サンゴ礁の賽の目――タラワ博徒戦記――
第一章:十九歳の鬼下士官
1943年、赤道直下の太陽が灼きつける南洋の孤島、タラワ・ベティオ島 。
「おい、新兵! 手を休めるな、早くその土砂をモッコに詰めろ!」先任の上等水兵の怒声が響くなか、男は黙々と円匙を赤土に突き立て、強固な鉄筋コンクリート・トーチカの基礎となる溝を掘り進めていた。
男の名は、木村源次。海軍設営隊のなかでは、名もなき一兵卒――いや、未成年であるがゆえに正式な徴兵(入営)すらまだ迎えていない、わずか十九歳の土方作業員(軍属)という表向きの肩書きだった 。だが、坊主頭にねじり鉢巻、足元はゲートルに地下足袋というその出で立ちは、ただの少年作業員のそれではない。源次は旧制中学の時代、軍事教練をカサに着て威張り散らす配属将校を「筋が通らねえ」と正面から殴り倒し、退学処分となった男だった。その後、追われるようにして東京・南千住のテキヤの親分の元へ転がり込んだ。その親分が死んだ後、源次は本格的な博徒の道へと足を踏み入れる。しかし、血気盛んな十九の源次は、激しい縄張り争いのなかで敵組織の賭場を容赦なく荒らし回り、結果としてヤクザ社会を破門され、追われるようにしてこの最前線の泥まみれの部隊に潜り込んできたのだ。当時の海軍の現場では、古参の兵曹(下士官)どもが「軍紀」を免罪符にして、新兵の尻を木の棒で激しく叩きのめしたり、頬が腫れ上がるまで殴りつける私的制裁が当たり前のように横行していた 。
だが、源次はそんな理不尽な暴力を絶対に振るわなかった。南千住の露地で学んだ、身内を命がけで守る「本物の人情」が彼の身体を支えていたからだ。自分を慕ってくる年上の志願兵(新兵)たちには、円匙の正しい踏み込み方を教え、ツルハシの重さで痛めた手にそっと包帯を巻き、自分のなけなしの配給の飯を「食っとけ」と大衆酒場の煮込みでも進めるように笑って差し出す。その驚くほどの面倒見の良さと世話好きな性分ゆえに、新兵たちは源次のギロリと輝く「大きな目」を恐れながらも、彼を前線の「古参の鬼下士官」そのものの兄貴分として心から崇拝していた。「フゥ……」源次が作業服のボタンを外すと、熱帯の蒸せ返る熱気のなか、滝のような大汗が吹き出し、痩せ細りながらも労働で極限まで引き締まった十九歳の肉体を濡らした。その背中から腕にかけて、南千住の彫り師が命を懸けて墨を入れた、禍々しくも美しい八岐大蛇の入れ墨が、大汗のなかにギラリと狂暴に浮かび上がる。源次が履き古したズボンの奥、その太ももの裏には、南千住を去る時から肌身離さず隠し持っている、一本の剥き出しの匕首が静かに鎮座していた。「源次の兄貴……。本当にアメ公がこの島に来ると思うかい?」怯える新兵がモッコを担ぎ直しながら、縋るように声をかけてくる。源次は、海軍から官給品として支給された純白の越中褌をグッとしめ直し、その大きな目を水平線の向こうへと向けた 。「来るさ。アメ公の海兵隊ってなぁ、千住の刑事やあの賭場の身内どもが束になって襲ってくるより性質が悪ぃ。……だがなぁ、俺たち土方がこのえんぴとツルハシで作ったコンクリートのやさ(要塞)は、嘘をつかねえ 。
命を懸けた十九の大博打だ、モッコを空にする暇がねえくらい、とことん張ろうじゃねえか。テメエらのケツは、俺がこの匕首に懸けて守ってやる」
第二章:鬼下士官を叩き折れ
赤道直下のタラワ・ベティオ島は、生きながら焦熱地獄の釜の中に放り込まれたかのような、凄まじい熱帯の気候だった。日々の過酷な陣地設営労働のなか、喉を潤すための飲料水はほぼ底をつきかけていた。当時の海軍には近代的な濾過装置などなく、突如として天を割って降り注ぐ激しいスコール(熱帯性豪雨)だけが唯一の癒やしであり、兵たちはその雨水をバケツやドラム缶に必死に貯めて急場を凌いでいたのだ 。
