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かたりしす。

作者: 烏丸四条

 その花は椿のように花弁をぽとりと落とした。

 だがそれは椿ではない。

 ソメイヨシノである。

 四月の下旬。

 自転車で駆け抜けるにしては少し寒いくらいの空に、桜の花は控えめに春を告げる。

 まだ四分咲きといったところか。

 なのに花弁ごと落ちるとは。

 散るには少し早過ぎる気がする。

 落下するさまも椿のようで、不気味さがいっそう際立つ。

 人の首が落ちるイメージを思い起こし、背筋を寒気ともつかぬ奇妙な温いものが背中を駆け抜ける。

「おお怖い」

 自転車を押しながら私は呟いた。

 病院の裏口と高架下の駐輪場との間を通る裏路地は車一台通るのがやっとというほどに細いのだが、朝の登校時間帯は高校生が怒涛のように押し寄せる。

 そこそこ細い路地に怒涛の人だかりが歩いているのでなおのこと自転車ですり抜けるのは無理というものだ。

 私は仕方なく自転車から降りて黒ずくめのゆっくりとした流れに身を任せる。

 私は溜息を吐いて視線を落とした。

 視界を黒い制服が横切っていく隙間に独り、地面に屈む女生徒が私の目についた。

「椿みたい……」

 ぼそりと女生徒が一言つぶやき、立ち上がる。

 路地裏の通学路からさらに一本、民家と民家の間に走る細い路地。こんなところにも桜があったのか。

 椿のようにぼとりと落ちたまだ開ききっていない花弁を一片、屈んだ彼女は手に取っていた。

 もうすぐ学校が始まるというのに、私は招かれるように一本ずれた裏路地に入っていく。

「昔から人の首が落ちるようで縁起悪いと言われているらしいね」

「確かにそう見えなくもない」

 しげしげと彼女は手に取った花弁を眺める。

 私はその女生徒と桜から少し離れた位置で、残された(がく)がある枝の辺りを見ていた。もうそろそろ開花の時期になってしまう。周りの蕾も膨らみかけ、淡い色が所々まばらに見受けられる。

「ねぇ……」

 ふいに彼女がこちらを向いた。

 先刻みていた横顔からして端整だったが、正面から見るとやはり肌理細かい。

 どこか人間離れした儚さとたおやかなアウラを纏った少女は言う。

「あなたは桜がすき?」

 唐突な質問だった。

 私は問いを投げかけられるまでの間彼女を中心とする風景をぼんやり眺めていたから、予期せぬ問いに私は驚き、ついでに呆けた顔を晒し続けていたことにも気付いて、なんだか無性に恥ずかしくなった。

「まあまあ、かな」

 気恥ずかしさで一杯一杯の私はこう答えるのが精一杯だった。

 つまらぬ答えを聞いた彼女は心底つまらなそうに眉をひそめ、強い口調で言う。

「はぐらかさないで。ちゃんと、答えてほしい」

「……」

 いやに真剣な表情だった。

 さっきまでの儚さの中に突然小さな覇気が現れる。

 ……なぜそこまで必死になる?

