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「今後は新しい婚約者様へお任せください」――侯爵家を支えていた令嬢は、婚約破棄されて静かに去る

作者: 珈琲猫
掲載日:2026/07/11

「リディア・クローデル。君との婚約は、本日をもって解消する」


 侯爵家の大広間から、歓談の声が消えた。


 事情を知らない楽団だけが、軽やかな舞曲を奏で続けている。


 百を超える視線の中心で、エドガー・ヴァレンティンは胸を張っていた。


 金糸で飾られた紺色の礼服。隙なく整えられた金髪。その腕には、桃色のドレスをまとった令嬢が寄り添っている。


 リディアは二人を見比べ、革鞄の持ち手を握り直した。


「確認してもよろしいでしょうか」


 エドガーが顔をしかめる。


「この場で言い訳をするつもりか?」


「いいえ。婚約解消は、ヴァレンティン侯爵家の正式な決定でしょうか。それとも、エドガー様個人のご判断でしょうか」


「同じことだ。僕はいずれ侯爵家を継ぐ」


 本来なら、同じではない。


 婚約は両家の契約であり、現当主の承認もなく、次期当主の一存で解消できるものではなかった。


 もっとも、それを説明して聞き入れる顔ではない。


「承知いたしました。侯爵家の正式なご判断として承ります」


 リディアが頭を下げると、広間のあちこちで衣擦れの音がした。


 泣き崩れると思われていたのだろう。


「それだけなのか?」


 エドガーの声には苛立ちが混じっていた。


「ほかに確認すべきことがございますか」


「君はいつもそうだ」


 エドガーは吐き捨てるように言った。


「冷たく、可愛げがない。婚約者である僕がどれほど歩み寄っても、君は帳簿や使用人の話ばかりだ。僕を愛しているようには、とても見えなかった」


 歩み寄られたことがあっただろうか。


 領地の収穫祭へ同行すると約束した日に、彼は王都の観劇へ出かけた。


 彼の名で提出する報告書を夜通し整えた翌朝には、字が地味だと笑われた。


 熱を出して寝込んだ日には、見舞いではなく、薬草園の収支表を取りに来た。


 それでも、婚約したばかりの頃には一度だけ、倉庫の管理方法を見直したリディアに、エドガーは笑って言ったのだ。


『君なら安心して任せられる』


 リディアは、それを信頼だと思った。


 だから三年間、できる限りのことをしてきた。


 胸の内側に、細い針を刺されたような感覚が残った。


 契約を一方的に破棄されたことへの不快感なのだろう、とリディアは判断した。


「エドガー様のおっしゃるとおりなのでしょう」


「認めるのか?」


「愛情については、私には適切な測り方が分かりませんので」


 エドガーの隣で、令嬢が小さく笑った。


「だから僕は、心から寄り添ってくれるロザリーを選ぶ。彼女は君と違って、僕の苦労を理解してくれる」


 ロザリーは頬を染め、エドガーの腕へ身体を寄せた。


 先月、侯爵家が主催した慈善茶会で、菓子代を倍額にして請求してきた商会の娘である。


 請求は差し戻したはずだが、エドガーが再び商会を出入りさせたらしい。


 確認しなければ。


 そう考えてから、リディアは思い直した。


 もう、自分の仕事ではない。


「承知いたしました」


 リディアは革鞄を開いた。


 夜会には不似合いな鞄だったが、港湾倉庫の報告書と、現在委任されている権限の一覧を持参していた。


「それでは、婚約解消に伴い、私に委任されていた権限を返上いたします」


「権限?」


「家政管理、取引商会との代理交渉、南部薬草園の運営、港湾倉庫の検品、使用人の採用および配置変更に関する権限です」


 エドガーは、つまらなそうに眉をひそめた。


「そんな細かい話は明日でいいだろう」


「婚約者でない人間が侯爵家の財産や契約を扱うことはできません」


「誰も君を疑ったりはしない」


「疑われる余地を残すべきではありません」


 リディアは権限の一覧と確認書を差し出した。


「こちらへ、私から権限が返還されたことを認める署名をお願いいたします」


「今ここで?」


「婚約解消も今ここで行われましたので」


 広間のどこかで、笑いをこらえる気配がした。


 エドガーの頬が赤くなる。


「分かった。書けばいいんだろう」


 彼は書類を奪い取り、内容も読まずに署名した。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


 最後の書類を受け取ると、リディアは署名を確認し、紙を重ねた。


「確かに受領いたしました。引き継ぎ資料は、侯爵家の執務室へ置いてあります」


「引き継ぎ?」


「一昨日、港湾倉庫の北棟で異臭が確認されました。地下水への混入を防ぐため、明朝までに排水路を閉鎖してください。薬草園では灰斑病の疑いがあります。感染株を分け、使用した器具を――」