当然、一人一日あたりの給水量が厳格に決められていた。だが、泥まみれの木村源次は違った。「ほらよ、お前ら。誰も見てねえうちに、奥歯で噛み締めて飲め」源次は、南千住のテキヤ仕込みの神がかった手際で、上等水兵や先任のうるさい監視の目を盗み、貯水ドラム缶から貴重な水を水筒へと見事にギンバイ(強奪)していた。そして、喉を枯らして怯える新兵(新米の水兵)たちに、その命の水を惜しげもなく静かに回し飲みさせてやったのだ。「源次さん……、すいません。貴重な水を……」涙を流して貪るように水をすする新兵たちのケツを、源次は絶対に木の棒で叩いたりはしなかった。その一方で、戦術的な綺麗事を並べる海軍士官(幹部)連中は、泥まみれの土方(軍属)たちを「視察」と称して虫ケラのように見下すだけだった。威張るだけの士官どもは、裏で内地の美味い肉を食い、上等な酒を飲み、夜になれば将校専門の慰安所へとそそくさと消えていく。源次は大きな目をギロリと光らせ、その海軍士官どもの背中に激しい侮蔑の唾を吐き捨てた。「ケッ……、どいつもこいつも、口先だけの糞回し野郎だ。現場を知らねえこの島の海軍士官どもも、俺は大嫌いなんだよ」源次がここまで軍隊を、エリートの将校どもを憎むのには、絶対に譲れない魂の「筋」があった。
源次の実の兄貴は、江田島の海軍兵学校を優秀な成績で卒業した、家族の誰もが「自慢の兄貴」と仰ぐ本物のエリートだった。本来なら気高き駆逐艦乗りとして、青い海原を駆けるはずだったのだ。だが、戦況の悪化によって急造された海軍陸戦隊の泥まみれの地上戦へと放り込まれ、少尉の階級のまま、上海事変の地獄のなかで国に使い捨てにされて戦死した 。
南千住の古い家に届いたのは、遺体も入っていない冷たい白木の箱だけだった。その白木の箱を抱きしめて、声を上げて号泣していた母親の姿が、今も源次の脳裏に焼き付いている。そんなある昼間、事件が起きた。「全員整列っ! 歯を食いしばれッ!!」ヤシの木の防潮壁の影で、海軍の古参の兵曹(下士官)二人組が、志願兵上がりの若い新兵たちを乱暴に一列に並び立たせていた。その手には、新兵たちの尻を叩きのめすための木製の棒――「バッター」が握られている。「貴様らは弛んどる! 貴様らはなぁ、天皇陛下の赤子なんだぞ! 歯を食いしばれッ!! 全員、ケツを出せッ!!」大義名分をカサに着た兵曹たちの傲慢な怒声に、新兵たちは恐怖で顔を青ざめていた。
その頃、少し離れた高射砲掩体の陰で、源次は海軍設営隊の仲間である朝鮮人軍属の金村と並んで腰掛け、不敵にタバコを吹かしていた 。
南千住のテキヤの露地で学んできた源次は、軍隊に蔓延る卑劣な差別や、弱い者いじめが何よりも大嫌いだったのだ。「戦が終わって南千住に無事帰りゃあよ、美味ぇもんじゃ焼き突っついて、煮込みでも食いながら一杯やろうや」と金村と話していた、その時だった。
「げ、源次さん……ッ! 助けてください!」一人の新兵が制裁の列から逃げ出してきて、源次に向かって縋り付いた。事情を聞いた瞬間、源次のギロリと輝く「大きな目」が、凍りつくような凶暴な光を放った。「……金村、ちょっとタバコ持っててくれ」源次は静かに立ち上がると、新兵たちが怯える整列場所へと真っ直ぐに歩み進めた。