 たかが桜の好き嫌いで。

 睥睨気味の視線と予期せぬ彼女の固執が気に障り、私はぶっきらぼうに切り捨てた。

「きらい」

「え…………」

 彼女は心底残念そうに呆れ顔を向ける。

 ついでに非難がましい目で理由を求めた。

「なんで。こんなにきれいじゃない」

「それはそうだけど。問題はそこじゃない」

「じゃあ何?」

「それは私が勝手に思うことがあるから」

「何を思うの?」

「それは…………」

 無邪気な視線が私を射抜いた。

 その視線は早く早くと催促するが、私は躊躇う。

 彼女の澄み過ぎたその目に、私の言葉は汚らわしく映るだろう。……だがなるべくなら何も知らずに澄んでいてほしい。

 数瞬の間の後、言うべきか言わざるべきか迷ったが、何としてでも知りたいと訴える彼女の視線に、とうとう私は耐えきれなかった。

「それは――桜が怖いから」

「え?」

 今度は彼女が呆ける番だった。

 それはそうだろう。

 小学生のころからずっと、桜を見て怖がる私を理解する人はいなかった。

 周りと少しズレた感性を持つことに羨ましがれることもなく、かと言って桜についての畏怖以外には生憎持ち合わせもない。

 至って平平凡凡に毎日を過ごす私を唯一、他人から見て最も異常に見せるものだ。

 ……だから、私はこの問いが嫌いだ。

 桜が好き嫌い以前に、そう聞かれること自体に嫌悪感を抱く。

 そもそもあまり聞かれにくい問いという性質もあって(いや)な思いはあまりせずにきた。

 いつまでも子供ってわけでもないし、むしろ自ら周りへ遠回しに『桜、ダメなんです』と伝える術を身に付けたほどだ。

 だが、目の前の女生徒はずけずけと土足で上がりこむ。

 聞かれたことに対する嫌悪よりも、唐突に自分の痛い箇所をピンポイントで狙い撃ちされた驚きの方が私の頭を占めていた。

 ……おそらく初対面であるにも関わらず。

 まさに青天の霹靂だ。

「……わからないわ。きれいなら、それでいいじゃない」

「そう思いたいけれど私はできない」

「ふーん…………」

 不機嫌そうな眼差しで彼女は私を見た。

 しげしげと顔から足元まで上から順に観察する。

 舐るようにゆっくりとなぞるその視線は相手を値踏みするようなものではなく、内の内まで見透かしたのちに相手を理解しようという切実なものにみえた。

 一抹の期待と不安が私の心をごちゃ混ぜにする。

「そろそろ時間だから、私はもう行かないと」

「えー」

「いや、そういうわけにもいかないから」

「…………そうねー。言われてみればそうだったわ。いけないいけない」

 じゃあまたね、と元気いっぱいの声で彼女は別れを告げた。

 そのまま振り向きもせずに小走りで裏路地の向こうへと消え去る。ぱたぱたと軽やかに両腕を振り、鉄板スカートを危うげにひらめかせていくのを私はぼんやりと夢見心地で眺めていた。

 携帯を取り出して時刻を確認する。

 …………ホームルームが始まるまでもう五分もない。

 私はすぐさま自転車に跨った。

 もと来た裏路地はすでに閑散としていた。



 その次の朝も私はまた一本外れた裏路地にいた。

 来る事がわかっていたかのようにしれっと彼女は腕を組み、微笑んで立っていた。――いや、待っていた。

「今日こそ桜を好きになってもらうから!」

「……あほくさ」

 そして桜の魅力や生態を熱弁された。

 彼女が放つ圧倒的な気魄に私は言い返せなかった。

「――そもそも平安以前、歌の中に“花”って出てきたらまず梅を差していたんだけど、歌仙西行法師が歌に綴ったことで一役桜が有名になったの。それ以降は歌に“花”って出てきたら桜を差すことになったわけ」

「そうなんだ……」

「あ! あと生態的な話はね、よくニュースとかで単に『桜』って言われたらソメイヨシノのことでしょ?」

「まぁ……」

「桜は他にもいっぱい種類があるのになんでソメイヨシノだけなのか……。既に最も多く植えられているからというのが一番納得する答えね。でもソメイヨシノは子孫を残すことができないって知ってる?」

「いや、知らない」

「子孫を残せないけど最も一般的な桜。なんで増えてるのかって、それはクローンだからよ」

「ふーん」

「明治以降、接木(つぎき)を繰り返されて爆発的に数が増えたの。ソメイヨシノは自然に子孫を残して数を増やしたわけじゃない。あくまでもクローンであって、もとを辿るとたった一本の木にたどり着く。実際、国内のソメイヨシノはすべて単一種なの」

「それって、たくさんいるように見えてもソメイヨシノにとっては全部同じ自分ってこと?」

「そういうこと」

 物憂げに彼女は相槌を打って続けた。

「それじゃあ合わせ鏡で囲われているようなものだものね。自分と同じ時に同じように泣き、笑い、咲いて、散る。相手も自分と同じだから考えてることだってまるっと全部お見通し」