「もういい!」


 エドガーが声を荒らげた。


「最後までそんな話か! 僕は君との婚約を解消すると言っているんだぞ!」


 リディアは説明をやめた。


 引き継ぎ資料の最初の頁にも、赤字で書いてある。


 読めば分かるはずだった。


「失礼いたしました」


 書類を鞄へ戻し、礼をする。


「エドガー様。三年間、お世話になりました」


「待て。まさか、今後は侯爵家の仕事をしないつもりか?」


 リディアは顔を上げた。


「当然かと存じます」


「君も、あの仕事にはやりがいを感じていただろう。婚約がなくなったからといって、すべて投げ出す必要はない」


 広間が、今度こそ静まり返った。


 エドガーは本気で言っている。


 婚約者としては必要ない。


 しかし、帳簿を整え、商人と交渉し、使用人を管理する役目は続けてほしい。


『君なら安心して任せられる』


 あの言葉の意味を、ようやく理解した。


 信頼ではない。


 彼にとって面倒なものを、都合よく預けられるという意味だったのだ。


「申し訳ございません」


 リディアは答えた。


「今後は、新しい婚約者様へお任せください」


 ロザリーの笑顔が引きつった。


 リディアは二人へ背を向けた。


 扉へ向かう途中、窓ガラスを風が震わせる。


 今夜は雨になる。


 排水路が閉じられなければ、北棟の汚水は地下水路へ流れ込むだろう。


 だが、注意事項は残した。


 その先を判断する権限は、もう自分にはなかった。


     *


 正門前に待たせていたクローデル伯爵家の馬車へ乗り込むと、御者が振り返った。


「ずいぶんお早いお戻りで」


「予定が変わりました。屋敷へ戻ってください」


 御者は何か尋ねたそうにしたが、黙って手綱を取った。


 馬車が動き出す。


 リディアは革鞄から署名済みの書類を取り出した。


 紙の端が一枚だけ折れている。エドガーが乱暴に扱ったためだ。


 指先で折り目を伸ばしかけ、手を止めた。


 侯爵家へ提出する書類ではない。


 きれいに整え直す必要は、もうなかった。


 雨筋に遮られ、侯爵家の明かりが見えなくなる。


 屋敷へ着く頃には、雨脚が強くなっていた。


 父であるクローデル伯爵は、書斎で手紙を読んでいた。


「早かったな。具合でも悪いのか」


「婚約を解消されました」


 伯爵の手が止まった。


「何だと?」


「エドガー様が夜会の席で、ヴァレンティン侯爵家の正式な判断として宣言されました。こちらが、権限返還の確認書です」


 机へ書類を置く。


 伯爵は一枚ずつ確認し、顔を険しくした。


「侯爵はその場にいたのか」


「いいえ」


「本人の承認は?」


「確認できておりません。ただしエドガー様は、ご自身の判断と侯爵家の判断は同じだとおっしゃいました」


「同じなものか」


 伯爵は書類を置いた。


「なぜ、その場で侯爵を呼ばせなかった」


「エドガー様に意思を変える様子はありませんでしたので」


「本人の意思だけの話ではない。これは両家の契約だ」


「存じております」


「ならば――」


 伯爵はそこで言葉を止めた。


 リディアの顔を確認するように見つめる。


「お前は、戻りたいのか」


 問い方が変わった。


 エドガーが発言を撤回し、侯爵が謝罪し、婚約が元に戻ったとする。


 その後、自分は再び帳簿を整え、使用人を配置し、エドガーの名で報告書を提出するのだろう。


 彼はそれを、婚約者が当然行う仕事だと思い続ける。


「いいえ」


 口にすると、その答えは思いのほか自然に収まった。


「婚約を続けたいとは思いません」


 伯爵はしばらく黙っていた。


「そうか」


「はい」


「ヴァレンティン侯爵には、私から抗議する。正式な解消と賠償についても話をつける」


「お願いいたします」


「お前は、しばらく休め」


「体調に問題はありません」


「体調だけの話をしているのではない」


 伯爵は額を押さえた。


「私は、お前が侯爵家で何をしていたのか、正確には知らなかった。先ほどの権限だけでも、婚約者の範囲を超えている」


