1 地平線はどこまでも
あまりの眩しさに意識を引き戻されて、彼は薄くまぶたを開けてみた。
「眩し・・・」
思わず手で顔を覆って光を遮ったが、その時に少しだけ周りの情景が目に入って、混乱が彼を襲った。
そこは、彼のまったく知らない場所だった。
彼の知る環境といえば、小学生の時に両親が建てた家に引っ越して以来、人工の自然に囲まれたニュータウンの我が家と通学路、それに若干の田園風景を見せる周りの里山などの日本らしい光景と、そこに点在する彼が住むのと同じような住宅地。
高校まではニュータウンを出ることなく通学できた。
周辺の住宅地に家が立ち並んで人口が増えたおかげで、住宅街の中に小学校が5つ、中学校が4つに高校が2つ出来たせいだ。
山を削り、谷を埋め、田んぼを潰し、畑を均して出来た住宅街の人口はすでに3万人を超えてまだまだ増えているらしい。
やがては彼の住むところだけが独立して一つの市になるという噂も聞いたことがあるが、彼はそんなことに興味がなかったので詳しくは知らない。
日常の買い物などの用足しも、殆ど家の周りで不自由しなかったから、小さい頃はニュータウンだけが彼の世界だった。
いや、少し引っ込み思案の気がある彼にとって、高校を卒業して近所のコンビニでアルバイトをする今もそう大差はないかもしれないが。
そんな彼の目に入った光景は、まぎれもない大草原だった。
高校生だった頃に行った修学旅行で、生まれて初めて地平線というものを見たときに感じた雄大さと、また違った凄まじさを感じさせる地平線がそこにあった。
人の生活を感じさせるものが何一つない、ただ草だけが生い茂る大地があるだけだった。
どれくらい呆けていたことだろう。
ふと我に返って喉の渇きを感じた彼に、ようやく持ち物に目をやる余裕が生まれた。
自分の右肩に掛けていつも持ち歩いている、大きめのショルダーバッグがあることを確認した彼は、徐にバッグを引き寄せてファスナーを開いた。
中から500ミリリットルのペットボトルを取り出して中身を確認することなく、一気にミネラルウォーターを呷った。
すべて飲み干してから、彼はようやく味に違和感を覚えたが、苦いとか酸っぱいとか危険を感じさせる要素はなかったので、いくらもしないうちに違和感を忘れてしまった。
それから彼は、バッグの中を確認し始めた。
そこにはいつもと同じく大きめのスポーツタオルと着替えのTシャツ、さっき飲み干したのとは別に500ミリリットルのミネラルウォーターのペットボトルが2本あった。
彼は引っ込み思案が昂じて極力他人とのコミニュケーションを避けていたのだが、どうしても必要が生じて誰かと会話することになった場合無性に喉が渇く癖があったから、常に結構な量のミネラルウォーターを持ち歩いていたし、水を大量に摂取するのでよく汗をかいたから汗拭きと着替えは手放せなかった。
他にはお気に入りの小説の文庫本が数冊と小さめの辞書。
加えて何故か全国版の道路地図と世界地図が一冊ずつ入っていた。
彼が大きめのショルダーバッグを持ち歩くのはこのためだった。
自分自身はずっと暮らしてきた町を出ることなく育ってきたが、実は外の世界に興味が大いにあったのだ。
暇な時など世界地図を開いて、インターネットで知った様々な国を探しては、そこはどんなところでどんな人たちがどんな暮らしをしているのかと思いを馳せることがよくあった。
『夢想癖』と彼自身が呼んでいたこのクセのためか、高校時代の英語の成績は学年でもトップクラスだった。
いつか世界を見て歩きたいという彼の思いは強かったし、そのための手段の一つとしての英語も、とりあえずは簡単な日常会話くらいはこなせるほどに修得していた。
彼の成績を惜しんだ高校3年生の時の担任は、しきりに彼に語学系の大学への進学を勧めたが、彼自身がよく知り悩みの種でもある性格的な問題もあって、好意に感謝しつつも進学に関しては固辞し続けた経験があった。
