第56話 怖いくらいの…
家までの帰り道では、司君はちょこっと距離を開ける。会話も少ない。
そして家に着いても、お母さんの前だと、そんなに私にひっついてくることもしない。
夕飯の時だって、すぐ隣にいるのに、司君は私に話しかけてくることもほとんどない。まあ、いつも、食べている時には静かなんだけどさ。
後片付けは勉強があるんだから、いいわよ。とお母さんに言われ、私と司君はは2階に向かった。すると、守君がすぐ後ろからついてきて、
「穂乃香って、なんの教科が得意?」
と聞いてきた。
「………美術?」
振り返ってそう答えると、
「なんだよ~~。それじゃしょうがないじゃん」
と守君はがっかりしている。
「何が?」
「勉強見てもらおうと思ったのに」
「司君に頼めば?」
「駄目。俺も期末の勉強あるし、穂乃香だって、期末の勉強しないとならないんだ。守は自分でどうにかしろ」
司君は無表情でそう答えた。
「ふんだ。どうせ兄ちゃん、穂乃香と一緒に勉強するんだろ?」
「そうだよ。それが?」
「ずるい。兄ちゃんばっかり」
「…もう一回、念のため言っておくけど、穂乃香は俺の」
「彼女だろ?」
「そうだよ。お前の彼女でもなんでもないんだよ」
「……」
守君はふてくされた顔をして、自分の部屋に入って行った。
「なんなんだ、あいつは」
司君はそう言ってから、私の腕を掴んで、
「こっち」
と言って、司君の部屋に私を引き入れてしまった。
「もう勉強するの?じゃ、私、勉強道具持ってこないと」
「いいよ。俺の教科書あれば、どうにかなるだろ?何からする?英語?」
「うん」
私は床にクッションを置き、その上に座った。司君は英語の教科書やノート、ルーズリーフや筆記用具、そして辞書と参考書をまとめてテーブルの上に、どんと置いた。
そして…。
「つ、司君、なんで私の後ろに座ったの?」
司君はなぜか、私の真後ろに座ってしまったのだ。
「ここ、すぐ後ろにベッドがあって、背もたれになるから楽なんだ」
そういうことじゃなくって…。えっと。
「穂乃香は俺に、よっかかってもいいよ?」
「え?」
そして、司君は私の後ろから手を伸ばし、英語の教科書を開いた。
「じゃ、和訳からしてみる?穂乃香、わかんない単語とかない?」
うそ。このままの体勢で勉強するの?
無理無理無理。私、すんごいドキドキしてきちゃったし。それに司君が話すたびに、息が首や耳元にかかって、それだけでも、胸が高鳴っちゃう。
「無理です」
「え?和訳?」
「違う。この体勢で勉強するのが無理です」
「なんで?」
「なんでって、司君が後ろから抱きしめているから」
司君は片手で教科書を持ち、もう片方の手は私のお腹に回していた。
「できるよ」
そう言うと、司君は私をもっとギュって抱きしめてきた。
「そ、そんな抱きしめられて、勉強できるわけないじゃない」
司君、変だよ。変。今までは涼しい顔して私の前に座り、まるで私に何て興味ありません…くらいの距離感を持って、クールに勉強していたじゃない。教科書や参考書だけに目をやり、ちっとも甘い恋人のようなムードもなくって、逆に寂しいくらいだったのに。なのに、なんで?いきなり、なんで?
あ、家に帰ったらべったりするからねって言ってた。でも、こういうことだったの?!
「じゃ、ここ読むから、そのあと穂乃香が訳してね?」
司君はそう言うと、いきなり流暢な英語で読み始めた。
まままま、待って。このまま司君は勉強を進めていくわけ?司君は勉強に集中できるわけ?ねえ!
「はい。訳してみて?」
え~~~!!!
私は、どうにかしどろもどろで訳してみた。
「ああ、いい線いってるんだけど、もうちょっとかな」
そう言って、司君はすらすらと今読んだ文を和訳した。
「あ、そうか。そう訳せばいいのか」
「うん。じゃ、次のところ」
「ここね、この辺の文、どう訳したらいいかわからないの。単語を直訳すると変になるよね」
「うん。ここはね…」
司君は私のすぐ後ろから、説明を始めた。ああ、やっぱりドキドキしちゃう。でも、なぜか、司君の声がす~~って、頭に入ってくる。
司君の声って、涼しげで素敵…。
司君は、時々、ギュって私を抱きしめたり、なぜかうなじに頬ずりをした。そのたび、ドキンって胸が高鳴ったけど、でも、不思議と勉強は進んで行った。
いいのかな。でも…。こんな勉強の仕方していて。
ふと、罪悪感と言うか、後ろめたさを感じた。どうも、勉強っていうのは、ちゃんと机に向き合ってしないといけないんじゃないかっていう、そんな思いが込み上げてくる。
たとえば、ラジオを聞いたり、テレビを観ながら勉強しても、頭に入るわけはないとか、寝ながらとか、食べながら勉強はするものじゃないとか、そんな思いもあって、私は昔から、勉強というと、ちゃんと机に向かってしていたものだ。
逆に言うと、ラジオを聞きたい時や、テレビを観たい時には勉強はできなくなり、それで勉強をする時間が、大幅になくなったりもしていた。
食べながら勉強もできないから、夜食を食べるときはいつも、わざわざダイニングに行って食べた。だから、その時間も、ロスになっていた。
それも、ゆっくりと食べ、食べ終わると、休憩までしていたからなあ。
だから、今のこの状況も、どっかでやましいことでもしているような、そんな気持ちになる。
こんな、べったりと司君とくっついて、勉強なんてしてもいいの?
