「今後は新しい婚約者様へお任せください」――侯爵家を支えていた令嬢は、婚約破棄されて静かに去る
「リディア・クローデル。君との婚約は、本日をもって解消する」
侯爵家の大広間から、歓談の声が消えた。
事情を知らない楽団だけが、軽やかな舞曲を奏で続けている。
百を超える視線の中心で、エドガー・ヴァレンティンは胸を張っていた。
金糸で飾られた紺色の礼服。隙なく整えられた金髪。その腕には、桃色のドレスをまとった令嬢が寄り添っている。
リディアは二人を見比べ、革鞄の持ち手を握り直した。
「確認してもよろしいでしょうか」
エドガーが顔をしかめる。
「この場で言い訳をするつもりか?」
「いいえ。婚約解消は、ヴァレンティン侯爵家の正式な決定でしょうか。それとも、エドガー様個人のご判断でしょうか」
「同じことだ。僕はいずれ侯爵家を継ぐ」
本来なら、同じではない。
婚約は両家の契約であり、現当主の承認もなく、次期当主の一存で解消できるものではなかった。
もっとも、それを説明して聞き入れる顔ではない。
「承知いたしました。侯爵家の正式なご判断として承ります」
リディアが頭を下げると、広間のあちこちで衣擦れの音がした。
泣き崩れると思われていたのだろう。
「それだけなのか?」
エドガーの声には苛立ちが混じっていた。
「ほかに確認すべきことがございますか」
「君はいつもそうだ」
エドガーは吐き捨てるように言った。
「冷たく、可愛げがない。婚約者である僕がどれほど歩み寄っても、君は帳簿や使用人の話ばかりだ。僕を愛しているようには、とても見えなかった」
歩み寄られたことがあっただろうか。
領地の収穫祭へ同行すると約束した日に、彼は王都の観劇へ出かけた。
彼の名で提出する報告書を夜通し整えた翌朝には、字が地味だと笑われた。
熱を出して寝込んだ日には、見舞いではなく、薬草園の収支表を取りに来た。
それでも、婚約したばかりの頃には一度だけ、倉庫の管理方法を見直したリディアに、エドガーは笑って言ったのだ。
『君なら安心して任せられる』
リディアは、それを信頼だと思った。
だから三年間、できる限りのことをしてきた。
胸の内側に、細い針を刺されたような感覚が残った。
契約を一方的に破棄されたことへの不快感なのだろう、とリディアは判断した。
「エドガー様のおっしゃるとおりなのでしょう」
「認めるのか?」
「愛情については、私には適切な測り方が分かりませんので」
エドガーの隣で、令嬢が小さく笑った。
「だから僕は、心から寄り添ってくれるロザリーを選ぶ。彼女は君と違って、僕の苦労を理解してくれる」
ロザリーは頬を染め、エドガーの腕へ身体を寄せた。
先月、侯爵家が主催した慈善茶会で、菓子代を倍額にして請求してきた商会の娘である。
請求は差し戻したはずだが、エドガーが再び商会を出入りさせたらしい。
確認しなければ。
そう考えてから、リディアは思い直した。
もう、自分の仕事ではない。
「承知いたしました」
リディアは革鞄を開いた。
夜会には不似合いな鞄だったが、港湾倉庫の報告書と、現在委任されている権限の一覧を持参していた。
「それでは、婚約解消に伴い、私に委任されていた権限を返上いたします」
「権限?」
「家政管理、取引商会との代理交渉、南部薬草園の運営、港湾倉庫の検品、使用人の採用および配置変更に関する権限です」
エドガーは、つまらなそうに眉をひそめた。
「そんな細かい話は明日でいいだろう」
「婚約者でない人間が侯爵家の財産や契約を扱うことはできません」
「誰も君を疑ったりはしない」
「疑われる余地を残すべきではありません」
リディアは権限の一覧と確認書を差し出した。
「こちらへ、私から権限が返還されたことを認める署名をお願いいたします」
「今ここで?」
「婚約解消も今ここで行われましたので」
広間のどこかで、笑いをこらえる気配がした。