「必要なことを処理していただけです」


「それを、やりすぎだと言っている」


 責められているのか、心配されているのか、リディアには判断しにくかった。


 自室へ戻ると、机の上には水路と感染症について書かれた研究書が置かれていた。


 頁を開く。


 同じ行を三度読んだ。


 文字は理解できるのに、その先へ進めない。


 侯爵家にいれば、この時間には翌日の食材費を確認し、欠員の出た使用人の配置を考え、港から届いた報告書へ返事を書いていた。


 机の上には、処理すべき書類が一枚もない。


 リディアは本を閉じた。


 静かな部屋に、雨音だけが続いていた。


     *


 翌朝、ヴァレンティン侯爵家の食卓には、冷えたパンと薄い茶が並んでいた。


「料理長はどうした」


 エドガーが尋ねると、給仕をしていた若い侍女は視線を伏せた。


「昨日、退職いたしました」


「昨日?」


「以前から退職を申し出ておりました。後任が決まるまで残るよう、リディア様がお願いされていたそうです」


「なら、後任を雇えばいい」


「採用を担当していた侍女頭も、今朝、退職いたしました」


 向かいでは、ロザリーが硬いパンを小さくちぎっている。


「使用人が二人辞めただけでしょう? そんなに困るものですの?」


「そのとおりだ」


 エドガーは呼び鈴を鳴らした。


 すぐには誰も現れなかった。


 二度目で、ようやく老執事が食堂へ入ってくる。外套の肩が雨に濡れていた。


「どこへ行っていた」


「港湾倉庫でございます」


「朝食より優先する用事か?」


 執事は一呼吸置いた。


「北棟の床下へ、汚水が流入いたしました」


 エドガーの手が止まる。


「排水路を閉じればよかったのではないか」


「閉鎖の指示が出ておりませんでした」


「引き継ぎ資料に書いてあったはずだ」


「はい」


「なら、なぜ実行しなかった」


「排水路の閉鎖には、港湾管理者の決裁が必要です。リディア様が権限を返上された後、新しい決裁者が指定されておりませんでした」


「執事長が判断すればいい」


「私には港湾設備を停止する権限がございません」


「非常時だぞ」


「権限のない者が独断で倉庫を停止すれば、損害の責任を負うことになります」


 これまでなら、リディアが報告を受け、必要な担当者へ指示を回していた。


 倉庫には検品係がいる。排水設備には管理人がいる。水門には王家側の担当官もいる。


 それぞれ働く人間はいるのに、報告を集めて決断する者だけがいない。


「被害は」


「北棟の穀物の一部が汚染されました。王家の管理官が水門を閉鎖し、周辺の井戸も検査が終わるまで使用禁止となります」


「新しい穀物を買えばいい」


「その件で、穀物商が面会を求めております」


 応接室で、穀物商は一枚の契約書を差し出した。


「今後の納入は、前払いでお願いいたします」


「これまでは月末払いだったはずだ」


「リディア様が代理人を務めていた期間だけです」


「代理人が変わるだけで、なぜ条件が変わる」


「支払い管理の方法が変わるからです」


 穀物商は古い記録を机へ置いた。


「三年前まで、侯爵家からの支払いは平均して二十日遅れていました」


「そんな話は聞いていない」


「リディア様が担当者と支払日を定めてから、遅延がなくなりました」


 確かに三年前を境に、支払い日の欄が揃っている。


「同じ方法を続ければいい」


「では、責任者はどなたでしょうか」


 エドガーは答えられなかった。


 続いて、薬種商が口を開いた。


「南部薬草園からの出荷も停止いたします」


「灰斑病の話か」


「感染株の隔離は?」


「庭師に任せている」


 同行していた職人が首を横に振った。


「園長は、新しい運営責任者の判断を待っております。今朝の時点で、感染株は別の区画にも広がっていました」


「リディアは、こういうことをすべて自分で決めていたのか」


 薬種商が静かに答えた。


