第65話 司君のしたいこと
司君は家に帰ると、玄関に出迎えに来たお母さんに、
「帰りに大山に会った」
と突然言った。
「大山?」
お母さんの顔が一気に、険しくなった。
「また何か言われたの?」
「ああ。田島先生からちゃんと注意を受けたかどうかってさ」
「なんの注意よ?」
「母さんが、穂乃香の親御さんに報告しなかったから、ちゃんと報告を入れるようにとか、これからも2人が変なことにならないように見張ってろとか、そんなようなことだろ?」
「むかつく。大山」
お母さんの頭から、湯気が上ったように見えた。
「…問題を起こされたら困るってさ。学校側の責任になるんだからって」
「…なによ、それ」
「そのまんまだろ。結局は自分が責任を取らされるのが嫌なんだろ。生活指導の先生だから、なんか問題があると、責任を取らされるから、そうならないよう必死なんじゃないの?」
「生徒のためにじゃないってこと?」
「…だろ?」
「……」
お母さんの顔は真っ赤になった。額には何本かの血管が浮き出している。
「…そんなに怒ることないよ。あんな先生のことで怒る方がもったいない」
「え?」
「俺も、学校でよそよそしくするのも、やめることにした」
「…よそよそしく?」
「穂乃香と、学校ではほとんど話もしていなかったし、近づくのもやめていたんだ。呼び方だって、名字にさん付けしていたし」
「そうだったの?そこまで徹底していたわけ?」
「…大山に、穂乃香のご両親のほうに連絡いれられたら、たまったもんじゃないからさ」
「そうね。あの大山ならやりかねないものね」
「でも、やめた。なんだか、ばからしくなった。あんな先生のために、俺ら何をしてきたんだろうってさ」
「そうよ。もう穂乃香ちゃんのご両親だって2人の交際はしっかりと認めているんだし、堂々と仲良くしたらいいじゃないよ」
「…母さんならそう言うと思った。思ったけど、一応、報告したかったんだ。もしかしたらまた、大山がうちに電話したり、呼び出したりしてくるかもしれないから、そうなる前に、一応ね」
「…いいわよ。電話があったら、あなたたちの交際に関しては、うちは認めていますってちゃんと言うから。ううん、このさいだから、2人は結婚の約束もしているし、な~~んの問題もありませんって言っちゃうわよ」
え?お母さん、今、なんて?
「…うん。じゃ、頼んだよ」
司君はにこりと微笑んでそう言うと、2階に上がって行った。
え?た、頼んだよって?
「穂乃香ちゃん。大丈夫よ、心配はいらないわ。穂乃香ちゃんのご両親だって、もし長野に電話を先生がしたとしても、転校にするようなことはしないから」
「はい」
「だって、2人の結婚だって、認めたくらいだし。ふふふふ」
…うわ。お母さん、なんだか意味深な笑いっていうか、すごく嬉しそう。
お母さんは、うきうきとダイニングのほうに行ってしまった。私は、なんだかドキドキしながら2階に上がった。
部屋に入り、ぺたんとマットに座ってから、落ち着いて考えてみた。
「そっか。もう、学校で司君とよそよそしくしないでいいのか。じゃあ…」
もう学校で寂しがらないでもいいんだ!教室で、司君と話してもいいんだ!
手つないで、帰ってきてもいいんだ。って、今日もそうしたっけ。
う、う、う、嬉しいかも~~~~!
そうしたら、2人は別れるなんて噂も広まったりしないだろうし、司君を狙って来る女子も減るかもしれない。
わあ、嬉しいことばかりだ。
私はうきうきのまま、お風呂に入った。そして、うきうきのまま、部屋で髪を乾かしていた。すると、
「穂乃香~~~~。ドライヤ~~~~」
と言いながら、守君が2階にあがってきた。
「ごめん。まだ、髪乾いていないの」
ドアを開けて、守君にそう言うと、
「おっせ~~ぞ、穂乃香」
と守君が文句を言った。
でも、そのあとにいきなり悲しげな顔をして、
「穂乃香、高校卒業したら、長野に行っちゃうのか?」
と聞いてきた。
「…行くかもしれないし、まだわかんないよ」
そう言うと守君は、
「行くなよ。ずっとこの家にいたらいいじゃん」
とそう言って、バタバタと階段を下りて行った。
なんだか、泣きそうな顔をしていたなあ、守君。なんて思ってその場に佇んでいると、司君が部屋から出てきた。
「…守のやつ」
「…守君、泣きそうだったよ」
そう言うと司君は私のほうを見て、
「部屋来ない?髪、乾かしてあげる」
と言ってきた。
うそ。司君が?