エドガーの頬が赤くなる。
「分かった。書けばいいんだろう」
彼は書類を奪い取り、内容も読まずに署名した。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
最後の書類を受け取ると、リディアは署名を確認し、紙を重ねた。
「確かに受領いたしました。引き継ぎ資料は、侯爵家の執務室へ置いてあります」
「引き継ぎ?」
「一昨日、港湾倉庫の北棟で異臭が確認されました。地下水への混入を防ぐため、明朝までに排水路を閉鎖してください。薬草園では灰斑病の疑いがあります。感染株を分け、使用した器具を――」
「もういい!」
エドガーが声を荒らげた。
「最後までそんな話か! 僕は君との婚約を解消すると言っているんだぞ!」
リディアは説明をやめた。
引き継ぎ資料の最初の頁にも、赤字で書いてある。
読めば分かるはずだった。
「失礼いたしました」
書類を鞄へ戻し、礼をする。
「エドガー様。三年間、お世話になりました」
「待て。まさか、今後は侯爵家の仕事をしないつもりか?」
リディアは顔を上げた。
「当然かと存じます」
「君も、あの仕事にはやりがいを感じていただろう。婚約がなくなったからといって、すべて投げ出す必要はない」
広間が、今度こそ静まり返った。
エドガーは本気で言っている。
婚約者としては必要ない。
しかし、帳簿を整え、商人と交渉し、使用人を管理する役目は続けてほしい。
『君なら安心して任せられる』
あの言葉の意味を、ようやく理解した。
信頼ではない。
彼にとって面倒なものを、都合よく預けられるという意味だったのだ。
「申し訳ございません」
リディアは答えた。
「今後は、新しい婚約者様へお任せください」
ロザリーの笑顔が引きつった。
リディアは二人へ背を向けた。
扉へ向かう途中、窓ガラスを風が震わせる。
今夜は雨になる。
排水路が閉じられなければ、北棟の汚水は地下水路へ流れ込むだろう。
だが、注意事項は残した。
その先を判断する権限は、もう自分にはなかった。
*
正門前に待たせていたクローデル伯爵家の馬車へ乗り込むと、御者が振り返った。
「ずいぶんお早いお戻りで」
「予定が変わりました。屋敷へ戻ってください」
御者は何か尋ねたそうにしたが、黙って手綱を取った。
馬車が動き出す。
リディアは革鞄から署名済みの書類を取り出した。
紙の端が一枚だけ折れている。エドガーが乱暴に扱ったためだ。
指先で折り目を伸ばしかけ、手を止めた。
侯爵家へ提出する書類ではない。
きれいに整え直す必要は、もうなかった。
雨筋に遮られ、侯爵家の明かりが見えなくなる。
屋敷へ着く頃には、雨脚が強くなっていた。
父であるクローデル伯爵は、書斎で手紙を読んでいた。
「早かったな。具合でも悪いのか」
「婚約を解消されました」
伯爵の手が止まった。
「何だと?」
「エドガー様が夜会の席で、ヴァレンティン侯爵家の正式な判断として宣言されました。こちらが、権限返還の確認書です」
机へ書類を置く。
伯爵は一枚ずつ確認し、顔を険しくした。
「侯爵はその場にいたのか」
「いいえ」
「本人の承認は?」
「確認できておりません。ただしエドガー様は、ご自身の判断と侯爵家の判断は同じだとおっしゃいました」
「同じなものか」
伯爵は書類を置いた。
「なぜ、その場で侯爵を呼ばせなかった」
「エドガー様に意思を変える様子はありませんでしたので」
「本人の意思だけの話ではない。これは両家の契約だ」
「存じております」
「ならば――」
伯爵はそこで言葉を止めた。
リディアの顔を確認するように見つめる。
「お前は、戻りたいのか」
問い方が変わった。
エドガーが発言を撤回し、侯爵が謝罪し、婚約が元に戻ったとする。
その後、自分は再び帳簿を整え、使用人を配置し、エドガーの名で報告書を提出するのだろう。
