第1話 どん底のバランスシート
第1話 どん底のバランスシート
迷宮都市アルトナの南区は、雨が降るたびに腐った木と泥の臭いが混ざる。
石畳の隙間には黒ずんだ水が溜まり、夕方になると、酒場帰りの冒険者たちの怒鳴り声が路地に反響した。通りの奥、ひときわ古びた三階建ての建物の看板が、風に揺れて軋む。
――アトリエ・ラパン。
塗装は剥げ、うさぎの絵は半分消えていた。
「だから、待ってくださいって言ってるじゃないですか!」
若い女の声が響いた。
キースは足を止めた。
開け放たれた扉の向こうで、金髪の少女が大柄な男に胸ぐらを掴まれている。室内には湿った布の匂いと、冷えた灰の臭いが漂っていた。
「待つぅ? こっちは慈善事業じゃねえんだぞ、エミリちゃんよぉ」
男は下卑た笑みを浮かべる。
胸元には大手ギルド『鉄血の牙』の赤い徽章。
「借金の返済期限は明日だ。払えねえなら、この建物も設備も全部いただく。契約書にもそう書いてある」
「でも、こんなの……! 最初の話と違います!」
「違わねえよ。お前がちゃんと読まなかっただけだ」
男の背後で、取り巻きたちがげらげら笑う。
少女――エミリは唇を噛み、震える指で書類を握りしめていた。
その時だった。
「その契約書、見せてもらえますか」
低い声に、全員が振り向く。
キースは雨に濡れた外套を脱ぎながら、静かに店へ入った。革靴の底が床を鳴らす。
「なんだてめぇ」
「通りすがりです」
「だったら関係ねえだろ」
「ありますよ」
キースはエミリの手から契約書を抜き取った。
羊皮紙に目を走らせた瞬間、眉がわずかに動く。
――酷い。
返済利率、担保条項、自動延長契約、違約金。
前世で何度も見た。
経営ではない。弱者から資産を吸い上げるためだけに作られた契約だ。
「月利四%……?」
キースは呟いた。
「担保は工房設備と土地。返済不能時には人材契約まで移譲。随分と悪質だ」
「はっ、合法だぜ」
「合法と正当は違います」
「うるせぇな」
男が舌打ちする。
「この雑魚ギルドはよ、戦えねぇ役立たずしかいねぇんだ。俺たちが面倒見てやってたんだよ」
奥でびくりと肩を震わせた青年がいた。
煤だらけのエプロンを着た気弱そうな男だ。
「お、俺たちは……」
「黙ってろマルコ!」
怒鳴られ、青年は縮こまる。
さらに奥には、眠たそうな少女が床にしゃがみ込み、薬草を選り分けていた。細い指先が根を傷つけないよう、丁寧に泥を払っている。
キースはその手つきを見た。
無駄がない。
異様に繊細だ。
「……なるほど」
「あ?」
「いや、失礼。少し驚いただけです」
キースは再び帳簿へ目を落とした。
机の上には古い会計帳簿が積まれている。紙は湿気で波打ち、インクも滲んでいた。
「見ても?」
「好きにしろよ。どうせ終わりだ」
男は嘲笑う。
キースは椅子へ腰掛け、帳簿をめくった。
瞬間、脳裏に数字が組み上がる。
月商百二十万G。
固定費百八十万G。
さらに借入利息が毎月四十万G。
完全な赤字。
いや、それだけじゃない。
不自然に高い材料仕入れ。
相場の三倍近い魔石。
指定業者。
鉄血の牙系列。
逃げ道のない構造。
「……はは」
思わず笑いが漏れた。
「な、なんだよ」
「これは酷い」
キースは帳簿を閉じた。
「これは経営じゃない。搾取だ」
室内が静まり返る。
エミリが恐る恐る口を開いた。
「わ、わかるんですか……?」
「ええ」
キースは淡々と言った。
「このギルドは利益を出せないよう、最初から設計されている。高額仕入れで利益を削り、返済不能に陥ったところで資産と人材を奪う。実に効率的だ」
男の顔が引きつる。
「て、てめぇ……」
「特に酷いのはここですね」
キースは契約書の一文を指差した。
「返済不能時、所属職人の契約権を譲渡する。つまりあなたたちは、この子たちを最初から奴隷として売る気だった」
「違っ……!」
「違わないでしょう」
静かな声だった。
だが冷たい。
男は一歩後ずさる。
キースは視線をエミリへ向けた。
少女は泣きそうな顔で立っていた。
「君がギルドマスターですか」
「……はい」
「どうしてこんな契約を?」
「み、みんなを食べさせたくて……っ」
声が震える。
「依頼が減って、薬草も売れなくなって、それで……鉄血の牙が融資してくれるって……」
「読めなかったんですね」
エミリが俯く。
「……文字が、難しくて」
キースは息を吐いた。
前世でも何度もいた。
真面目で、責任感が強くて、人を信じやすい人間ほど食い物にされる。
男が吐き捨てる。
「ま、明日には全部終わりだ。せいぜい最後の夜を楽しめ」
取り巻きたちが笑いながら出ていく。
扉が乱暴に閉まり、工房が静寂に包まれた。
雨音だけが響く。
エミリはその場へ崩れ落ちた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「エミリさん……」
マルコが駆け寄る。
だが彼女は首を振った。
「私のせいで……みんな……」
誰も何も言えなかった。
薄暗い工房。
湿った空気。
冷え切った釜。
売れ残った薬草。
だがキースは、その空間をゆっくり見渡した。
棚に整理された針道具。
寸分狂わず積まれた布。
薬草の切断面。
火床の灰の状態。
――いる。
ここには、本物の職人がいる。
埋もれているだけだ。
キースは静かに笑った。
「面白い」
「……え?」
エミリが顔を上げる。
キースは帳簿を閉じ、立ち上がった。
「このギルド、僕が買い取ります」
全員の動きが止まった。
「……は?」
「三ヶ月で黒字化する」
雨音が強くなる。
キースは淡々と言った。
「あなたたちの技術なら十分可能だ」