私はドキドキしながら、司君の部屋に入った。
「守、本当に穂乃香に惚れてるんだね」
髪を優しく乾かしてくれながら、司君がそう言った。
「…う、そうかな。お姉さんができたって、そう思ってるだけだと思うんだけどな」
「…守もあと3年もしたら、高校生だよな」
「うん」
「…ずっと穂乃香がこの家にいるんだとしたら、やっぱり、やばいかな」
「何が?」
「守、ずっと穂乃香のこと好きでいたら、俺のライバルになるだろ?」
「え~~~?ならないよ。だって、4つも年下だよ?」
「4つしか離れてないんだよ?十分恋の対象になる年齢差だろ?」
「そうかな~~」
「今はまだ、中学1年だし、あんなに小さいし、声だって女みたいだし。だけど、高校生になったら、もっと男っぽくなるんだよ?」
「だけど、私、司君にしか興味ないし」
「…穂乃香がそうでも、あっちは違うだろ?」
「…守君?」
「…うん。やっぱり、高校卒業したら長野に行く方が、俺にとっても安心だ」
心配することなんか、一つもないと思うんだけどなあ。心配性なんだなあ、司君は。
自分の弟にまで、嫉妬しちゃうなんて…。
「司君」
「ん?」
髪を乾かし終えて、私と司君はベッドに座った。
「学校で、本当に話とかしてもいいの?」
「俺と?」
「うん」
「いいよ」
「じゃあ、司君って呼んでもいいの?」
「いいよ」
「司君も穂乃香って呼ぶの?」
「…うん」
「……じゃ、じゃあ、学校でも仲良くしてもいいの?」
「…うん」
司君は私に顔を近づけ、
「キスしたり、押し倒したり…っていうのは、やめておくけど」
とそう小声で言ってから、キスをしてきた。
そんなの当たり前だよ~~~。もう、何を言ってるんだ。
司君はそのまま、私をベッドに押し倒した。でもその時、
「穂乃香~~!ドライヤ~~!!!」
という守君の叫び声が一階から聞こえてきた。
「…あいつ、実はわかってて邪魔してるんじゃないのか」
司君はそう言うと、ムスッとした顔でベッドから下りてドライヤーを手にした。そしてそのまま、ドアを開け階段をドスドスと下りて行った。
私はすぐに起き上がり、服や髪を整えてから階段を下りた。今、ベッドに押し倒されたって、もうすぐに夕飯だし、困っちゃうだけだよ。司君はそういうの、わかってて押し倒してきたのかなあ。
「あれ?」
一階に私が下りてきたからか、司君は不思議そうな顔をした。私が司君の部屋で待っているとでも思ったんだろうか。
「司君、お風呂入るんでしょ?これから」
「え?あ、そうか。風呂に入ってからか」
「違うよ。夕飯だってまだだし、それに…」
守君は、洗面所でドライヤーをかけながらも、こっちを見て私たちの話に耳を傾けているようだ。それに気が付き、私は話すのをやめた。
「それに、何?」
「宿題あったから、あとで教えてね」
私はそれだけ司君に言って、さっさとリビングに入って行った。
リビングではメープルが丸くなっていたが、私が入って行くとすぐに尻尾を振ってすり寄ってきた。
ソファに座って、私はメープルに抱きついた。そして、にやついていた。
もう明日から、よそよそしくしないでもいいんだ。
きゃ~~~~。
夕飯を食べている時も、なんだか嬉しくてにやにやしてしまった。
「司、3者面談どうだった?」
お父さんが司君に聞いた。司君は真面目な顔をして、
「うん、長野の大学に行きたいって言ったら、驚いていたけど。でも、行きたいならいいんじゃないのかって、そう先生は言ってたよ」
と答えた。
いけない。私ったらにやついてばかりいて。司君は進路のことについて、真面目に考えているのに。
「そうか。あとはどんな方向に進みたいかだな」
「司は何を勉強したいの?」
お母さんが今度は質問した。
「…俺、前は武道のこととかまったく興味なかったんだけど、今はけっこう興味あって」
「武道?でも、大学で武道課はないでしょう」
お母さんが驚いてそう言うと、お父さんは静かにうなづきながら、
「そうか。司も武道に興味を持ったのか」
と嬉しそうに言った。
「日本の歴史にも、興味があって…。それで、ネットで調べてみたんだけど、人文学っていう学部、なんだか興味あるんだよね」
「人文学って?」
お母さんがそう聞くと、司君は説明をしようとしてから、
「やっぱ、ネットで見て。うまく説明できない」
とそう答えた。
「なるほどな。いいんじゃないのか、司」
お父さんはにこやかにそう言った。でも、お母さんの方はめずらしく心配顔だ。
「でも司、それを勉強して、将来何になるの?」
「…まだわからない。ただ、仕事にはならないけど、父さんみたいに子供たちに武道を教えるのもいいかなって、そう思ってる」
「教育学部に行って、先生になるっていうのはどうだ?司」