彼はそれを、婚約者が当然行う仕事だと思い続ける。
「いいえ」
口にすると、その答えは思いのほか自然に収まった。
「婚約を続けたいとは思いません」
伯爵はしばらく黙っていた。
「そうか」
「はい」
「ヴァレンティン侯爵には、私から抗議する。正式な解消と賠償についても話をつける」
「お願いいたします」
「お前は、しばらく休め」
「体調に問題はありません」
「体調だけの話をしているのではない」
伯爵は額を押さえた。
「私は、お前が侯爵家で何をしていたのか、正確には知らなかった。先ほどの権限だけでも、婚約者の範囲を超えている」
「必要なことを処理していただけです」
「それを、やりすぎだと言っている」
責められているのか、心配されているのか、リディアには判断しにくかった。
自室へ戻ると、机の上には水路と感染症について書かれた研究書が置かれていた。
頁を開く。
同じ行を三度読んだ。
文字は理解できるのに、その先へ進めない。
侯爵家にいれば、この時間には翌日の食材費を確認し、欠員の出た使用人の配置を考え、港から届いた報告書へ返事を書いていた。
机の上には、処理すべき書類が一枚もない。
リディアは本を閉じた。
静かな部屋に、雨音だけが続いていた。
*
翌朝、ヴァレンティン侯爵家の食卓には、冷えたパンと薄い茶が並んでいた。
「料理長はどうした」
エドガーが尋ねると、給仕をしていた若い侍女は視線を伏せた。
「昨日、退職いたしました」
「昨日?」
「以前から退職を申し出ておりました。後任が決まるまで残るよう、リディア様がお願いされていたそうです」
「なら、後任を雇えばいい」
「採用を担当していた侍女頭も、今朝、退職いたしました」
向かいでは、ロザリーが硬いパンを小さくちぎっている。
「使用人が二人辞めただけでしょう? そんなに困るものですの?」
「そのとおりだ」
エドガーは呼び鈴を鳴らした。
すぐには誰も現れなかった。
二度目で、ようやく老執事が食堂へ入ってくる。外套の肩が雨に濡れていた。
「どこへ行っていた」
「港湾倉庫でございます」
「朝食より優先する用事か?」
執事は一呼吸置いた。
「北棟の床下へ、汚水が流入いたしました」
エドガーの手が止まる。
「排水路を閉じればよかったのではないか」
「閉鎖の指示が出ておりませんでした」
「引き継ぎ資料に書いてあったはずだ」
「はい」
「なら、なぜ実行しなかった」
「排水路の閉鎖には、港湾管理者の決裁が必要です。リディア様が権限を返上された後、新しい決裁者が指定されておりませんでした」
「執事長が判断すればいい」
「私には港湾設備を停止する権限がございません」
「非常時だぞ」
「権限のない者が独断で倉庫を停止すれば、損害の責任を負うことになります」
これまでなら、リディアが報告を受け、必要な担当者へ指示を回していた。
倉庫には検品係がいる。排水設備には管理人がいる。水門には王家側の担当官もいる。
それぞれ働く人間はいるのに、報告を集めて決断する者だけがいない。
「被害は」
「北棟の穀物の一部が汚染されました。王家の管理官が水門を閉鎖し、周辺の井戸も検査が終わるまで使用禁止となります」
「新しい穀物を買えばいい」
「その件で、穀物商が面会を求めております」
応接室で、穀物商は一枚の契約書を差し出した。
「今後の納入は、前払いでお願いいたします」
「これまでは月末払いだったはずだ」
「リディア様が代理人を務めていた期間だけです」
「代理人が変わるだけで、なぜ条件が変わる」
「支払い管理の方法が変わるからです」
穀物商は古い記録を机へ置いた。
「三年前まで、侯爵家からの支払いは平均して二十日遅れていました」
「そんな話は聞いていない」
「リディア様が担当者と支払日を定めてから、遅延がなくなりました」
確かに三年前を境に、支払い日の欄が揃っている。