「いいえ。分かる者の意見を聞き、記録を残したうえで、ご自身が責任を負っておられました」


 エドガーは執務室へ向かった。


 机の上には、リディアの引き継ぎ資料がある。


 最初の頁には、赤字で四項目が書かれていた。


 北棟の排水路閉鎖。


 汚染時の連絡先。


 薬草園の感染株隔離。


 返上後の暫定責任者選定。


 最後の項目には二重線が引かれ、その下に候補者の名と、任せられる範囲まで記載されていた。


 読んでさえいれば、防げた問題ばかりだった。


     *


 同じ日の午後、王家の紋章をつけた馬車がクローデル伯爵家を訪れた。


 来訪者は、南部港湾都市を預かる第二王子セドリック・アルヴェインだった。


 応接室へ現れた彼は、華美な装飾のない濃灰色の上着を着ていた。王族というより、官吏か軍人に近い。


「突然の訪問を詫びる」


 形式的な挨拶を終えると、セドリックは港湾倉庫北棟の見取り図を机へ置いた。


「昨夜、君が警告していた問題が起きた」


「住民への影響は」


 リディアは真っ先に尋ねた。


「現時点では確認されていない。王家の管理官が水門を閉じ、周辺の井戸を封鎖した」


 リディアは息を吐いた。


 セドリックは、その反応をしばらく見ていた。


「君の引き継ぎ資料も確認した」


「殿下が直接ですか」


「以前から、港湾倉庫の改善報告には目を通していた。作成者の名はなかったが、今回の資料と書式が同じだった」


 婚約を解消された令嬢を、思いつきで訪ねてきたわけではないらしい。


「それで、私に何をお求めでしょうか」


 セドリックは別の書類を差し出した。


「南部港湾で、衛生管理官として働いてほしい」


 リディアは書類を受け取った。


 役職。


 給与。


 予算。


 決裁権限。


 責任範囲。


 いずれも具体的に記載されている。


「かなり大きな権限です」


「必要だと判断した」


「私が失敗した場合、責任はどなたが負われますか」


「最終責任は私だ。ただし、君自身の過失があれば、それは別に問う」


 妥当な回答だった。


「婚約を解消されたばかりの令嬢を登用すれば、ヴァレンティン侯爵家との対立を招きます」


「人事を決める際に、エドガー・ヴァレンティンの感情を考慮する必要はない」


「私を利用し、侯爵家を牽制する意図は」


「ないとは言わない」


 即答だった。


「だが、それだけなら別の人間を雇う。君を選んだ理由は、君の記録を読んだからだ」


「誰が書いたか分からなくとも、有能な人間の仕事は分かる」


 リディアは契約書を最初から読み直した。


「本日中に確認し、明朝お返事いたします」


「急がなくてもいい」


「急いでいるのは、南部港湾のほうではありませんか」


 セドリックは一瞬黙り、口元を緩めた。


「そのとおりだ」


 翌朝、リディアは責任範囲に関する修正を二点加えたうえで、契約書へ署名した。


     *


 それから三日間、ヴァレンティン侯爵家の問題は増え続けた。


 ロザリーの父親が営む商会は、穀物、薬草、布類を一括して調達できると申し出た。


 提示された金額は、以前の四割増しだった。


「緊急時ですから」


 商会長は愛想よく笑った。


「多少高くなるのは仕方ありません」


 エドガーは迷った末、契約書へ署名した。


 届いた穀物は、北棟へ運び込めなかった。汚染区域として封鎖されており、代わりの倉庫も確保されていなかったからだ。


 荷馬車は雨の中で止まり、保管料だけが増えていった。


 薬草園では感染株が半分近くまで広がった。


 屋敷では退職を保留していた使用人たちが、次々に辞表を出した。


 エドガーが机の書類を払い落とす。


「なぜ、誰も判断しない!」


 執事長は床に散らばった紙を見下ろした。


「判断する権限をお持ちなのは、エドガー様です」


「なら、先に説明すればいいだろう!」


「説明は、引き継ぎ資料にございます」


 その夜遅く、領地からヴァレンティン侯爵が戻った。


 執務室へ入るなり、散乱した報告書と新しい契約書を確認する。


