内してくれた経験の浅そうな執事に礼を言うと、コスメック男爵は2人の元へ歩み寄って、挨拶を交わした。
交渉とすら言えない話し合いは、ごく短時間で終わった。
ロマンダリアからの全権大使はその中で何も言葉を発することがなかった。
そして、カスマンドの全権大使であるコスメック男爵も、リード侯爵の提案にただ頷いただけであった。
僅か30分ほどの交渉は、すべてアランの主導で行われ、その中でカスマンドとしては大きな譲歩を強いられたはずなのだが、コスメック男爵はそれを理解し切れていなかった。
領土の交換という世にも珍妙なアイデアは、シャーメシルとの国境地帯にある不毛の土地を、チャーバントの岩山地帯にある国土と等価交換するというものであったが、男爵にはその真意が全く掴めなかった。
ただ、交換地として指定されたその場所が、過去何年にもわたって国策として入植者を送り込んだ上に、総て失敗に終わった土地だという事だけは辛うじて知識を持っていた。
カスマンドとしては、シャーメシルとの国境地帯に正確な線引きをしたことはこれまでなく、ただそこが不毛の土地だという認識だけを持っていた。
その不毛の土地にどういう利用価値があるものか全く分からないまま、コスメック男爵はその件に合意した。
また、ロマンダリア全権大使であるカマンダン子爵も、この等価交換の立会人としてロマンダリアという国家がこれに合意したという旨を記した文書に署名しただけだった。
ロマンダリア、カスマンド、そしてアランの3者がそれぞれに合意署名した文書を3通作成し、各々がそれを持ち帰ることでチャーバントの戦後処理は終わった。
会談終了後、アランはすぐにリリックを呼び出して認めた親書をチャーバント王宮の王太子の元へと届けさせた。
ロマンダリアの全権大使を送り届けるものだとばかり思っていたリリックは、これが単なる親書の配達ではなく、カスマンド王国からチャーバント王太子への正式な外交文書であることを諄々と諭されて出発した。
一方、重要な会議であったはずの外交交渉を僅か30分ほどで成立させた両国の全権大使は、デイマークス辺境伯邸でアラン・シュネーデルン・トロイジャール・リード侯爵主催の晩餐会に招待されて、その席上侯爵の夫人を紹介された。
既にその容貌の至上の美しさを知っていたカマンダン子爵でさえ言葉を失ったカルアの姿に、コスメック男爵は息をすることすら忘れてただ見入ってしまった。
暫くの後、自分が不躾な視線を侯爵夫人に投げかけていることに気付いたコスメック男爵は、慌てて視線を下げて恥じ入った。
生まれて初めて見る恐らくはこれ以上ないと思われる美女に接して、男爵はその後晩餐会でどんな会話をしたか、何を食べ何を飲んだのか、まるで覚えていなかった。
そしてそれは、カスマンドにとって高いツケとなって返って来ることになった。
アランはコスメック男爵の意識がカルアの容姿に捉われていることを見計らったうえで一つの提案をし、それに合意させた。
チャーバント国民の移動に際して、その費用の全額と道中の安全の確保はカスマンド政府の権限に於いてこれを保障する旨の合意文書に署名した後、何事も無かったかのように会話を続けた男爵が自分の失態に気付いたのは、チャーバント王太子からの費用の督促があった時だった。
余談ではあるが、多大な費用の捻出に苦労したカスマンド宰相は、その腹いせに陞爵されたばかりのコスメック男爵を降格し、元の士爵に戻してしまった。
以後、リード侯爵との交渉に名乗りを上げる者は皆無となり、宰相はその面でも苦労を背負い込む結果となったのである。
一方、ロマンダリア全権大使であるカマンダン子爵は、同じくカルアの美しさに翻弄されている間に一通の外交文書に署名していた。
彼もまた後にロマンダリア国王の逆鱗に触れて、1年有余王宮への出仕を差し止められて涙に暮れたが、その内容はケスガイゼ王宮及び首都の建設費用の負担を認めるものであった。
結果的にケスガイゼ・チャーバント両国は、ロマンダリア・カスマンドという大国からの無償の支援によって復興を果たすこととなった。
チャーバントの国民が大移動を開始したその日、応急修理された仮の王宮でケスガイゼ国王の帰還を祝う式典が催されていた。
ソーン大草原のオアシスにあるアランの隠れ家からケームによって運ばれて来た国王一家は、到着するなりアランを呼び寄せて、国王の権限によってケスガイゼ筆頭公爵に叙爵された。
ハッキリ言って、ケスガイゼのような小国の爵位は望んではいなかったものの、最大級の恩返しとして下された爵位は返上することも出来ず、そのまま受け入れはしたのだが、ケスガイゼの国家予算の規模からしても俸禄は年間5000リュアンが漸くの事だったので、これだけはアランも固辞して受け入れられた。
ただ、全獣人族羨望の地であるケスガイゼで筆頭公爵の身分を持つという事の意味を理解していなかったアランは、この後その凄まじさに目を剥くこととなる。
就中、それまでの貴族たちを差し置いてケスガイゼ筆頭公爵に任ぜられたことの効果は、獣人族の地のみならずゴドリック大陸全体に及んだ。
その事の意味にまだ気付いていないアランは、その日の夜移動する馬車の中でカルアの膝を枕に、これからの行動予定を考えて、それが終わらないうちに眠りの国へと旅立って行った。