 ――――仮に。

 仮に彼らに意思があるならば、百年以上もずっと続いている合わせ鏡の檻に正気を保てるわけがない。

「……気丈よね。それなのに毎年毎年きちんと決まった時期に咲いて散る……」

 ……それでもなお、合わせ鏡の中にいられるとしたらそれに慣れてしまったからか。

 あるいは…………。

「あ。そろそろ時間だからわたしはこれで」

「じゃあね」

 私は自転車に跨った。

 振り返るとそこにはもう誰もいなかった。



 それから私は毎朝一本外れた裏路地で彼女と語らった。

 彼女は当初の目的を忘れ去っていて、私も彼女と話す目的はなかった。

 ただ、話していた。

 それはもう普通の友達がするそれである。

 相変わらず私は桜が嫌いだったが、桜の下で彼女と話をするのは嫌いじゃない。

 ユーモアがあり、妙に博覧強記なところがあって、いつもころころと表情を変える彼女を見ていると私は楽しくなった。

 ホームルームの時間になると、決まって彼女は裏路地からひとりで走り去る。



 そんなことが続いた四月下旬のある日。

 いつものように一本外れた裏道へ外れるときに私は奇妙な違和感に気づいた。

 もと来た通学路と一本外れた裏路地を交互に見比べると、あるべきではないものがまだある。

 もうすぐ五月になる。

 春は終わって桜はとうに散り、季節は初夏になる。

 もと来た道の桜は既に散って葉桜になった。

 なのになんで一本外れた裏路地の桜だけまだ花を咲かせているのだろう。

 ぱっと見た感じ半分ほど散っているが、それでも葉をつけないのは妙だ。

「なんだか変なんだけど」

「…………なにが、へんなの?」

「桜が」

「さ……くら……?」

 それに彼女の様子もなんだか変だ。

 いつものころころとした顔じゃない。

 おととい辺りからか、苦しそうな表情を浮かべている。

 最初は何か風邪でもひいたのかと思っていたが、そうでもないようだ。

 体調が悪いなら学校を休めばいいのに。

「それに君も顔色が悪いよ?」

「え……? そ、そうかな?」

 今だってそうだ。

 もはや会話をすることさえ困難な激痛が彼女を苦しませているのかもしれない。

 一言声を発する度に、ひゅーっ、ひゅーっと気管から頼りなげな笛の音が聞こえる。

「……やっぱり帰りなよ。私は行かなきゃ」

「――――ま、まってっ……! まだ、時間にはよゆうがっ」

「…………」

 私はこれ以上彼女の痛ましい様を見たくはなかった。

 けれど、ここで断れるほど私は強くなかった。

 結局私は努めていつものように彼女と話をした。



 その日の夜、雨が降っていた。

 課外授業で帰りが遅くなった私はぽつりぽつり街路灯で照らされた通学路をひとりで歩いていた。

 もう四月は終わりそうだが、それでもまだ雨が降ると気温はぐっと下がる。

 冷たい雨を傘で避けて、私は駅に向かう。

 高架下を歩いて駐輪場と病院の裏口の間に差し迫ったとき、ふと視線を脇に向けた。

 ……異様な光景だった。


 桜が、咲いていた。


 しかも満開だった。

 街路灯の光が反射しているのか、薄くぼんやりと桜色のアウラを纏うそれはどう見てもこの世のものに見えない。

 私の身体は刹那恐怖で粟立った。

 その場から逃げ出したくなった。

 大声を上げて喚き散らし、すぐに立ち去りたくなった。

 ……だが、できなかった。

 視線がその桜の幹に釘付けになる。

 薄暗がりの中、幹の陰からひょっこりと顔を出す少女がいる。

 そいつは私の顔をまっすぐに見た。

 もちろん彼女と目が合った。

 そうして幹の陰から出てきた彼女はちょいちょいと手招きする。


『こっちにおいで』


 私は誘蛾灯に向かう蛾のように、ゆらゆらと桜の下へむかった。

 さーっと大地を打ち濡らす雨の中、彼女が傘も差さずに手招きし続けるのをちっとも不思議に思わない。

 むしろ精一杯だ。

 ああ…………なんてきれいな桜だろう。

 背中に冷や汗ともつかぬ何かが流れ落ち、さっきからぞわぞわぞわといやな感じがする。

 吐き気がこみ上げて膝ががくがくと笑い始める。

 …………あ……れ?

 笑っているのか? 私は。

 笑っているのか?

 ……いや、笑ってない。

 私は笑ってなんかいない。

 笑っているのはだれ?

 ひざ? それとも手まねきするあのこ?

 それにしてもおっくうな足だ。

 なかなか動かない。

 なんで桜の下に向かわせてくれないのだ。

 私は早く、そう、早く、桜の下に行かなければ。

 まっている。

 よんでいる。

 こっちにおいでと。

 だから、いかなきゃ。


『こっちにおいで』


 がくがくと震える腕を押さえつけて、私は首だけを回して振り返る。

 ちょうど一本外れた裏路地からもと来た通学路の桜がよく見える。

 おかしい。

 今朝まではすでに花を散らし切ってとっくに葉桜になっていたのに、なぜ今満開なのか。

 …………ありえない。

 これは幻覚?