「同じ方法を続ければいい」
「では、責任者はどなたでしょうか」
エドガーは答えられなかった。
続いて、薬種商が口を開いた。
「南部薬草園からの出荷も停止いたします」
「灰斑病の話か」
「感染株の隔離は?」
「庭師に任せている」
同行していた職人が首を横に振った。
「園長は、新しい運営責任者の判断を待っております。今朝の時点で、感染株は別の区画にも広がっていました」
「リディアは、こういうことをすべて自分で決めていたのか」
薬種商が静かに答えた。
「いいえ。分かる者の意見を聞き、記録を残したうえで、ご自身が責任を負っておられました」
エドガーは執務室へ向かった。
机の上には、リディアの引き継ぎ資料がある。
最初の頁には、赤字で四項目が書かれていた。
北棟の排水路閉鎖。
汚染時の連絡先。
薬草園の感染株隔離。
返上後の暫定責任者選定。
最後の項目には二重線が引かれ、その下に候補者の名と、任せられる範囲まで記載されていた。
読んでさえいれば、防げた問題ばかりだった。
*
同じ日の午後、王家の紋章をつけた馬車がクローデル伯爵家を訪れた。
来訪者は、南部港湾都市を預かる第二王子セドリック・アルヴェインだった。
応接室へ現れた彼は、華美な装飾のない濃灰色の上着を着ていた。王族というより、官吏か軍人に近い。
「突然の訪問を詫びる」
形式的な挨拶を終えると、セドリックは港湾倉庫北棟の見取り図を机へ置いた。
「昨夜、君が警告していた問題が起きた」
「住民への影響は」
リディアは真っ先に尋ねた。
「現時点では確認されていない。王家の管理官が水門を閉じ、周辺の井戸を封鎖した」
リディアは息を吐いた。
セドリックは、その反応をしばらく見ていた。
「君の引き継ぎ資料も確認した」
「殿下が直接ですか」
「以前から、港湾倉庫の改善報告には目を通していた。作成者の名はなかったが、今回の資料と書式が同じだった」
婚約を解消された令嬢を、思いつきで訪ねてきたわけではないらしい。
「それで、私に何をお求めでしょうか」
セドリックは別の書類を差し出した。
「南部港湾で、衛生管理官として働いてほしい」
リディアは書類を受け取った。
役職。
給与。
予算。
決裁権限。
責任範囲。
いずれも具体的に記載されている。
「かなり大きな権限です」
「必要だと判断した」
「私が失敗した場合、責任はどなたが負われますか」
「最終責任は私だ。ただし、君自身の過失があれば、それは別に問う」
妥当な回答だった。
「婚約を解消されたばかりの令嬢を登用すれば、ヴァレンティン侯爵家との対立を招きます」
「人事を決める際に、エドガー・ヴァレンティンの感情を考慮する必要はない」
「私を利用し、侯爵家を牽制する意図は」
「ないとは言わない」
即答だった。
「だが、それだけなら別の人間を雇う。君を選んだ理由は、君の記録を読んだからだ」
「誰が書いたか分からなくとも、有能な人間の仕事は分かる」
リディアは契約書を最初から読み直した。
「本日中に確認し、明朝お返事いたします」
「急がなくてもいい」
「急いでいるのは、南部港湾のほうではありませんか」
セドリックは一瞬黙り、口元を緩めた。
「そのとおりだ」
翌朝、リディアは責任範囲に関する修正を二点加えたうえで、契約書へ署名した。
*
それから三日間、ヴァレンティン侯爵家の問題は増え続けた。
ロザリーの父親が営む商会は、穀物、薬草、布類を一括して調達できると申し出た。
提示された金額は、以前の四割増しだった。
「緊急時ですから」
商会長は愛想よく笑った。
「多少高くなるのは仕方ありません」
エドガーは迷った末、契約書へ署名した。
届いた穀物は、北棟へ運び込めなかった。汚染区域として封鎖されており、代わりの倉庫も確保されていなかったからだ。
荷馬車は雨の中で止まり、保管料だけが増えていった。