「おい、テメエら。何が赤子だ、何が気合いだ。口先だけで威張るんじゃねえよ」「な、何だと貴様! たかが軍属の土方が――」「歯を食いしばれ」と怒り狂った兵曹がバッターの棒を振り上げた瞬間、源次の剛腕が、電光石火の速さでその木の棒を丸ごと強奪した。「筋の通らねえ暴力はなぁ……、千住の裏路地じゃ一発でエンコが飛ぶんだよッ!!」バキィィィィンッ!!源次は凄まじい咆哮とともに、強固な木製のバッターを自らの分厚い腕に力任せに叩きつけ、文字通り真っ二つに叩き折ってみせた。一撃で棍棒を素手で粉砕した十九歳の怪物の凄みと、背中の八岐大蛇の威圧感に、さっきまで威張っていた兵曹二人は一瞬で血の気が引き、腰を抜かしてへたり込んだ。
「何事だッ!!!」その刹那、背後から重厚で鋭い怒声が響き渡った。振り返ると、そこには戦地の砂埃と泥に完璧に馴染む、無骨な「国防色の陸戦用第三種軍装」を端正に纏った、タラワ島守備隊の最高指揮官――S少将が、厳しい表情の副官を伴って姿を現していた。
「前線がいつ敵の上陸を迎えてもおかしくないこの極限の戦場において、身内同士で私的制裁などという愚行に耽るとは何事かッ! 兵曹、貴様らの気合いとは、銃を構える前に身内の新兵を傷つけることかッ!!」柴崎少将の雷のような一喝が、下士官どもに叩きつけられる。そして、少将は鋭く言い放った。「――全員、持ち場に付けッ!!」
「は、ハッ!!」兵曹どもも新兵たちも、蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの防備陣地へと散っていった。静まり返った影、木村源次は、真っ二つに叩き折った木の棒を両手に持ったまま、ポツンと取り残されていた。「あ……」源次は、少将の威風堂々とした佇まいを前に、途端にバツが悪そうに顔を真っ赤に染めて赤面した。昂ぶった興奮と恥ずかしさから、顔や脇の下から滝のような大汗がダラダラと吹き出し、泥まみれの作業服をぐっしょりと濡らしていく。国防色の第三種軍装の襟を正した柴崎少将は、そんな源次の大きな目をじっと見つめると――怒るでもなく、ただ優しくフッと口元を緩めて微笑んだ。
そして、源次が握っていた真っ二つのバッターの棒を、その大きな手でそっと受け取ると、何も言わずに、副官を伴って静かに前線の奥へと歩み去っていった。遠ざかる最高指揮官の無骨な背中を、大汗を拭うのも忘れて見つめながら、源次は痺れていた。(……痺れた。かっこいいぜ、あの少将……っ。内地の東條のバカ野郎や陸軍のヘタレ将校どもとは、ワケが違う。あの人の作ったこのタラワの要塞なら、俺の命、博徒の意地、全部張る価値があるじゃねえか)
第三章:サンゴ礁の砲撃、鬼神の引き金
ドガァァァァンッ!! ドゴォォォォンッ!!1943年11月20日、タラワ・ベティオ島の白い砂浜は、一瞬にして鉄と火薬が炸裂する狂気の地獄へと変貌した。ついにアメ公の強行上陸が始まったのだ。「な、なんだありゃあ……っ! 船が陸を走ってやがる!」前線の掩体のなかで、若い新兵たちが悲鳴を上げた。サンゴ礁の浅瀬を無限軌道で這い上がってくるのは、彼らがこれまで見たこともない米軍の水陸両用車「LVT」だった。
だが、十九歳の木村源次は、軍属としての己の任務を誰よりも冷徹に理解していた。「ガタガタ震えてんじゃねえッ! 弾薬を絶やすんじゃねえぞッ!!」戦闘開始当初、源次は引き金を引く側ではなかった。彼は同じ海軍設営隊の金村や新兵たちと共に、滝のような大汗を流しながら、一箱数十キロもある重厚な弾薬箱や、十五発入りの大型弾倉を、爆煙渦巻く前線の掩体へと運び続ける「補給」の任務を必死にこなしていたのだ 。
彼らが血の汗を流し、えんぴとツルハシ、モッコで築き上げたコンクリートの要塞は最強だった 。
本職の海軍陸戦隊員たちが据え付けられた英軍の鹵獲大砲や三連装高射機銃をぶっ放すたび、「当たる、当たるぞッ!」と、押し寄せるLVTを次々と大爆発させてブチ抜いていった 。