 それとも現実?

 わからない。

 …………わからない。

 とにかくさくらのしたにいかないと。

「よかった……。間に合った……」

 幹の陰から出てきた少女は胸を撫で下ろして呟く。

 暗がりで、なおかつ雨で少し煙っているが、それでも彼女の顔がよく見える位置まで私は近づいていた。

 辺り一面を桜の花びらが覆う。

 満開だった桜が一気に散り始めてゆく。

「やっぱり私は桜が嫌いだ」

「……」

 彼女は黙って聞いていた。

 心なしか嬉しそうな表情さえ浮かべている。

「咲いて、散ってを決まった周期で繰り返す。それで妙にきれいな花をたくさん咲かせるものだからなおさら人を惹きつける。惹き付けては花見が生じ、その度に好奇の目にさらされて、あまつさえ枝を折られたりする」

 腰から下が言うことを聞かない。

 どうせ逃げられないのなら、やることはひとつだけだ。

「わざと? わざとやってんの? ……だとしたらやめて。見てて痛々しい。どうせ子孫を残せないのなら花を咲かせる意味なんてない」

 なんでそんなに嬉しそうなのだろう?

 ……黙ってないで何か言ってほしい。

「どうせまた次の春も自分を傷つけるのだろう? そうやって自ら痛々しくなっていくのが理解できなくて怖い」

 理解できないということはすなわち恐怖。

 人が暗闇を怖がるのは、そこになにがあるのかわからないから。

 光で照らしてしまえばそこに何があるのかわかるからどうってことはないのだが、そうならなければまず暗闇から逃れようとする。

「……頼むから何か言ってよ」

「…………わたしは」

 応えるようにゆっくりと彼女は口を開いた。

「いえ……わたしたちははるか昔からず~っと見てきた。人と人との出会い、そして別れ。いかような形も、ず~っと見てくれば自ずと目にすることになる」

 苦しくないのだろうか。

 彼女の額には冷や汗が浮かび、息はまた頼りなげな喉笛の音を上げ始める。

「わたしたちは咲く以外にない。増えることもままならなかったわたしたちは、たまたま人々の好みにあってしまい増えざるを得なかった」

 彼女は俯いてぽつりぽつりと語った。

 垂れた前髪でその表情を伺うことはできなかった。

「でもね――」

 彼女はそこで一拍おいた。

 そして顔を上げる。

「はっきりと嫌いって言われたのは初めてだわ」

 ちぐはぐでおかしかった。

 なんでこんなにも笑顔なんだろうか。

「――嬉しかった。だって、今までそんなことを言う人なんて一人もいなかったもの。長きに渡って人々に好かれ、愛でられ、いくつも詠われたわ。それらは全部覚えてる。なんせ全部同じわたし――わたしたちだから」

 私は息を呑んで聞いてた。

 自分の中の熱が、耳からぼたぼた垂れていくような感じがする。

 私の細胞のひとつひとつが少しずつ死に絶えて冷え固まっていくようだ。

「だからやっと終えることができるの。あなたの嫌悪のおかげで、やっと……」

「なに? それはどういう……」

 今度こそ私は本当に冷え切った。

「あなたの嫌悪はわたしにとって解放なの。もうこんな合わせ鏡の檻から出て行ってもいいと言うことでしょう?」

 そこまで言われてやっと私は気づいた。

 彼女が何を求めているのか、私にどうしてほしいのか。

「…………そうだよ。もう私は何も望んでない」

「………………そう。…………じゃあ、終わらせるしかないわね」

 ふいに桜吹雪が強くなった。

 重たく私の頭上に覆いかぶさる桜色の雲を見上げる。

 咲き誇る花びらはわずかな風に煽られて千々にほぐれて流れていく。

 見ると、それは花びらだけじゃない。

 幹も、枝も、根も、すべてが色を失い桜色の花びらとなって夜の闇に溶けていく。

 振り返るともと来た通学路の桜も同じだった。

 幾千、幾万の花びらとなって仄暗い雨の中に消える。

 桜吹雪はいっそう激しくなった。

「出会いの喜びも、別れの悲しみも、よく知っているわ」

 ほのかに薫る甘い匂いのなかに、微かな彼女の声が聞こえた。

 もう、そこには痛々しさなど無かった。

「幾千もの別れの悲しみがあっても、その裏側にまた幾千もの出会いと喜びが待っている。出会いの数だけ別れがあり、別れの数だけ出会いがある。別れがつらいのはね、次にまた出会ったときの喜びをより強く感じるためにあるの。…………ずっと見てきて、やっと気付けたわ。案外すぐそばにあったのに、ね」