薬草園では感染株が半分近くまで広がった。
屋敷では退職を保留していた使用人たちが、次々に辞表を出した。
エドガーが机の書類を払い落とす。
「なぜ、誰も判断しない!」
執事長は床に散らばった紙を見下ろした。
「判断する権限をお持ちなのは、エドガー様です」
「なら、先に説明すればいいだろう!」
「説明は、引き継ぎ資料にございます」
その夜遅く、領地からヴァレンティン侯爵が戻った。
執務室へ入るなり、散乱した報告書と新しい契約書を確認する。
「これは誰が結んだ」
「ロザリーの父上です。急ぎでしたので」
「以前の四割増しだぞ」
「緊急時です」
「その緊急事態を招いたのは誰だ」
エドガーは黙った。
侯爵は権限返還の確認書を拾い上げる。
「これに署名したのか」
「はい」
「内容は読んだか」
「実務上の細かな権限だと思っていました」
侯爵は古い組織図と、リディアが作った新しい組織図を机へ並べた。
古い図には、幾つもの線が複雑に交差している。
新しい図は、驚くほど単純だった。
「三年前、この家では、誰もが自分の担当外だと言って判断を避けていた。倉庫、薬草園、商会、使用人。それぞれが別々に動き、報告は途中で止まっていた」
侯爵は新しい組織図を指でなぞった。
「リディア嬢は、誰に報告し、誰が判断し、誰が責任を負うかを整理した。自分で全部を処理したのではない。人が働ける仕組みを作ったのだ」
「それなら、別の者へ任せればよいでしょう」
「誰に任せる」
エドガーは答えられなかった。
「リディア嬢へ謝罪しろ」
「侯爵家からは、すでに書状を送ったはずです」
「家としてではない。お前自身の謝罪だ」
「戻ってきてもらうためですか」
侯爵は息子を見た。
「まだ、そう考えているのか」
ロザリーとの縁談は認められなかった。
父親の商会についても、慈善茶会の過大請求と今回の契約を調査することになった。
その夜、エドガーは引き継ぎ資料を最初から読み直した。
報告先。
判断基準。
想定される損害。
緊急時の代替案。
余白には、担当者の得意不得意まで書かれている。
倉庫管理人は慎重すぎるが、数字に強い。
薬草園長は経験豊富だが、病害については専門家の確認が必要。
執事長に港湾業務まで兼任させないこと。
リディアは、この家の人間が働けるよう、見えない部分を整えていた。
それでもエドガーは、資料を読み終えると、わずかに安心した。
ここまで詳細に残している。
本当に侯爵家を見捨てたかったわけではない。
自分が謝れば、理解してくれるはずだ。
これまでも彼女は、最後には自分の都合を受け入れてきた。
*
翌日、エドガーは先触れを出したうえで、クローデル伯爵家を訪れた。
応接室へ通されてから、しばらく待たされた。
以前なら、リディアはすぐに現れた。
帳簿を確認している途中でも、使用人と話している最中でも、エドガーを待たせることはなかった。
やがて扉が開く。
リディアは、飾り気のない紺色の服を着ていた。腕には書類の束を抱えている。
「お待たせいたしました」
「仕事か」
「はい」
向かいの椅子へ座る。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
他人行儀な言い方だった。
「謝りに来た」
「何についてでしょう」
問い返されるとは思っていなかった。
「婚約解消のことだ。夜会で、君の説明を聞かなかったことも悪かった」
「そうですか」
「侯爵家では、いくつか問題が起きている」
「存じております」
「知っているのか」
「港湾倉庫については、王家の管理官から報告を受けました」
「それなら、放っておけないだろう」
「住民への影響については、放っておくつもりはありません」
侯爵家については、と言わなかった。
「父上も、君の働きを高く評価している。僕も、これまで君がしていたことを理解した」