ああ、勉強の時間は、恋人同士の会話もなく、まるで家庭教師と生徒のような、そんな真面目な雰囲気の中でしていて、寂しいと感じたりもしていたから、今の状況はまさに、恋人!って感じで、もっと喜んでいてもいいのに、私ったら。
このへんが、古風だの、固いだの、真面目だの、言われるところなのか。
それにしても。司君も真面目で古い考えを大事にしていそうだったから、かなり私は驚いている。
チュ。
「え?」
今、うなじにキスしなかった?
「穂乃香。今から言う英語、和訳してみて?」
「え?え?」
いきなり司君は、べらべらと英語を話し出した。
「わ、わかんないよ。もっと、ゆっくりと言って?」
すると、司君はゆっくりと話し出した。
「あ、えっとね」
今の文章。司君が今覚えた単語を取り入れて、文章を作ってくれたんだ。私は、どうにかこうにか、和訳してみた。
「あはは。惜しい。微妙に違ってる」
司君はそう言って笑うと、正解を教えてくれた。
「そっか~~。あ~~、難しいよ」
「難しい?どの辺が?」
そんなこんなで、司君は、特に教科書やノート、そして参考書を使うこともなく、べったりとくっついたまま、勉強を進めて行った。
1時間があっという間にたった。
「さて。じゃ、数学でもする?」
「数学はみんなでするんでしょ?私、歴史もやばいんだ」
「苦手?」
「めちゃくちゃ苦手」
「面白いのに」
どこが?
司君はいったん私から離れ、英語の教科書やノートをテーブルから床に移動させ、歴史のノートと教科書を並べた。
「歴史は、この辺を覚えていたらいいと思うんだ」
司君はそう言って、また私の後ろに座った。あ、また、そこに座るのね。
そして私の後ろから手を伸ばし、教科書とノートを開き、この辺って、指をさして教えてくれた。
「じゃ、今から10分間、覚える時間あげるから、覚えて?」
「え?」
「俺も覚える。で、そのあと問題のだしあいっこね?」
「え?」
「はい。始め!」
そう言うと司君は、時計のタイマーをセットした。
えっと、ええっと?私は慌てて、司君が指差した個所を、必死で覚えた。
その間も、司君は私の背中に頬ずりをしたり、むぎゅって抱きしめてきたりしている。
うわ。そのたびに、ドキンってしちゃうんだってば。でも、そんなときめいている場合じゃない。
タイマーが鳴った。
「はい、終了。じゃ、問題出すよ」
え?いきなり?
司君はノートも教科書もパタンと閉めた。そして、問題を出してきた。
「えっと。それは…」
私は今覚えたばかりのところだから、なんとか答えられた。
「正解。じゃ、次は穂乃香が問題を出す番」
え?問題を?