 彼女は皮肉っぽく笑う。

「でもね、だからこそ、わたしは願う。たとえこのまま、朽ち、枯れ果て、散りゆくとも、いつかまた、生まれ変わってあなたに出会えますように、って…………」

 彼女の姿もまた桜色の灰にのまれてかき消えつつあった。

「…………今度こそ人に生まれ変われたら……そのときまで覚えててくれる?」

 私はまっすぐに彼女を見ていた。

 ……見届けるぐらいで償いになるとは思っていない。 

 まして許されるわけがない。

 それでも、もうこれ以上は――――

「ああ、きっとだ。約束する」

「絶対よ……。――きれいね、今年の春も、咲かせきったわ。我ながら見事な出来ね」

 成し遂げた成果に惚れ惚れする彼女が、ふいに後悔で表情をくもらせた。

「でも、最期まであなたが桜を好きになるようにはできなかった……。………………来年は、……らい、ねんは、……………………きれいな……さく…………ら……を…………あなた、…………と――――」

 きらりと最後に一粒の光が輝いた。

 桜色の灰は雨に煙って夜に溶けた。



 …………私は大嫌いな桜のために、ただ泣き続けた。






 あの夜にソメイヨシノは消えた。

 私がいた高架下からも、全国からも。

 ……そして、世界中からも。

 もうどこにも、あの桜はない。

 もともと単一種のクローンだったのが災いしたのだろう。咲くときがいっしなら、散るときだっていっしょ。

 ちょうどあの夜に、ソメイヨシノは種としての寿命を迎え、一斉に枯死してしまった。

 ――それでも桜程度ではびくともせずに地球は回り続けるし、嫌でも次の日はやってくる。

 私はその日その日を淡々と過ごした。

 やがて、夏になり暑くなって、秋になって涼しくなった。季節は移ろいで冬になり、寒くなった。

 (みぞれ)が降るたびに、まだあの夜の凍える寒さを私は思い出していた。

 そうして雪が溶けて、春になった。

 桜は――ソメイヨシノは――もういない。

 私の通学路から桜はすべて消え去った。

 植えられていたのはソメイヨシノだけだ。

 自転車で駆け抜けるには少し寒いくらいの空を見上げ、わたしは自転車を押しながら歩いていた。

 朝の通学路は混んでいた。

 …………そういえば、去年のちょうどこの時期か。私が彼女と話していたのは。

 苦い寒さが私の背筋を駆け下りた。

 …………だが、ふと桜の匂いがした。

 わずかに薫るそれが私の苦い寒さを一瞬で温めてしまったのだ。

 周りを見渡しても、当然桜は無い。

 なのになぜ薫ったんだろう?

 怪訝に思いながらも私はいつものように登校した。

 教室でじっとホームルームの始まりを待ち、チャイムが鳴ると号令がかかる。

 起立、礼という条件反射。

 皆が席に座るのを確認した担任は、嬉しそうに告げた。


「よーし。みんな、よく聞け。今日からうちのクラスに新しい仲間が加わるぞー」


 教室が沸き立った。

 思いがけぬ編入生に悲鳴とも怒号ともつかぬ声が教室中を入り乱れて掻き回す。

「はーいしずかにー」

 ばんばんと担任が教卓を叩き、クラスを静めた。

「そんなんじゃ転校生びびっちゃうでしょーが、もー。はい、じゃー入ってきてー」

 担任がドアに向かって手招きすると、一人の女子生徒が入ってきた。

 静かだった。

 そして、ふわりと桜の匂いがした。

「はい、今日からうちのクラスの新しい仲間、紫櫻(しおう)さんだー。みんな仲良くなー」

 静まり返った教室で、彼女は皆に向かって一礼した。

 相変わらず私だけはしれっと窓の外を見て、今日も良い天気だなー、とつまらないことを考えていた。



〈了〉


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