リディアは答えない。
「だから、戻ってきてほしい」
ようやく本題を口にすると、エドガーは肩の力を抜いた。
「婚約については、両家でもう一度話し合えばいい。ロザリーとの縁談は、父上も認めないと言っている」
「なかったことにされるのですか」
「正式な婚約を結んだわけではない」
「では、夜会での宣言には、どのような意味があったのでしょう」
「感情的になっていたんだ」
「エドガー様は、感情的になれば婚約を解消する方だということでしょうか」
「そういう言い方をするな」
声が強くなる。
「僕は間違いを認めている」
「どの点についてでしょう」
「君の働きを軽く見ていた」
「はい」
「侯爵家にとって、君が必要だったことも分かった」
リディアは視線を落とした。
「やはり、そうなのですね」
「何がだ」
「エドガー様がお困りになったから、私が必要になったのだと」
「違う」
否定したものの、その先が続かなかった。
侯爵家で問題が起きなければ、自分はここへ来ただろうか。
「君は、あの仕事を好んでいただろう」
「仕事そのものは嫌いではありませんでした」
「ならば、元に戻せばいい」
「働く場所は、侯爵家でなくても構いません」
エドガーは机の上の書類へ目を向けた。
銀の鷹の印章が押されている。
「その書類は何だ」
「南部港湾の衛生管理官としての任命書です」
「第二王子からか」
「はい」
「断るつもりはないのか」
「すでに承諾しました」
「僕たちの話が終わる前に?」
リディアが顔を上げる。
「婚約は、エドガー様が終わらせました」
「だが、両家の正式な手続きはまだ――」
「正式な手続きを待つべきだったと、今になってお考えなのですか」
エドガーは言葉を失った。
「王家は、君を利用するつもりだ」
「その可能性については、殿下にも尋ねました」
「何と答えた」
「侯爵家への牽制という意図も、まったくないとは言えないと」
「なら、やはり――」
「ですが、私の仕事を必要とする理由も、条件も、責任も明確でした」
リディアは任命書へ触れた。
「誰が何を成し遂げたかも、記録に残してくださいます」
「婚約者同士なら、いちいち報酬や記録を求めるものではないだろう」
「私も、そう思っていました」
エドガーは身を乗り出した。
「ならば」
「ですが、何も求めなかったからといって、何も与えなくてよかったわけではありません」
リディアは三年間、感謝も報酬も求めなかった。
エドガーは、それを必要がないのだと思っていた。
「僕は、これからは君を評価する」
「今まで評価されなかった理由は、何でしょう」
「知らなかったんだ」
「知る機会は、なかったでしょうか」
答えられなかった。
彼女が何をしているか尋ねる機会など、いくらでもあった。
「私は、エドガー様を恨んでおりません」
その言葉に、希望を感じた。
「だったら、やり直せるだろう」
「いいえ」
「なぜだ」
「恨んでいないことと、信頼できることは別だからです」
リディアはエドガーを見た。
「私は、二度とエドガー様の判断に、自分の人生を預けたくありません」
時計の音が、やけに大きく響いた。
「僕は謝った」
「はい」
「それでも許さないのか」
「許しています」
怒鳴られるよりも、その返答のほうが堪えた。
許している。
だからこそ、もう何も求めていない。
「本日の話は以上でしょうか」
リディアが立ち上がる。
窓の外から、馬車の車輪の音が聞こえた。
王家の紋章をつけた馬車だった。
「迎えが来ましたので、失礼いたします」
「待て」
呼び止めたものの、続ける言葉がなかった。
愛している。
そう言えばよいのかもしれない。
だが、自分が欲しいのが彼女なのか、彼女が整えていた生活なのか、エドガー自身にも分からなかった。
リディアは一礼し、応接室を出ていった。
卓上には、彼女が口をつけなかった茶が残っていた。
*