「これは誰が結んだ」


「ロザリーの父上です。急ぎでしたので」


「以前の四割増しだぞ」


「緊急時です」


「その緊急事態を招いたのは誰だ」


 エドガーは黙った。


 侯爵は権限返還の確認書を拾い上げる。


「これに署名したのか」


「はい」


「内容は読んだか」


「実務上の細かな権限だと思っていました」


 侯爵は古い組織図と、リディアが作った新しい組織図を机へ並べた。


 古い図には、幾つもの線が複雑に交差している。


 新しい図は、驚くほど単純だった。


「三年前、この家では、誰もが自分の担当外だと言って判断を避けていた。倉庫、薬草園、商会、使用人。それぞれが別々に動き、報告は途中で止まっていた」


 侯爵は新しい組織図を指でなぞった。


「リディア嬢は、誰に報告し、誰が判断し、誰が責任を負うかを整理した。自分で全部を処理したのではない。人が働ける仕組みを作ったのだ」


「それなら、別の者へ任せればよいでしょう」


「誰に任せる」


 エドガーは答えられなかった。


「リディア嬢へ謝罪しろ」


「侯爵家からは、すでに書状を送ったはずです」


「家としてではない。お前自身の謝罪だ」


「戻ってきてもらうためですか」


 侯爵は息子を見た。


「まだ、そう考えているのか」


 ロザリーとの縁談は認められなかった。


 父親の商会についても、慈善茶会の過大請求と今回の契約を調査することになった。


 その夜、エドガーは引き継ぎ資料を最初から読み直した。


 報告先。


 判断基準。


 想定される損害。


 緊急時の代替案。


 余白には、担当者の得意不得意まで書かれている。


 倉庫管理人は慎重すぎるが、数字に強い。


 薬草園長は経験豊富だが、病害については専門家の確認が必要。


 執事長に港湾業務まで兼任させないこと。


 リディアは、この家の人間が働けるよう、見えない部分を整えていた。


 それでもエドガーは、資料を読み終えると、わずかに安心した。


 ここまで詳細に残している。


 本当に侯爵家を見捨てたかったわけではない。


 自分が謝れば、理解してくれるはずだ。


 これまでも彼女は、最後には自分の都合を受け入れてきた。


     *


 翌日、エドガーは先触れを出したうえで、クローデル伯爵家を訪れた。


 応接室へ通されてから、しばらく待たされた。


 以前なら、リディアはすぐに現れた。


 帳簿を確認している途中でも、使用人と話している最中でも、エドガーを待たせることはなかった。


 やがて扉が開く。


 リディアは、飾り気のない紺色の服を着ていた。腕には書類の束を抱えている。


「お待たせいたしました」


「仕事か」


「はい」


 向かいの椅子へ座る。


「本日は、どのようなご用件でしょうか」


 他人行儀な言い方だった。


「謝りに来た」


「何についてでしょう」


 問い返されるとは思っていなかった。


「婚約解消のことだ。夜会で、君の説明を聞かなかったことも悪かった」


「そうですか」


「侯爵家では、いくつか問題が起きている」


「存じております」


「知っているのか」


「港湾倉庫については、王家の管理官から報告を受けました」


「それなら、放っておけないだろう」


「住民への影響については、放っておくつもりはありません」


 侯爵家については、と言わなかった。


「父上も、君の働きを高く評価している。僕も、これまで君がしていたことを理解した」


 リディアは答えない。


「だから、戻ってきてほしい」


 ようやく本題を口にすると、エドガーは肩の力を抜いた。


「婚約については、両家でもう一度話し合えばいい。ロザリーとの縁談は、父上も認めないと言っている」


「なかったことにされるのですか」


「正式な婚約を結んだわけではない」


「では、夜会での宣言には、どのような意味があったのでしょう」


「感情的になっていたんだ」


「エドガー様は、感情的になれば婚約を解消する方だということでしょうか」


「そういう言い方をするな」