浜辺は一瞬にしてアメ公の海兵隊の死体の山、血の海へと変わっていく。
だが――戦局は、どこまでも残酷に、細かく日本軍を劣勢へと引きずり込んでいった。米軍の物量による艦砲射撃は、最強を誇ったトーチカのコンクリート壁をじわじわと削り取り、中の鉄筋を無惨に剥き出しにしていった。さらに、火炎放射器を持った米兵の肉薄によって、ヤシの木の丸太を組んだ円形掩体は次々と黒焦げの消し炭へと変えられていく。
一発の直撃弾が炸裂するたび、周囲の赤土が激しく吹き飛び、源次がさっきまで水を分けてやった若い新兵たちが、モッコやツルハシを握ったまま土砂の下へと生き埋めになっていった。そして最悪の凶報が、前線を一瞬で凍りつかせる。後方の連絡豪に米軍の直撃弾が炸裂し、あの南千住の折れた木の棒を持って優しく微笑んで去っていった、最高に格好良かった国防色のS少将が、あっけなく戦死してしまったのだ 。
「少将閣下、戦死っ……! 陸戦隊の射手も全滅だっ!!」指揮系統が崩壊し、絶望に包まれる高射砲陣地。三連装高射機銃の座席には、頭を撃ち抜かれた陸戦隊員が血の海の中に倒れており、黒鉄の怪物は完全に沈黙していた。アメ公のLVTと火炎放射器の赤い地獄が、すぐそこまで迫ってくる。
日本軍の劣勢は、もはや誰の目にも明らかだった。その絶望のどん底のなか、弾薬を抱えて飛び込んできた源次の「大きな目」が、怒りと意地で激しく燃え上がった。「おい、金村ッ! 新兵どもッ! 顎を鳴らしてんじゃねえッ!! 国のためでも、東條のバカのためでもねえ……、あの国防色の少将のケジメ(仇)を、ここでつけるんだよッ! 俺が撃つッ!!」
源次は死んだ陸戦隊員の遺体を抱き起こすと、自ら高射機銃の冷たい鉄の座席へと飛び乗り、その剛腕で重厚な照準器の歯車を回した 。
「アイゴーッ、合点承知だ、源次の兄貴ッ!!」朝鮮人軍属の金村が、大汗と重油に塗れながら大型弾倉を高射機銃にガチリと叩き込む !
新兵たちも涙を拭い、源次の背中の八岐大蛇に命を預けるようにして、山積みに弾薬を運び続けた。ズババババババババババババッ!!!日本軍が劣勢に追い込まれたその硝煙のなか、19歳の軍属・木村源次が自ら踏み込んだ鬼神の引き金が、迫り来る米兵の大群に向けて、凄まじい反撃の咆哮をタラワの海に轟かせるのだった。
第四章:泥中の賽の目1943年11月23日。
タラワ・ベティオ島の日本軍防衛線は、完全に追い詰められ、崩壊していた。
水も、乾パンの一粒も、高射砲の弾薬の一発にいたるまで、すべてが尽き果てていた。防塁のあちこちで、重傷を負って動けなくなった海軍陸戦隊の兵士たちが、九七式手榴弾のピンを抜いて次々と自決していった 。
自らの三八式歩兵銃の銃口を顎に当て、その引き金を裸足の足の指で引いて頭を撃ち抜く兵士。血の海のなかで、軍刀を自らの腹に突き立てて割腹を遂げる士官。
赤道直下の容斥ない灼熱の暑さが、それら無数の日本軍の死体を一瞬で膨張させ、防空壕の奥深くまで、鼻がひん曲がるほどの凄まじい「死臭」を充満させていった。「源次さん……っ、もう、お終いだ……」新兵の山田二等水兵が、死臭と恐怖に顔を歪ませながら、今にも泣き声を上げそうになる。源次は、ギロリと大きな目を光らせ、山田の口を手荒く、しかし優しく掌で塞ぎ込んだ。「声を出すんじゃねえ、山田。歯を食いしばってろ。……金村、えんぴだ。奥を掘るぞ」
源次と金村は、滝のような大汗を流しながら、崩れかけた掩体壕の最奥の赤土を、円匙とツルハシで静かに、必死にくり抜いた 。
人間一人がようやく潜り込めるほどの小さな蛸壺を掘り上げると、源次、金村、山田の三人はそこへ身を縮めて潜り込み、泥と死臭のなかに文字通り息を殺して潜伏したのだ 。