南部港湾へ移って、三か月が過ぎた。
窓の外では、封鎖されていた共同井戸の周囲に人が集まっている。
今朝、水質検査の最終結果が届いた。
使用を再開しても問題はない。
広場では地区管理人が、新しい取水規則を住民へ説明していた。異臭や濁りを見つけた際の連絡先も掲示されている。
リディアは報告書の最後に署名した。
作成者の欄には、水路技師、検査官、地区管理人の名が並んでいる。
南部へ来てから、セドリックは報告書に関わった者の名を必ず記録させた。
現場の視察にも同行したが、リディアの判断へむやみに口を挟むことはなかった。疑問があれば尋ね、納得できなければ理由を求めた。
そのやり取りを、リディアは心地よいと思い始めていた。
「昼食は取ったか」
声に顔を上げる。
執務室の入口に、セドリックが立っていた。
「まだです」
「昨日も同じ返事を聞いた」
「昨日とは別の日ですので」
「そういう問題ではない」
セドリックは机の端へ紙袋を置いた。
港近くの店で売られている、蜂蜜入りの焼き菓子だった。
「賄賂ですか」
「管理官を倒れさせないための経費だ」
「経費として処理するなら、領収書が必要です」
「私費だ」
「では、なぜ私に」
尋ねると、セドリックは少し考えた。
「君に食べてほしかった」
「理由になっていません」
「私にとってはなっている」
理解しにくい回答だった。
だが、嘘をついているようには見えない。
「あとでいただきます」
「今ではないのか」
「報告書を一つ終わらせてからです」
「一つだけだな」
「内容によります」
セドリックは諦めたように息を吐いた。
「もう一つ、頼みがある」
差し出されたのは、南部の領主たちが集まる晩餐会の招待状だった。
「衛生管理官としての出席でしょうか」
「いや」
「では、どのような立場で」
「私の同伴者として」
「業務上の目的は」
「ない」
「政治的な目的は」
「まったくないとは言わない」
不都合な意図まで否定しないところは、以前と変わらない。
「ただ、それだけではない」
セドリックは続けた。
「君と、仕事以外の話をしてみたい」
「なぜですか」
「君を好ましく思っているからだ」
リディアは返答できなかった。
好ましいという言葉の範囲は広い。
「どの意味でしょう」
「今、それを説明させるのか」
「曖昧なまま承諾するのは危険です」
「では、少なくとも部下としてだけではない」
セドリックは視線を逸らした。
「君が断れば、私がしばらく気まずい思いをする。それだけだ。役職や待遇には影響させない」
「記録に残しますか」
「必要なら残す」
「冗談です」
口にしてから、リディア自身が少し驚いた。
セドリックも目を瞬かせる。
「今のは、冗談だったのか」
「おそらく」
「成長したな」
「評価基準が不明です」
リディアは招待状を見る。
仕事とは関係がない。
役に立つ保証もない。
断ったところで、不利益もない。
以前なら、受ける理由がないと判断しただろう。
「承知しました」
「本当に?」
「一度だけです」
「十分だ」
「ただし、会場で水路の話題が出た場合は答えます」
「止めはしない」
セドリックが安堵したように笑った。
その笑顔の意味を、リディアはまだ正確には理解できない。
だが、分からなければ尋ねればいい。
リディアは紙袋から焼き菓子を一つ取り出した。
半分に割り、片方をセドリックへ差し出す。
「私のために買ったのではなかったのですか」
「量が多いので」
「そういうことにしておこう」
二人で焼き菓子を食べている間にも、机の報告書は減らなかった。
けれどリディアは、すぐには次の頁を開かなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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