 声が強くなる。


「僕は間違いを認めている」


「どの点についてでしょう」


「君の働きを軽く見ていた」


「はい」


「侯爵家にとって、君が必要だったことも分かった」


 リディアは視線を落とした。


「やはり、そうなのですね」


「何がだ」


「エドガー様がお困りになったから、私が必要になったのだと」


「違う」


 否定したものの、その先が続かなかった。


 侯爵家で問題が起きなければ、自分はここへ来ただろうか。


「君は、あの仕事を好んでいただろう」


「仕事そのものは嫌いではありませんでした」


「ならば、元に戻せばいい」


「働く場所は、侯爵家でなくても構いません」


 エドガーは机の上の書類へ目を向けた。


 銀の鷹の印章が押されている。


「その書類は何だ」


「南部港湾の衛生管理官としての任命書です」


「第二王子からか」


「はい」


「断るつもりはないのか」


「すでに承諾しました」


「僕たちの話が終わる前に?」


 リディアが顔を上げる。


「婚約は、エドガー様が終わらせました」


「だが、両家の正式な手続きはまだ――」


「正式な手続きを待つべきだったと、今になってお考えなのですか」


 エドガーは言葉を失った。


「王家は、君を利用するつもりだ」


「その可能性については、殿下にも尋ねました」


「何と答えた」


「侯爵家への牽制という意図も、まったくないとは言えないと」


「なら、やはり――」


「ですが、私の仕事を必要とする理由も、条件も、責任も明確でした」


 リディアは任命書へ触れた。


「誰が何を成し遂げたかも、記録に残してくださいます」


「婚約者同士なら、いちいち報酬や記録を求めるものではないだろう」


「私も、そう思っていました」


 エドガーは身を乗り出した。


「ならば」


「ですが、何も求めなかったからといって、何も与えなくてよかったわけではありません」


 リディアは三年間、感謝も報酬も求めなかった。


 エドガーは、それを必要がないのだと思っていた。


「僕は、これからは君を評価する」


「今まで評価されなかった理由は、何でしょう」


「知らなかったんだ」


「知る機会は、なかったでしょうか」


 答えられなかった。


 彼女が何をしているか尋ねる機会など、いくらでもあった。


「私は、エドガー様を恨んでおりません」


 その言葉に、希望を感じた。


「だったら、やり直せるだろう」


「いいえ」


「なぜだ」


「恨んでいないことと、信頼できることは別だからです」


 リディアはエドガーを見た。


「私は、二度とエドガー様の判断に、自分の人生を預けたくありません」


 時計の音が、やけに大きく響いた。


「僕は謝った」


「はい」


「それでも許さないのか」


「許しています」


 怒鳴られるよりも、その返答のほうが堪えた。


 許している。


 だからこそ、もう何も求めていない。


「本日の話は以上でしょうか」


 リディアが立ち上がる。


 窓の外から、馬車の車輪の音が聞こえた。


 王家の紋章をつけた馬車だった。


「迎えが来ましたので、失礼いたします」


「待て」


 呼び止めたものの、続ける言葉がなかった。


 愛している。


 そう言えばよいのかもしれない。


 だが、自分が欲しいのが彼女なのか、彼女が整えていた生活なのか、エドガー自身にも分からなかった。


 リディアは一礼し、応接室を出ていった。


 卓上には、彼女が口をつけなかった茶が残っていた。


     *


 南部港湾へ移って、三か月が過ぎた。


 窓の外では、封鎖されていた共同井戸の周囲に人が集まっている。


 今朝、水質検査の最終結果が届いた。


 使用を再開しても問題はない。


 広場では地区管理人が、新しい取水規則を住民へ説明していた。異臭や濁りを見つけた際の連絡先も掲示されている。


 リディアは報告書の最後に署名した。


 作成者の欄には、水路技師、検査官、地区管理人の名が並んでいる。