その彼らの真上。サンゴ礁の海から次々に砂浜へ這い上がってきた米軍海兵隊の頑強な男たちが、けたたましい足音を響かせて、源次たちの潜む掩体壕の真上で、豪快に野営を始めた 。
クチャクチャとガムを噛む不気味な音。タバコを吹かし、大声で笑いながらCレーションの肉を喰らう米兵たちの足音と振動が、天井のヤシの木の隙間から、土砂とともに源次たちのねじり鉢巻へとパラパラと落ちてくる 。
源次は慎重に穴から出て様子を伺った。何しろこっちは丸腰同然だ。
米軍キャンプは静かで寝息が聞こえる。辺りは真っ暗だ。歩哨を1人見つけた。交代時間になったら万事休すだ。口笛を吹きながらタバコを吸っている。(余裕だな、アメ公。……南千住のテキヤをナメんじゃねえよ)源次は匕首の白木の鞘を静かに床へ払うと、大汗を光らせながら、敵の死角から音もなく背後へと肉薄した。ガッ!!声を出させる暇すら与えなかった。源次は左腕で米兵の口を完璧に塞ぎ込むと、右手の匕首を相手の脇腹へと深く突き刺した。
さらに、敵が崩れ落ちる衝撃のなか、背中に担いでいたえんぴの鉄の刃を、歩哨の首筋へと渾身の力で叩きつけ、その息の根を完全に止めてみせたのだ 。
ドサリ、と倒れた巨体から、源次は手際よくタバコと、並々と本物の水が詰まった水筒を強奪した。そして、殺した米兵の死体を両腕で抱え上げると、近くに山積みに放置されていた日本兵の死体の山のなかへと隠した 。
源次の大きな目が、さらに闇の中でギラリと光る。足元に転がっていた弾薬箱や雑嚢のなかから、米軍の最新のCレーションの箱を、自らの雑嚢へと手早く、確実に放り込んでいった。「今夜はこのくらいだな」と、源次は再び地下の蛸壺へと音もなく戻っていった。「ほらよ。音は出すな。……タバコは明日まで我慢しろ」
源次はズボンの奥から引き抜いた愛用の匕首の鋭い刃先を使い、Cレーションの箱を引き裂き、中に詰まっていたブリキの缶詰の蓋をガチリと静かに抉じ開けた 。
真っ暗闇の掩体壕のなかに、濃厚な牛脂の匂いとクラッカーの香ばしい匂いが広がる 。3人はドロドロに汚れた指先で、缶詰に詰まった冷たい牛肉のかたまりと、箱に入っていたCレーションのクラッカーを一緒に貪るように口に放り込んだ 。
「……アメ公の飯は美味いな。日本の乾パンよりずっと美味いぜ」と山田が小さく呟く。「山田、金村。アメ公はバカじゃねえ。いつか俺たちのこの穴に気付くはずだ 。
いつまでもこんな掩体壕の蛸壺のなかに縮こまってちゃあ、干からびて終わりだ。アメ公の連中、さっきの夜襲でかなり神経をすり減らしてやがる 。
明日か明後日には、キャンプを畳んで掃討のために移動を始めるはずだ。その一瞬の隙をついてここを逃げるぞ。――コンクリートの、戦闘指揮所だ」
朝になり、米軍キャンプは歩哨が消えていることで大騒ぎになり、無線で怒鳴り散らす声が聞こえてきた 。源次は地下の暗闇のなかで、大きな目を細めてニヤリとほくそ笑んだ。源次の博徒としての読み通り、米軍は慌ただしくキャンプを畳んで前進を開始していった。
「移動しやがったな……。だが、焦るんじゃねえ。夜まで我慢だ。真っ暗になってから動くぞ」源次が低く告げた、その時だった。隣で顔を真っ赤にし、股間を両手で必死に押さえながら、新兵の山田が泣きそうな声で言った。「あ、兄貴……っ。あの、小便を……小便を、さっきからずっと我慢してます……ッ!!」
源次は声を押し殺して笑うと、さっき食い終えたばかりの空っぽになったCレーションの大きな空き缶を差し出した 。