お父さんはまだにこやかな顔のまま、司君に聞いた。司君が武道に興味を持ってくれたのが、相当嬉しいようだ。
「それも考えた。でも、哲学とか、心理学とか、そういうのにも興味があって」
「なるほど。お前、理数系の頭してるから、理学部に行くのかと思っていたよ」
「俺もそう思っていたけど…。でも、そういうことをもっと勉強したいとは思えなくってさ」
「ふうん」
お父さんはそう言うと、お茶をすすった。
「自然も、興味あるんだ」
「自然?」
「うん。山や、森」
「環境保護でもしたいのか?」
「いや。ただ単に興味があるだけ」
「そうか」
「いろんなところを散策してみたり、あ、登山もしてみたいな」
「いいかもな」
「…スキーもしたことないけど、してみたいし」
「え?したことないの?司君」
「穂乃香はあるの?」
「中学3年の時と、去年、学校でやってるスキー教室に参加したよ」
「へえ。滑れた?」
「ボーゲンがやっとできるようになったところ。あ、きっとすぐに司君に追い抜かれちゃうね」
「そうかな。でも、スキーってあれかな。スケートができたら、できちゃうもんかな」
司君がそう言うと、守君がすかさず、
「兄ちゃん、スケート上手だもんね」
とそう口をはさんだ。
そ、そうなんだ。さすが司君。スケートもできちゃうのね。
「じゃあ、司は長野に行ったら、いろんなしたいことが叶えられるわけね」
お母さんがそう言うと、司君はにこりと微笑んでうなづいた。お母さんの顔からはもう、心配している気配は感じられなかった。
それどころか、お母さんの顔はちょっと意地悪そうな顔つきになり、
「それも、大好きな彼女と一緒に長野に行けるなら、もうパーフェクトじゃないよ、司」
と司君のことをからかいだした。
ゴホッ。司君はその言葉に赤くなってむせてしまった。
「なんだよ!もう長野に行くって決まっちゃったみたいじゃんかよ。でも、兄ちゃんが行きたいなら、兄ちゃんだけ行ったらいいじゃんか。穂乃香はこっちに残っても別にいいんだろ?」
あ、一人、長野行きを快く思っていない人がいたんだっけね。
「よくないわよ~~。穂乃香ちゃんだって、司のそばにいたいわよねえ?」
「はい」
私は、思わず顔を赤くしてしまったと思う。一気に顔が熱くなった。
「じゃ、長野でどうすんの?まじで同棲するの?」
「中学生のあんたが、心配しないでもいいのよ、守」
「なんだよ!心配じゃないのかよ?母さんは」
「何が心配なの?守は!」
「……。たとえば、同棲なんかしたら、赤ちゃんができたり」
ブフッ。お茶を飲んでいた司君は、思い切りふきだしてしまった。
「ま、守。そんな心配してんのか?」
お父さんまで目を丸くしてそう聞いた。
「だってさ」
「いいじゃない。妊娠したら産めばいいだけのことよ」
「母さんは、楽天家すぎるんだよっ」
守君が突然切れた。
「お母さんだって、お父さんと何年も一緒に住んでいたけど、結婚してからよ、妊娠したのは」
お母さんはそう言ってから、
「なんで、中1のあんたに、こんなこと話してるのかしらねえ。とにかく、あんたが心配することじゃないの。あんたはあんたで、自分の成績の心配でもしていなさい。まったく、期末の結果さんざんだったでしょ?」
「だって、兄ちゃんが勉強見てくれなかったから」
「じゃあ、塾に行ったら?」
「嫌だよ。部活だけで俺クタクタなんだから」
守君はそう言うと、
「ごちそうさま」
と小声で言って、リビングに移動した。
「本当にお兄ちゃん子で困ったわよね」
お母さんはそう言ってから、お茶をすすった。
「……」
司君は黙っていた。
そうか、そうだよね。守君はどっちかっていったら、私よりも司君に頼っていたんだし、司君がこの家から出て行くことの方が、寂しいことなんじゃないのかな。
リビングからは、テレビの音だけが聞こえた。どうやらお笑い番組らしい。でも、守君の笑い声は全く聞こえてこなかった。
「守君、司君がいなくなったら、きっと寂しいですよね」
ぽつりとそう私が言うと、
「一人息子みたいに、のほほんとここで大きな顔をして暮らしていくから大丈夫よ」
とお母さんはまた、呑気なことを言って笑った。
でも、けして能天気なわけじゃない。お母さんの優しい配慮なんだ。私や司君が、守君のことを心配しないようにって、そう思って言ってくれてるんだよね。
司君はそんなお母さんを見て、
「だよな。あいつ、俺よりもタフそうだしな」
とそう言って、くすっと笑った。
きっと、お母さんの優しい気遣いに、司君も気が付いたんだよね。
私は、この優しいあったかい家が好きだから、ここから出ていくのはちょっと寂しいな。でも…。
司君を見た。お母さんと静かに笑いながら、冗談を言い合っている。
その笑顔をずっとすぐそばで見ていけるなら、それがやっぱり私の1番したいことかな。