 南部へ来てから、セドリックは報告書に関わった者の名を必ず記録させた。


 現場の視察にも同行したが、リディアの判断へむやみに口を挟むことはなかった。疑問があれば尋ね、納得できなければ理由を求めた。


 そのやり取りを、リディアは心地よいと思い始めていた。


「昼食は取ったか」


 声に顔を上げる。


 執務室の入口に、セドリックが立っていた。


「まだです」


「昨日も同じ返事を聞いた」


「昨日とは別の日ですので」


「そういう問題ではない」


 セドリックは机の端へ紙袋を置いた。


 港近くの店で売られている、蜂蜜入りの焼き菓子だった。


「賄賂ですか」


「管理官を倒れさせないための経費だ」


「経費として処理するなら、領収書が必要です」


「私費だ」


「では、なぜ私に」


 尋ねると、セドリックは少し考えた。


「君に食べてほしかった」


「理由になっていません」


「私にとってはなっている」


 理解しにくい回答だった。


 だが、嘘をついているようには見えない。


「あとでいただきます」


「今ではないのか」


「報告書を一つ終わらせてからです」


「一つだけだな」


「内容によります」


 セドリックは諦めたように息を吐いた。


「もう一つ、頼みがある」


 差し出されたのは、南部の領主たちが集まる晩餐会の招待状だった。


「衛生管理官としての出席でしょうか」


「いや」


「では、どのような立場で」


「私の同伴者として」


「業務上の目的は」


「ない」


「政治的な目的は」


「まったくないとは言わない」


 不都合な意図まで否定しないところは、以前と変わらない。


「ただ、それだけではない」


 セドリックは続けた。


「君と、仕事以外の話をしてみたい」


「なぜですか」


「君を好ましく思っているからだ」


 リディアは返答できなかった。


 好ましいという言葉の範囲は広い。


「どの意味でしょう」


「今、それを説明させるのか」


「曖昧なまま承諾するのは危険です」


「では、少なくとも部下としてだけではない」


 セドリックは視線を逸らした。


「君が断れば、私がしばらく気まずい思いをする。それだけだ。役職や待遇には影響させない」


「記録に残しますか」


「必要なら残す」


「冗談です」


 口にしてから、リディア自身が少し驚いた。


 セドリックも目を瞬かせる。


「今のは、冗談だったのか」


「おそらく」


「成長したな」


「評価基準が不明です」


 リディアは招待状を見る。


 仕事とは関係がない。


 役に立つ保証もない。


 断ったところで、不利益もない。


 以前なら、受ける理由がないと判断しただろう。


「承知しました」


「本当に?」


「一度だけです」


「十分だ」


「ただし、会場で水路の話題が出た場合は答えます」


「止めはしない」


 セドリックが安堵したように笑った。


 その笑顔の意味を、リディアはまだ正確には理解できない。


 だが、分からなければ尋ねればいい。


 リディアは紙袋から焼き菓子を一つ取り出した。


 半分に割り、片方をセドリックへ差し出す。


「私のために買ったのではなかったのですか」


「量が多いので」


「そういうことにしておこう」


 二人で焼き菓子を食べている間にも、机の報告書は減らなかった。


 けれどリディアは、すぐには次の頁を開かなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


初投稿作品です。楽しんでいただけましたら、評価や感想をいただけると今後の励みになります。

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― 新着の感想 ―
リディアが仕事出来ただけではなくエドガーが何も出来ないから侯爵家が困窮したのでエドガーの能力を考えれば男爵レベルなのかもしれない。
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