「ほらよ、この中に静かに出しちまえ。音は立てるなよ。……金村、その隙に外の様子を見てろ。アメ公のキャンプが完全に引けたら、あの少将の戦闘指揮所へ一一気に移動するぞ」
夜になって3人は移動を開始した。小さな島だ、地形は分かりきっている。しかし自分たちが築き上げたトーチカや陣地が破壊されているのを見るのはやはり辛かった 。
米軍は夜間の歩哨を増やして見張りを強化しているため、なかなか進めない 。
もう少しで戦闘指揮所だ。コンクリートの建物が無惨に破壊されている。3人は鼠の様にその隙間へ滑り込んで行った 。
戦闘指揮所の中は壊滅的だった。砲弾と火炎放射器で見る影もなく、大きな無線機は黒焦げ、生きたまま焼かれた兵士の死体がゴロゴロと転がっていた 。
その1番奥が3人のとりあえずの居住区となった。また腹の虫は治らない。源次は1人外に出て、倒れたヤシの木から椰子の実を一つ抱えて帰って来た。3人で平等に分け合って食べた。その果汁は、涙が出るほど優しく染み渡っていった 。
最終章:日本男児の花火
日本軍の組織的戦闘は終わり、厭世な雰囲気が辺りを包んでいた 。だが米兵は、殺しても殺しても隠れていた日本兵が三八式歩兵銃で射撃してくるため、神経が昂り精神的に追い詰められ、益々凶暴になっていった 。
一体いつになったら戦争は終わるんだ。すべての蛸壺をしらみ潰しに火炎放射器や自動小銃で攻撃する日が続いた 。
源次は覚悟した。これまでか。飢えと暑さで3人は朦朧としていた。その時、「きゃーっ」と昼間に女性の悲鳴がこだました。源次は1人外の様子を見た。3人の米兵が朝鮮人慰安婦を見つけてニヤニヤしている。もはや人間の目ではない。髪を振り乱し、痩せ細った身体は恐怖で震えていた。男たちがズボンを脱ぎ始めた。源次は、右手に剥き出しの匕首、左手に円匙をガチリと握りしめると、背中からアメ公の懐へと一気に肉薄した 。
喧嘩は日常茶飯事だ 。南千住の裏路地で命を張ってきた源次の前で、米兵たちは銃を撃つこともなく、呆気なく物言わぬ死体へと変わっていった。
源次は朝鮮人慰安婦を自分たちの居住区に連れて行った。死体から、水筒と背嚢、自動小銃をついでに持ち去った 。4人は暗闇の奥に滑り込み、奪った背嚢を漁った。チョコレートにビスケットを食べた。初めての味に皆感動する。しかし、極限まで飢えきった彼らにとって、そんな甘味などまったく腹の足しにはならなかった 。
同じ言葉を持つ金村が女性の手を握る。「勝子、よく生きてたな」勝子は身体を震わせた。「……瓦礫の下で、ずっと震えて生きてきました」
源次の大きな目が、不条理への侮蔑で燃え上がった。「こんな戦場に女を連れて来るなんて。東條のバカ野郎どもめ」
もはや小さな島に食料等皆無に近く、海に出れば撃たれるため魚を取ることもできない。籠っていれば、4人揃ってネズミのように飢え死にするだけだった。源次は覚悟した。「どうせこの小さな島からは出られない。餓死は避けられない。どうせなら極道らしく散りたい」3人が寝静まってから、源次はふとした疑問を抱いた。日本軍の食糧貯蔵庫が必ずどこかにあるはずなんだがな。
源次は、死んだ日本兵から乾パンも拾って皆に配った。そして、大きなある物――海軍が残していった最終兵器「九九式破甲爆雷」を、戦闘指揮所の片隅に、皆にわからない様にそっと置いた
。翌朝、源次は彼らに説明した。「金村、勝子、お前たちは生き延びろ」「は?」二人は目が点になった。「キムチの話を聞いて思い出した 。悪いがお前たちは朝鮮人だ、日本人じゃない。だからおそらく米兵もお前たちを無下にしないはずだ 。
これをお前にやる」と金村に匕首と米軍の手榴弾を渡した 。