いつものクセで世界地図を広げた彼はしかし、そこで固まってしまった。
それは、そこに描かれた地図が彼のよく知る世界とは全く違っていたからだった。
そこには日本列島も南北アメリカ大陸もユーラシア大陸もアフリカ大陸もオーストラリアも存在せず、ひしゃげた楕円形と左に傾いた縦長のひし形と他の二つを圧倒するほど巨大で歪な長方形が描かれていた。
「な、なにコレ?」
そう呟くと、彼はもう一度周りを見渡して嘆息した。
そこにはやはり、見渡す限りの草原と雄大な地平線だけがそのままあった。
このままここに座っていても何も解決しないと、自分に踏ん切りをつけて彼が立ち上がったのは、それから小一時間もしてからだった。
見える限りの範囲内に人がいる感じはなかったし、道らしきものも見当たらなかった。
それでも、この場にずっと座っているわけにもいかない。
まずはここからどこかに移動しなければ誰にも会えないだろうし、家に帰ることも出来ないだろう。
何故自分がこんなところにいるのか、皆目分からなかったが、今のところそれは後回しでいいだろう。
でも・・・。
「とりあえずどっちに行けばいいんだろ・・・」
立ち上がって一歩を踏み出す前に、新たな問題が彼に舞い降りた。
とにかく周り一面どこまでも草の海である。
方向感覚も何もあったものじゃない。
ココが何処だかわからないが、太陽の位置はまだ頂点には来ていなかった。
思い返してみると、初めに気が付いた時には日の光は真正面から差していたから、今までの感覚で行けばまだ午前中ということになる。
どっちへ行くにも土地勘がまるでないのなら、自分の勘を信じて行きたい方向に進むしかない。
とりあえず第一歩を踏み出さなければ、と彼は太陽が昇る方向に向かって歩き始めた。
しかし、行けども行けども誰にも会わないどころか、風景に変化すらない。
すでに太陽は頂点を過ぎて傾き始めてきたが、この時になって初めて彼は重大な問題に思い至ってしまった。
ここがもし猛獣の生息するエリアであったら、身を守る術を何一つ持たない彼は格好の獲物ということになる。
むかしテレビで見たんだっけ・・・。
と、彼は思った。
肉食獣は大抵夜行性だった。
そして、ヤツらの狩りは夕方から始まる。
凄まじい恐怖が彼に襲い掛かった。
それは喉の渇きも、さっきから感じ始めていた空腹も一瞬で忘れさせるほどの恐ろしさだった。
立ち止まって恐怖に震えそうになる自分の足を叱咤して、なんとか歩みを止めずに進むことに成功した彼は、次にまた初めに戻って逡巡し始めた。
本当にこっちに進んで良かったのだろうか、と。
しかし、今度は歩みを止めなかった。
ともすれば立ち止まりそうになりながらも、自分の決断を信じて進む以外になんの手段も方策も見出せない現状では、座して猛獣の襲撃を迎えるよりは一歩でも前に進んで生きのびる為の何らかの手がかりを見つけ出そうとする方が、より人間らしいと思えた。
彼は、とにかく歩いて歩いて歩き続けた。
視線の先には相変わらず何の変化もない草原が広がっていた。
これまでの生活でここまで自らの体を酷使したことは無い、と思うほどに彼は歩き続けた。
そして、彼は唐突に意識が途切れて、再びそこに倒れた。
「おい、起きろ!」
激しく体を揺さぶられる感覚と、呼びかける声に意識を引き戻された彼は、ゆっくりと目を開けた。
そして驚愕した。
自分に呼びかけ、体を揺する相手を見て。
その相手には、鼻もあり口もあり耳もあったが、目が顔の真ん中に一つしかなかった。
驚愕に目を見開いて自分を見る様子に、
「単眼族が珍しいのか?」
と問いかけると、彼はただ一度頷いた。
「言葉は分かるか?」
と聞かれた彼は、何も考えずにまた頷いた。
頷いてから、思った。
ボクは、妖怪に喰われるのか・・・。
そして、猛烈に恐怖した。
そして、叫んだ。
「お、お、おばけ~!」