私は、今覚えた個所を、どうにか問題にして司君に言った。司君はいとも簡単に答えた。
「問題出す方が、難しいね」
「でしょ?でも、そうすると、けっこう覚えるでしょ?」
ああ、そうか。そうやって、私が覚えやすいようにしてくれてるのか。
そのうちに楽しくなり、私たちは笑いあいながら、問題を出しあった。
11時を過ぎた。
「穂乃香。パジャマと制服、持ってきちゃえば?」
「え?隣で寝ていいの?司君、狭くならない?」
「窮屈かな。穂乃香の部屋に、布団並べて寝ようか?」
「うん!」
そして、私と司君は私の部屋に移動して、2人で手を繋いで寝た。
ああ、なんなんだ。このめくるめくハッピーな時間は!まるで、新婚生活のようだ。
翌朝、一階に2人仲良く下りていくと、廊下で守君が仁王立ちしていた。
「昨日、勉強なんてしてなかったじゃん!」
「してたよ」
司君は無表情のまま、答えた。
「してないよ。2人の笑い声ばっかり聞こえてた。ゲームしてたか、映画でも観てたんじゃないの?」
「勉強だよ。英語と歴史の勉強してた」
「でも、笑ってばかり」
「ああ、楽しくって笑いながら、勉強してた」
「げ。信じられない。勉強が楽しいわけ?」
「…」
司君は、横目で守君を見ると、
「残念だな、守。彼女とすると、勉強まで楽しくなるんだよ。お前も彼女、作れば?」
としれっと、そんなことを言ってのけた。
「し、信じられない。母さん!兄ちゃんがのろけてる!」
「守。時間!遅刻するわよ、朝練」
「今日ないよ。もうテスト前だから」
「じゃ、なんでこんなに早くに起きたの?」
「一言兄ちゃんに、文句を言おうと思ったんだよ、なのに、逆にのろけられた!」
「いいじゃないよ。仲がそれだけいいってことなんだから。ほら、朝ごはん食べなさいよ、守」
お母さんはそう言って、守君の腕を引っ張り、ダイニングに連れて行った。
私は横にいた司君の顔を見た。司君はまだ、しれっとした顔をしていた。
「司君が、守君にのろけるだなんて」
「え?」
「私も、びっくりした」
「……。あいつにはきつく一回、言っておこうと思ってたんだ」
「何を?」
「いくら穂乃香に惚れても無理だって」
「ほ、惚れる?!」
「惚れてるだろ?しっかりと」
ないないない。私は首をぐるぐると横に振った。
「惚れてるよ。多分、初恋だろ?」
「じゃあ、司君の初恋は?」
いつ?いつなの?
「………」
司君は黙って私を見た。そして、しばらく腕組みをした。
悩んでるのかな。なんで?思い出してるから?それとも、なに?言い出しにくいとか?
まさか、キャロルが…。なんてこと言わないよね?
「ああ、そういえば、俺も、初恋か」
「え?」
「穂乃香が…」
ええ?!うそ!
「すごいね。初恋が叶ってるんだな、俺の場合」
司君はそう言うと、はにかんだ笑顔を見せた。
「でも、穂乃香は違うよね?だって、聖先輩が好きだったわけだし」
「う、う、うん」
そうだ。私の場合は、高校1年が初恋。遅いけど…。でも、男子苦手だったしなあ。
「司君は、幼稚園の先生とか、小学校で、同じクラスの女の子とか、いないの?好きだなって思った子」
「いない」
「まったく?」
「いない」
うそ。
「穂乃香が初めて」
うそ~~~!!!!
やば。私、顔、真っ赤かも。
「遅い?初恋が高校1年って」
「え?い、1年?」
「そうだよ。穂乃香を好きになったのは、高1の夏だから」
あ、そうだった。私が聖先輩に浮かれてた時、司君は私のことを…。
うわ。もっと顔が熱くなった。
「遅い?」
「ううん。そんなことないと思うけど」
かかかっ。自分で言っていて、もっと照れた。私が初恋の相手なの?
「……こういう女の子がいいなって、そういうふうに思ってたことはある。実際にそんな女の子には出会ってなかっただけで」
「え?どんな子?」
「大和撫子っていうの?髪が長くて黒くて、古風な感じの日本人って女の子」
「………」
あ、あれ?それって。
「着物とか似合いそうな」
「……。それが、司君の理想のタイプ?」
「うん。小学校の頃から、それは言ってたかも。アメリカでも」
だから、キャロルが私は司のタイプだって言ったの?あ、そういえば、守君が私を見て第一声が、もろ、兄ちゃんのタイプって感じ…って言ってたかも。
「高校1年の夏、ずっと探していた女の子に俺は、出会っちゃって、恋をしたってわけ。わかった?」
「!!!!」
どひぇ~~~~。
「私、大和撫子でもなんでもないからね」
「…」
「私、そんなに古風じゃないし」
「そうかな」
「そ、そうなの。きっと、思ってるよりもずっと、女の子らしくないし、ダメダメな女の子だよ」
「あはは。ダメダメ?」
「そうだよ、料理も苦手だし」
「でも、一生懸命に作ってくれたじゃん」
「だけどっ」
「くす」
司君は笑って、私のおでこにキスをした。
「いいんだ。穂乃香は、穂乃香で。俺、穂乃香を知っていくたびに、好きになってるから」
「え?」
「そのままで好きだから。ね?」
うっわ~~~~。
朝から、やられました。司君の可愛い笑顔と、言葉に。
クラ~~~~~。
ああ、なんなんだ。この超ハッピーな時間は。
こんなに幸せでいいの?あとで、ぎゃふんってならない?このまま幸せな時は続いてくれる?
怖いくらい幸せって、こんなことを言うんだろうか。