「勝子を守るんだ。もしどうしようもなくなったら戦って自害しろ。金村、お前の褌を脱いで白旗をあげろ。わかったな。俺と山田が花火を上げたらここから出ろ。朝まで眠ろうぜ」
翌朝、また米軍の掃討が始まっていた。源次は死んだ日本兵の死体から、帝国海軍の独特のフォルムの水筒と飯盒、そして三八式歩兵銃を持って来ていた 。
水筒の底にまだ水が少し入っている。飯盒の蓋に水を注ぎ、山田に渡す。「水盃だ。これで俺たちは兄弟だ」山田は涙を流した。「ありがとうございます。……兄貴、俺、どうせ故郷に帰ってももらい子の身分なんです。海軍へは口減らしでした。毎日いじめられて、故郷の方がずっと怖かった。だから、どうせ死ぬなら兄貴と一緒に死にたいです」 山田は生まれは横浜だったが、両親が死んで長崎の縁戚に貰われたため、九州弁がなかったのだ。山田の生い立ちを聞いて、生きるために半島から日本に渡った金村も勝子も、涙を流した 。
「山田、行くぞ。あばよ、元気で半島に帰れよ」源次は『大きなある物』――九九式破甲爆雷だけを背中に担いだ 。
金村と勝子の二人は、涙ながらに手を振っていた 。
一歩外へ出ると、あれが俺たちの獲物だった。巨大なM4シャーマン戦車を先頭に、火炎放射器や自動小銃を持った米兵たちが談笑しながら近づいてきた 。
「よし、山田、南千住の博徒の大博打だ。日本男児の特大の花火を上げてやろうじゃねえか」山田二等水兵は勢いよく外に出て、米軍から強奪した自動小銃を彼らに向けて乱射した !
「ジャップだ!」と米兵たちは大混乱に陥った。山田は全弾を撃ち尽くすと、自動小銃を放り捨て、あの誇り高き三八式歩兵銃へと持ち替えて遊鉄を引き、命がけの援護射撃を続けた 。
――パァァンッ!激しい硝煙のなか、一発の鋭い弾丸が、山田の眉間を正確に撃ち抜いた 。山田は声を上げる暇すらなく、即死して赤土の上へ崩れ落ちた。
源次をその隙を見逃さなかった。源次は爆雷だけを抱えて、猛進してくるM4戦車の下へと一気に滑り込んだ 。
戦車の前方に伏せ、九九式破甲爆雷の信管を決死の覚悟で引き抜く 。戦車は山田の遺体を無残に踏み越え、源次の目の前へと肉薄してくる。源次は大きな目を爛々と輝かせたまま、戦車が頭上に来るのを、死臭と焦熱の泥の中でただじっと待ち続けた 。
戦車が来る間の数秒間、源次の脳裏に、昨日目撃した凄まじい光景がフラッシュバックした。たくさんの日本軍の死体を、アメ公のブルドーザーが、まるでゴミでも片付けるかのように何事もないように始末しているのを。
(テメエら……。俺たちの命を、兄貴や少将の意地を、ゴミみたいに扱いやがって……っ)
十九歳の極道の魂の底から、剥き出しの咆哮が暗闇に炸裂した。
「――これでもくらいやがれ、このクズ野郎どもがァァァッッ!!!!」次の瞬間。頭上を完全に鉄の暗黒が覆い尽くし、戦車が源次の上に乗る形となった刹那、彼の手の中で信管を解かれていた破甲爆雷が、この世の物とは思えない爆音を上げた 。
ドガァァァァァァァァァァァァンッッ!!!!凄まじい爆炎と衝撃波が砂浜を吹き飛ばし、鉄の塊であったはずの巨大なM4戦車は、内部の弾薬ごと大炎上し、砂の上へと無惨に横転した 。周囲の米兵たちも、その爆風の中に一瞬で吹き飛ばされていく。
数分後、静寂が戻ったタラワのサンゴ礁。戦闘指揮所の奥からは、褌の白旗を掲げた金村と勝子が、涙を流しながらも、生き延びるために力強く歩み出し始めていた 。
東京の、南千住のしがない十九歳の極道・木村源次と、その最愛の弟・山田が打ち上げた特大の花火が、黒煙となって、南洋の暁の風に吹かれてどこまでも高く消えていくのだった。(『サンゴ礁の賽の目――タラワ博徒戦記――』・全編完結) [INDEX]




